【週俳4月の俳句を読む】
雑読々
瀬戸正洋
おん背中墨つけ給ふ寝釈迦かな 堀下 翔
涅槃図の諸貝に毛の描かれある 同
円丈に似たる兎や涅槃図に 同
ものをつくるとは経験をこころのなかで整理していく作業だ。涅槃像を彫った、あるいは、涅槃図を描いたひとも自分のこころを整理したのだ。彫り上げたとき、描き終わったとき、はじめて、この現実を受け入れることができたのだと思う。背中に墨をつける。諸貝には毛が描かれ、円丈に似た兎も描く。はじめは、個人的なことだったに違いない。このことは何もかもが偶然だったはずだ。必然であるほど薄っぺらいことはない。偶然には根拠や理由がない。そのうしろには、ひとのちからではどうすることもできないおおきな何かが控えている。
雑魚居るや吹かるゝ如く春水に 堀下 翔
宿の人靴下ぬれし紫木蓮 同
春になり水嵩の増した川や沼に小魚たちが群れている。その群れて泳ぐすがたをながめながら、あたかも、風に吹かれているようだと感じた。その風に吹かれている雑魚は自分であるという自覚がある。たかがにんげんの分際で何ができるのだと考えている自分がいる。サンダルを履いたまま水しごとを終えロビーへ戻って来た。靴下が濡れていることに気付く。気持ちが悪いと思う。紫木蓮の花は靴べらに似ていると思う。
木蓮の鋭き蕾芽が噛める 堀下 翔
蕾とは花の咲く寸前のもの。それを鋭いとした。芽とはこれから枝になるもの、それが噛むのである。つまり、蕾と芽は愛し合っているのだ。俗に言えば「あなたが噛んだ。小指が痛い」(「小指の想い出」有馬三恵子)ということになる。作品が「俗」なのではない。読む私が「俗」なのである。
雑読とは、見るともなく、眺めるともなく、ひたすらにそれを繰り返すことだ。その果てに何かが見えてくる。その見えてきたものを、ことばにして書き留めることだと思う。たとえ、それが「俗」の極みだとしても。
沈丁とまんさく混じり青かりし 堀下 翔
鯉食うて竹の秋とは川つめた 同
沈丁の花もまんさくの花も青くはない。沈丁の葉は緑である。沈丁の花もまんさくの花も満開。雨があがったあとに、それらの全てに青空が映ったのかも知れない。樹木は秋に紅葉するが竹は春に紅葉する。秋には、筍が育ち若葉を茂らせる。竹は天邪鬼なのである。鯉の旬は冬、鯉のあらいは夏である。川に竹の葉が散っている。川のつめたさを感じる。
篁に蜂あつまりて濃うなりぬ 堀下 翔
篁とは竹が盛んに生えているところ。そこへ蜂が集まってきている。竹と蜂とは関係が濃いのである。竹は竹に恋をして、蜂は蜂に恋をする。当然、竹は蜂に恋をし、蜂も竹に恋をしているのだ。
恋をすると、そのひとを知りたくなる。そのひとを知るとは、そのひとを知ろうとする自分を知ることだ。
焚けのこりたる菜の花に露滂沱 堀下 翔
菜の花が自分で自分に火を点けたのか何故か。刈り取ったあと、すこし、乾かせば、ぱちぱちと音をたてて燃える。翌朝、燃え残った菜の花は朝露でびっしょりと濡れている。それでも、菜の花はぱちばちと音をたてて燃え続けているのは何故か。
そとうみに澪の失せたる薊かな 瀬名杏香
遠く離れた海では水路を見つけることはできない。見つけることのできないものを見つけようとすることを徒労という。足元には薊が咲いている。それだけで、十分に幸福だと思う。
蜜蜂の重みに花のしたがへる 瀬名杏香
藤の花揺らげる陰に舸子憩ふ 同
花びらの沈むさまなのである。花は蜜蜂に蜜を与えるだけではなく蜜蜂に何もかもしたがうのだ。嫌なやつはいくらでもいる。逆らっても仕方のないことはいくらでもある。そんなときは、うつむいたままやり過ごすに限る。藤の花が揺れている。その下で舸子がからだを休めている。藤の花はからだばかりではなくこころにも休息をあたえてくれる。
