【週俳3月の俳句を読む】
雑読考
瀬戸正洋
栗の苗木の枝にバッタが刺さっていた。鵙の速贄だ。バッタは干からびて、いつのまにかなくいなっていた。地面から五十センチほどの高さだった。ここまで雪が積もるのも困るなどと思ったりもした。だが、雪は降ることも、積もることもなく四月になった。
寒禽の糞に水晶体二粒 榮 猿丸
食べなければ水晶体が二粒あることはわからない。寒禽は眼球を食べたのである。調べなければ糞に水晶体が二粒あることはわからない。確かに、寒禽の糞を調べたのである。誰が何のために調べたのかはわからない。
引越しトラック路上に毛布積み上ぐる 榮 猿丸
毛布は引っ越した先の路上にある。この毛布は暖を取るためのものではない。こころを傷つけないためのものである。毛布は家財というあたらしい生活をはじめるための思い出を運んできたのである。思い出とは、私たちのうしろを、同じ間隔で、同じスピードで、同じボリームで、すこしの狂いもなくついて来るものである。
天窓の落葉溜りや駅舎に日 榮 猿丸
駅舎の高い天井には窓がある。見上げると青空が見える。窓の桟には落葉が溜っている。そこから日が差し込む。風が吹くたびに落葉の影が揺れる。あたかも、幸福の前ぶれのように。スポットライトがさしこんでいるような待合室。
屑籠に捨て風船やなほも浮く 榮 猿丸
ヘリウムガスがほどよく残っている。何れ、萎んで屑籠に落ちてしまう。その屑籠の底に落ちるまでの間、風船は風船であろうとしている。健気だと思う。かくありたいと思う。
春の夜や湯船に女煙草吸ふ 榮 猿丸
たばこのけむりと湯のけむりとが混じりあっている。女のうしろすがたが見える。部屋付きの露天風呂、たとえば、箱根は塔ノ沢あたりの温泉宿。春の夜かぜはおとこのこころもおんなのこころも怠惰にする。
春浅しぽとぽととクリームパスタ 佐藤智子
ぽとぽととクリームが落ちている。落ちているのはクリームの意思なのである。春も浅ければお皿も浅い。クリームがパスタのうえにぽとぽとと落ちる。それはパスタを食べ終るまで繰りかえされるのだ。パスタがなくなってしまえばしめたもの。クリームは自由を得た。クリームパスタでなくなったクリームは自分自身を知るためにどこへ行くのか。何をしたいと願うのか。
春蜜柑そうしてたくてそうしてます 佐藤智子
誰に言われたのではなく自分の意思で動いている。多少の迷いはあるということなのかも知れない。たとえば「蜜柑」ならば自信を持って実行に移しているとなる。「春の蜜柑」とは収穫ののち、冬を越した蜜柑なのである。糖度は増すが、その分、頼りなさそうな、意志の弱そうな感じがする。意思の弱いにんげんが何かをするとき「そうしてたくてそうしてます」と言ったりして。
ラテ欄に蜂や平気で恋をする 佐藤智子
恋をするのは命がけなのである。刺せば死ぬのである。ニュースであろうとドラマであろうと、ろくでもないうわさ話であふれているのが世の中。開け放たれた窓のカーテン。風とともに蜂が入ってきた。愛することと違い、恋することはお気楽なものなのだ。「いのち短し恋せよ老人」などと口ずさむ。蜂もにんげんも碌な死に方はしないのが世の中。
かまぼこに山葵すわりのわるい昼 佐藤智子
やきとり屋のカウンターに腰かけ、板わさとビールを注文する。神奈川県は西のはずれの観光地。かまぼこも名産、山葵も名産である。やきとり屋であろうと、居酒屋であろうと、ここは午前十一時開店。昼から、おいしいお酒が飲めるのだ。昼からこころをほぐすことができるのだ。すわりがわるいと感じるのは、罪悪感のあるこころとカウンターの椅子。
春郊や日時計と気づかずにいる 佐藤智子
