自由律俳句を読む 156
「橋本夢道」を読む〔4〕
畠 働猫
前回に引き続き、橋本夢道の句を鑑賞していく。
▽句集『無礼なる妻』(昭和29年)より【大正13年~昭和29年】
【三十代】
せいちゆう四万の妻の子宮へ浮游する夜をみつめている 同
どうしても自分は榎本俊二の『えの素』という漫画を思い浮かべてしまう。
擬人化された精子たちが「わー」と言いながら卵子へ向かっていく場面だ。
こうした表現も映画的であり、本来見えない世界を描写している点が特徴的だ。
おそらく夢道は映像で思考する傾向があり、知識や伝聞が「見えるもの」に変換されるのだろう。
山が紅葉しそめたそうな月末の机の抽斗 同
この句も山の紅葉は伝聞である。
月末の抽斗にには支払いを請求する書類が詰まっているのか、あるいはからっぽなのか。そうした現実を前に、伝え聞く紅葉の様子が映像的に浮かんでいる。
おいら娘を売つたまでよ、今年も日照らぬ田よ寒むかんべ 同
父をののしつて社会はわたしを売り買いする 同
農村部の女性とその親の現実を描写したものである。「社会」という巨大なものへの批判は変革を求める叫びである。両者の視点から詠まれていることで、労働階級の現実を多層的に表現している。
しかしどこか他人事に感じるのは作為が過ぎるからであろうか。
資本主義社会の童話しかない国の絵本さがしてやる 同
「資本主義社会の童話しかない」までを「国」にかかるものと考えれば、資本主義社会に童話しかないというのは、それくらいしか価値あるものはない、ということか。そうした国の絵本を子のために探しているということは、それでもその世界の夢や希望を子に与えたいと思う親心なのか。
資本主義社会のすべてを否定するのではなく、美しいものは美しいと言える夢道の芸術家としての誠実さが表れている句と言えるだろう。
この銃口から父がおろおろ小作稲刈る手もとが見えた、瞬間 同
以前にも取り上げた句である。
この描写こそまさに映画である。
銃口を覗く者と父とは当然同じ場所にいるわけではない。
遠く戦地において人を殺すための銃口を覗いた瞬間に、ふと我に返ったものか。
あるいは銃口の先に、父と同じ年頃の農夫を見ているのかもしれない。
一つの物語がここから始まるようでもあり、ここで終わるようでもある。
玩具にされたようなその値に父の形相が沢庵石を投げて庭が凹んでいる 同
娘を売った父のその後であろうか。
しかしこの句は冗長である。
自らの思い描いた映像を正確に伝えたいという気持ちが描写を過多にしてしまっている。「父の形相」は語らずとも「庭の凹み」で伝わったかと思う。
渡満部隊をぶち込んでぐつとのめり出した動輪 同
この句も映画的である。
満州へ進軍する部隊を載せた列車が動き出すその瞬間に焦点が当てられている。
こちらも「銃口」の句同様に、物語の最初、あるいは最後を思わせる。
思えば、瞬間とはあらゆる物語の始まりであり、終わりであるのだから当然のことか。
この瞬間から、兵士としての物語が始まり、この瞬間に家庭に生きる男の物語が終わったのだ。
ここで泣く背中の子を汗ばんであやしている兵 同
これも物語である。兵が他者か自身かはわからない。
人を殺すことを命じられる兵士の手が、今は命を慈しんでいる。
その思想が色濃く反映された映像化であるように思う。
蛇が枝から垂れて百姓あつく働き喘ぐ息 同
スイッチを入れると機械が生きて俺と鋼鉄を削る夜だ 同
潜水服を着て降りん赤ん坊は生まれたろうか 同
これらの句にも働く者の姿を伝えようとする強い意志を感じる。
どれも過酷な労働である。
しかしその描写には、過酷さだけでなく、どこかあまやかなロマンチシズムが感じられる。そこに描写される過酷さは、労働の喜びと対になるものとして描かれている。労働者として生きる者の自然がそこには表現されているのである。
ここに、同じくプロレタリア俳句の中心人物であった栗林一石路との対比が見られるように思う。
かぶと虫を手にこの少年の父いくさして還らず 同
「背中の子を汗ばんであやし」た父とはまた別の父親の人生がここに描かれている。どちらの父も戦争という現象の前に無力に奪われていく。
夢道の思想は明確に戦争を憎んでいた。
そうした姿勢は、のちの俳句事件において弾圧の対象となっていく。
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恋を「光」、労働を「力」として詠うことは、おそらくは夢道の自然であったのだと思う。それが時代の流れの中でプロレタリア俳句という形をとることが使命となっていったのではないか。
その使命とは、語る力を持たないものの姿を伝えるということであった。
それが知識や伝聞に根差した「見えない・見ていないもの」をも素材として映像化する句を生み出していったのだろう。
上でも触れたが、同じく「プロレタリア俳句」の中心であった栗林一石路とは、その視点、創作の源泉が異なるように思う。
例えば一石路の次の句を見てみよう。
シャツ雑草にぶつかけておく 栗林一石路
ここに見られる労働への視線は、その過酷さ、炎天下の苦しさへ注がれている。
夢道のようなあまやかさはない。
二人の句はともに「プロレタリア俳句」と呼ばれるが、その根源にある思想は大きく異なっている。
一石路を衝き動かしたものはジャーナリズムであり、夢道を支えたものはロマンチシズムであったと私は思う。だからこそ映画的な句が生まれたのだと。
これに続く四十代の句は、俳句弾圧事件による入獄中の句で始まる。
見えないものをもそのロマンチシズムで自由に詠いあげていた青年が、獄中の何も見るもののない世界で何を詠むのか。そして出獄し終戦後の世界で何を詠むのか。もはや労働の喜びも使命感もそこには読み取ることができない。
先週からこの稿を綴っていたが、この入獄という断絶がその句に与えた意味と変化をうまく消化できずに、一度原稿の完成をあきらめた。
その四十代の句を次回に回すことにして、とりあえずここまでの鑑賞を終えたい。
次回は、「橋本夢道」を読む〔5〕。
※句の表記については『鑑賞現代俳句全集 第三巻 自由律俳句の世界(立風書房,1980)』によった。
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