県庁よりホースの伸ぶる万愚節 瀬名杏香
晴るる春水ポロシャツの学芸員 同
県庁には水が蓄えられている。ホースとホースリールも備え付けられている。ホースが延びるのは県庁の意思なのである。にんげんが、ホースを、あるいは水を操っているなどと思うことは不届き千万なのである。蛇口をひねるとホースはくねくねと動き出す。万愚節だったのでいつもよりおおきく、くねくねと動き出す。晴れている日の荒々しい川の流れ。そこにポロシャツの学芸員がいる。何故、学芸員がいるのか。何故、学芸員はポロシャツを着ているのか。知らないことは世の中にいくらでもある。
清明や大水槽のうへに橋 瀬名杏香
橋の下におおきな水槽があることに気付く。おおきな水槽があったから、そこに橋を架けたのだということに気付く。清明とは、字のごとく清く明らかなこと。動植物ばかりではなく、おおきな水槽にも、そのうえに架かっている橋にも、清新の気がみなぎっている。
屋根に絵や繁殖賞受賞の春 瀬名杏香
日本動物園水族館協会に加盟する園館で、飼育動物の繁殖に成功し、かつ、それが国内ではじめてであったものに与えられるというのが繁殖賞。その栄誉を知ってもらうために、動物園、あるいは、水族館の屋根に受賞動物の絵を飾る。春は繁殖の季節なのである。そこには、にんげんには知ることのできない愛の世界もある。
噴水の其れ及ばざる花に蝶 瀬名杏香
其れ及ばざる花とは噴水が届かず濡れていない花のこと。其の花に蝶がとまっている。其れ及ぶ花とは、いつも濡れている花ということ。そんなところの花が咲くはずもなく蝶がいるはずもないと思うことは間違いなのである。花はどこにでも咲く。蝶はどこにでもいる。にんげんはどこにでもいる訳ではない。
果ててなほ綱の乾ける牛合はせ 瀬名杏香
遠足に歌はるる地の奇巌濡れ 同
牛合はせのとき綱は乾いているものなのである。牛合はせが終わってもその綱はまだ乾いたままだ。牛合はせのとき、綱は、濡れているものなのか乾いているものなのか私は知らない。何故、終わったあとも、綱が乾いているのかも私は知らない。遠足のまえにガリ版刷りの歌集をみんなで作る。遠足の前、教室で歌い、遠足の日にも歌う。遠足が終わってしまえば歌うこともない。珍しいかたちのおおきな岩が濡れている。その前に立ち、おおきな声で歌う。
台湾にて吾を追ふ髭のゲイの春 関 悦史
髭のゲイに追われて不快なのである。ひとに好かれることは悪いことではない。むしろ、よいことではあると思っていても、困るものは困るのである。たとえば美しいご婦人に追われたらどうなのだろう。それも困るのである。つまり、追われるということは困るということなのだ。
紋白蝶にみなまみれゐる写生会 関 悦史
写生をしているこどもたちに紋白蝶がまみれている。写生をしているこどもたちを、あるいは、写生会、そのものを紋白蝶が汚していると感じたのである。日本ならば、写生会と紋白蝶といえばのどかで、ほほえましい風景であり、まみれゐるとは言わないだろう。台湾の紋白蝶は生体が違うのかも知れない。
謎めく瓶詰食ひサングラス売る女 関 悦史
サングラス売りの女なのである。瓶のなかの得体の知れないものを食べている。瓶詰の食べものだけではなくサングラス売りの女も謎めいている。人生は謎めいていなければならないのである。
油埃縒り垂らす台南の扇風機 関 悦史