オブジェだと思い通り過ぎてしまった。気付かなかったのである。おだやかな日差しはたっぷりとふりそそいでいる。おしゃべりに夢中になり通り過ぎる。気づいたのはその場所を去ったあとのバスの中。過去の自分は他人。思い出しているのだ。故に、気づかずにいるという表現になる。
春眠や渚につどふさくら貝 丑丸敬史
春の夜にここちよく眠っているのは海なのである。ここちよく眠っているから「さくら貝」の貝殻も安心して渚に打ち上げられたのである。暑くなってもいけない。寒くなってもいけない。「さくら貝」の貝殻は、春の夜でなければ渚につどうことはないのだ。
序破急に初蝶の野となりたるよ 丑丸敬史
序破急とは進行の速さの変化。それは、太陽の、風の、野原の変化のことなのである。蝶はただそこにいるだけのこと。蝶の分際で何ができるというのだ。初蝶であること、初蝶の野であること。それらの全ては、太陽と風と大地の恩恵なのである。蝶にとっては何の関係もない。蝶もひとも、ただただ、自然に従えばいいのだ。
長芋を春の入江に差し込まん 丑丸敬史
長芋を差し込んでみればいいのだ。何故、長芋なのか、何故、差し込んだのか。その理由が理解できるはずだ。できなければ終日、春の入江にたたずめばいいのである。ひとを知るということは、そういうことなのである。そのひとと同じことをやってみればいいのである。
牛の舌春の大地はなめされて 丑丸敬史
牛の皮をなめすのはひとである。大地をなめすのは春の太陽と雨と風。作為などなくひたすらなめすのである。繰りかえすごとに夏の大地となり、秋の大地となり、冬の大地となる。はじめに、牛を見たこと、牛の舌を見たこと。全てはそこからはじまっている。
蒟蒻を煮ただけ二月がもう終わる 伴場とく子
謙遜なのである。他人からみれば、たわいもないことかも知れないが、本人にとっては蒟蒻を煮ることは人生の全てだったのである。一カ月の間、そのことだけに集中していたのだ。故に、あっという間に、二月が終わってしまったのである。理想的な生活を送ったということになる。
梅咲いてたんぽぽ咲いてでも寂し 伴場とく子
自分が自分であることを知ることは寂しいことなのである。梅が咲いたから寂しいのである。たんぽぽが咲いたから寂しいのである。誰かが親切にしてくれるから寂しいのである。あなたが私を愛してくれたから寂しいのである。
どうかしたかと春のメールは優しく来 伴場とく子
愛の反対は無関心。「どうかしたか」と尋ねてくれたら、それだけでもうれしいのだ。電話でもない、手紙でもない、メールであることがいまどきのやりかた。春はわかれの季節、きびしさなどは真っ平なのである。ひとはやさしくなければならない。
三月の割り印を押し捨て印も 伴場とく子
三月とあるので「賃貸借契約書」の捺印なのかも知れない。「委任状」「覚書」...。子どもの「賃貸借契約書」であるなら「**保証人」もやむを得ない。捺印、割り印、捨て印、書類のあちこちに朱肉の赤色。まるで、テストを返されたときのような。視覚で自分のこころをごまかす。何の役にもたたないだろうが。
寂しさがあとひいている四月かな 伴場とく子
三月はわかれの季節である。クラス替え、卒業、転勤...と。四月とは、かっぱえびせんのことなのである。寂しさとはかっぱえびせんのことなのである。何も逆らうことはない。四月は寂しさを全身であじわえばいいのである。八十八夜を過ぎた頃、生ビールのよこにはかっぱえびせんの小鉢をおき。
てのひらにけむりのごとく菫〔ヴィオレッテ〕 西原天気
てのひらにある菫は、けむりなのである。疑ってはいけない。菫をてのひらに置いてみればいいのだ。けむりであるということを理解するはずだ。もしも理解できないとしたら、菫の声が聴こえないのである。菫の声が聴こえるまで、菫をてのひらに置いておけばいいのだ。