豚や鶏を焼いたり、揚げたり、燻しているようなところの扇風機なのかも知れない。油は絡み合いながら垂れている。この油埃は、豚や鶏の怨念なのである。うつくしい花を咲かせるのは怨念だなどとよく言われるが、このようなところにも顔をのぞかせることもあるのである。怨むこと怨まれること。それを念じること念じられること。そのことに疲れ果てたとき、はじめて私たちに平和な社会が訪れる。
亜細亜にてマネキン並び黴び始む 関 悦史
洗練されていないマネキン、洗練されていない衣服、いかにも亜細亜らしいファッションセンス。それが並んでいる。作者の眼の中をがさごそと黴が侵食していく。台湾の旅をこころから楽しんでいないのかも知れない。
揚げ蟋蟀食む人混みを夜空ぬくき 関 悦史
揚げた蟋蟀とアルコールが胃のなかで遊んでいる。食事のあと街を散策する。たびびとにとってスタンダードな過ごし方なのである。街もからだもこころも温い夜空ににつつみ込まれている。
身命といふ春闇のアジアかな 関 悦史
アジアの東の端の日本国で生まれ、そこで暮らしている私たちは日本人である。これは宿命なのである。日本語を使い考えるしか方法がない。日本を離れたからこそ日本人であることを自覚したのだ。身命について思いを巡らす。異国の闇のそこここにも春の息吹が感じられる。
ネオンぎらつく関帝廟内朝を霞み 関 悦史
商売のかみさまなのでネオンがぎらついていてもおかしくはない。横浜中華街の関帝廟界隈を酔っぱらってふらふら歩くことは多々ある。中華街大通りからすこし外れた場所にあるので寂しいと言えなくもない。内朝とは、宮中で、天子の起居する部屋である。霞むとは、よく見えないということである。「内朝を霞み」とは、宮中で、天子の起居する部屋が、よく見えないということである。
厨房春朝女屈むは犬と話す 関 悦史
女は中華包丁を持っているのかも知れない。屈んで犬と話しているのだから、この女の前世は犬だったに違いない。厨房で朝食の準備をしている女のもとに犬が近寄ってくる。女は前世とは関りを持ちたくないと思っている。だが、犬は女と前世の思い出を語り合いたいのだ。不衛生だなどと言ってはいけない。犬とにんげんとを比べてみれば、どちらのこころが薄汚れているかなどということは考える必要もないほどあたりまえのことなのである。
飛行機に乗つて地球に倦みて春 関 悦史
地球に疲れたのである。地球に飽きたのである。飛行機に乗ることに疲れたのである。飛行機に乗ることに飽きたのである。季節は春。飛行機に乗ってそのことを実感したのである。飛行機から降りてそのことを実感したのである。
隠遁の楽師あつまる桑の花 小津夜景
俗世間からのがれて暮らすことを隠遁という。桑の花の咲いている下は俗世間ではないということだ。そこへ楽師があつまり銘々の楽器を奏でたのである。桑の花は満開となり散っていく。そのあと、あの甘酸っぱい桑の実が生るのである。
木の板のうすくひびくは鳥雲に 小津夜景
北へ帰る渡り鳥が雲の彼方へと去っていく。何を失ったのであろうか。木の板は厚くても薄くてもどちらでもいいのである。叩くとうすくひびく。それでいいのである。
龍天にのぼるオルガン組み果てつ 小津夜景
龍が天に昇ってあめを降らすとはずいぶんと大げさなことである。オルガンを組むとは、オルガンを組み立てることなのか。それとも、移動のための木枠を組むことなのか。どちらにせよ、このオルガンからメロディーは生まれない。あめとかぜだけが、あたかも楽曲のように流れはじめる。
いつせいに虹を帯びだす醜女かな 小津夜景
醜女と言われたら立つ瀬はないだろう。いっせいに、虹を帯びることができたとしても、それが何になるのだ。幸せであるか、不幸であるか、それは、人生のすべてなのである。醜女であろうとなかろうと、はじめの一歩は、自分を知るところからはじまるものなのである。
さかづきや調度のごとく沈丁花 小津夜景
沈丁花とは日常使う身のまわりの道具なのである。さかづきとは酒宴、あるいは酒杯のこと。沈丁花とは、酒宴につかう道具のことなのである。テーブルの片隅の一輪挿しに沈丁花を投げ込む。お酒のかみさまは微笑んでいる。
引き鶴を仕込みし甕にござりけり 小津夜景
北方へ帰ることは教えなければならない。これが、そのことを教え込んだ甕であるという。鶴は鶴から学ぶことは間違いなのである。にんげんも、にんげんから学ぼうなどと思ってはいけない。にんげんに帰る場所などあるなどと思うことは間違いなのである。
利き手ではない手で触るる櫃の花 小津夜景
かぶせ蓋のついた箱、その蓋に花の紋様が塗ってある、あるいは、彫ってある。櫃の花とは工芸品のことなのである。それを利き手ではない手で触れる。右の手なのか左の手なのか。意識して触れたということが、ただひとつの事実である。にんげんは無意識の場合は利き手で触れるものなのである。
うす睡りして休止符のあたたかし 小津夜景
休止符があたたかいのだ。休止符があたたかくなければ休止符を見つけたにんげんがのこころがあたたかいと感じるはずがない。うす睡りだからいいのである。熟睡ならば休止符のあたたかさなど感じることはできないだろう。
また逢へる日の戸を醸すかもじぐさ 小津夜景
どちらからともなく外す春の虹 同
再会を予感させるような雰囲気のある出入口。みどりいろのかもじぐさがそれを引き立たせている。会話を楽しんでいた。春の虹を見つけた嬉しさで、ふたりの頭の中は春の虹のことでいっぱいになる。会話のなかに春の虹という第三者が割り込んできたのである。会話はちぐはぐなものとなり、何故か、ものたりなさを感じてしまった。ふたりの会話によけいなものはいらない。
畳まれて子の高さなる春日傘 上川拓真
さへづりに遅れピピピと体温計 同
子の成長を喜んでいる。春の日傘を畳んだときに気付いたのである。つまらないことに気付いたななどと思う。些細なことが何と幸せなことなのかとも思う。春の日差しと、すこしの街の騒めき。なぜか元気がない。おでこに手をやるとすこし熱っぽく感じる。体温を測る。囀りが部屋の中にまで入ってくる。体温計のピピピという音。医者へ行こうか行くまいか迷っている。
夜の蒲公英が電灯に集まりぬ 上川拓真
電灯のあかりがたんぽぽを照らしている。あたかも、たんぽぽの意思によりたんぽぽが電灯のまわりに集まって来たように感じた。確かに、道ばたや野原で、同じ向きに咲いているたんぽぽをながめると、蟹のように這っているのだと思えない訳ではない。闇はひとのこころを変にまどわす。
遊郭より蝶一匹の放たるる 上川拓真
乳母車落花の中に残さるる 同
遊郭とは何と古風な呼び名であることだろう。そこから、一匹の蝶が放たれるのである。だれが放ったのだろう。なんのために放ったのだろう。そんなことを考えているうちに、一篇の通俗小説のストーリが動き始める。乳母車には誰も乗っていないのである。花の精に誘われた母と子は、あちらこちらをさまよっているのである。落花の中に残された乳母車こそ、この母と子が現世に戻る場所なのである。
おほさじの砂糖を均す昭和の日 上川拓真
「昭和の日」とは、昭和天皇崩御ののち「みどりの日」となり、現在は、このように呼ばれている。「砂糖」とは何を象徴しているのか。かつて、「私のことが『左』であるなら、世の中が右傾化しており、『右』であるなら、世の中が左傾化している」と言った文学者がいた。サラリーマンにとっては、ゴールデンウィークのはじめの日であるということがすべてなのである。