春雨や灯のほとはしる土瀝青〔アスファルト〕 西原天気
土瀝青の舗道に灯が勢いよく飛び散っている。これは、春の雨が灯や土瀝青のこころを刺激した結果、灯がそのような仕儀に至ったということなのである。春雨には意思がある。灯にも意思がある。当然、土瀝青にも意思がある。自然現象であろうとひとが拵えたものであろうと、ひとはやさしく接しなければならないのである。
春の夜の洋琴〔ピアノ〕のごとき庭只海〔にはたづみ〕 西原天気
洋琴と庭只海、このふたつのものには違和感がある。春の夜とすると違和感はなくなる。俳人は、聴覚から得た音色等、つまり、音楽も、視覚から得たかたち、色等の空間的な情報もことばにしなければならない。洋琴とは視るものなのである。庭只海とは聴くものなのである。春の夜は、それを正しく導いてくれる。
莫大小〔メリヤス〕にくるまれて海おもふなり 西原天気
莫大小にくるまれているのは赤ん坊なのである。くるんでいるのは伸縮する肌色の布地。抱いているのが誰であってもかまわない。ただ、母親であればいいと思う。母親の微笑み、莫大小のなんともいえない肌ざわり、あどけない赤ん坊の寝顔。幼きころ遊んだふるさとの海の夕ぐれが目の前にひろがる。
北窓をひらきアイロン立てておく 木田智美
形状記憶ワイシャツ、超形状記憶...と便利な時代になった。この時代に北窓を開くのである。アイロンを立てておくとはアイロンを使うことだ。北窓を開くと、こころも開放される。たまにはアイロンを使ってみようと思ったのである。あたらしい何かをしようとするのではなく、しばらくやっていなかった何かをしてみようと思ったのである。春になったのだから。
チューリップにやにや笑う星野源 木田智美
チューリップの球根が届く。暗い事務所でも、すこしぐらいはあかるくなるだろうとメモが添えてあった。職員をホームセンターへ行かせ、プランターと培養土を買う。プランターに培養土だけだとさびしいからと花も買って植えた。その花は二月以上も咲き続けている。そのせいか、チューリップは短い茎のまま花を開いた。にやにや笑っている星野源。このチューリップ、そんなふうにも見えないこともない。
ふとん屋の看板猫の名はさくら 木田智美
立派な看板を掲げているふとん屋がある。その店先を猫が通りすぎる。猫の名はさくらだという。ふとん屋の猫といえば、その商店街では有名で誰もが知っている。その猫の名はさくらだという。立派な看板を掲げているふとん屋がある。その店先を猫が通りすぎる。その猫といえば、さくらといい商店街では有名な猫なのである。
たんぽぽの綿のよくつく子ども服 木田智美
子どもは、誰からも愛されて、すくすくと育つ。着ている服にも愛情は十分にそそがれる。たんぽぽの綿とは、自然のやさしさと、その家族の愛情のことなのである。たんぽぽの綿は子どもの服にいくらでもつけばいいのだ。子どもは健やかに育つ権利があるのだ。
蒲公英、菜の花、子どもたちに黄色い花は何故か似合う。彼らが被る帽子も黄色だ。菜の花畑で遊んでいるのは、近くの保育園の子どもたち。背が低いので隠れてしまう。菜の花畑から、黄色い帽子を被った子どもたちがぞろぞろ出て来たときは、こんなにおおぜいの子どもたちが遊んでいたのかと驚いてしまった。西のそらにはゆりかごのようなうすい三日月がぼんやりとうかぶ。
2017-04-09
【週俳3月の俳句を読む】雑読考 瀬戸正洋
■丑丸敬史 ふるさとに置き忘れたる春に寄す歌 10句 ≫読む
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