まだ小さき浅蜊を還すちひさき手 上川拓真
教えなければ子はこのようなことはしない。にんげんらしく生きるとは真似をすることだ。笑うことを真似、何かをつかむことを真似、立って歩くことを真似る。スプーンで食べることを真似、言葉を交わすことを真似、ひとを愛することを真似る。
俳人は他人の俳句を真似し尽して、全く新しい自分だけの俳句を作る。
いつせいに遠足子散る関ヶ原 上川拓真
その先は家鴨の吊るさるる朧 同
いっせいに子どもたちが自由行動に移る様を、すこし高いところから眺めている。四百十数年前のできごとに思いをはせている。歴史に触れるとは、このような個人的な些細なことが切っ掛けになるのかも知れない。店の軒先には家鴨が吊るされている。その吊るされた家鴨は、はっきりとは見えずかすんでいる。おいしいものを食べようとするとき、にんげんは残酷にならなければならない。血の臭いのかすかに漂う薄ぐらい路地。
春惜しむ一筆で鳥描き足して 上川拓真
春は出会いや別れの季節、何かをはじめる、何かを終わらせる季節でもある。みだれたこころを癒すために、ひとは何らかのアクションを起こす。このひとは、絵が得意だったのだろう。
芸術で倫理を殴れ殴れ殴れ 野名美咲
ずいぶんとストレートな言い方だ。怪獣だから、これでいいのかも知れないが、それにしても過激だと思う。「すこし揺すれ」程度でいいのかも知れない。もしかしたら、芸術でないものを芸術だと思うひとが増えてきた現代を風刺したかったのかも知れない。
シマウマの白に付箋を貼りまくれ 野名美咲
付箋とは一時的に貼り付ける小さなメモ紙のことである。それをシマウマの白いところに貼りまくれというのだ。メモの内容はどういったものなのか。シマウマの白い毛に貼ることは困難だろうから貼りまくれと、さらに気合を入れる。
どもれ人間!どおれいんれん!どぉーえにぎぇえ 野名美咲
どおれいんれん!どぉーえにぎぇえとは、怪獣の叫び声である。怪獣だと思って付き合うとにんげんであったり、人間だと思って付き合うと怪獣であったり、そんなことの多々ある世の中である。バラードとは、自由な形式の民衆的物語詩だという。
蝶々は喰いちぎったら少し苦い 野名美咲
蝶々は少し苦いのである。喰いちぎったから少し苦いのである。喰いちぎらなかったら苦くはないのである。「少し苦い」という表現のなかには、喰いちぎったもののこころの動き、つまり、痛みも含まれている。
パソコンに挟む資料や春のまち 野名美咲
珈琲店でノートパソコンにデータを打ち込んでいる。ひと区切りついたところで場所を変えようと思った。資料はファイルに入れてノートパソンに挟む。寒さのゆるんだ街を急ぎ足で歩きはじめる。
進めなめくじ芸術はお前のために 野名美咲
なめくじは私なのである。なめくじは怪獣なのである。作者は、自分自身に対して叱咤激励をする。「進ムベシ、芸術ハ私ノタメニ」
菜の花と折り畳まれし車椅子 野名美咲
菜の花畑を歩いている。何かいいことのあるような、そんな気持ちに誘われて車椅子から降りて歩きだしたのである。舗道を歩くと木造りのベンチがある。せめて、そこまでは歩いてみようと思っている。
短夜の湯に浮かべたる洗面器 野名美咲
洗面器を湯に浮かべることは不要なことなのである。だが、浮かべてみたくなってしまった。何故、そう思ったのか、いくら考えてもわからない。このようなことは、日常生活のなかでは多々ある。ひとまず、短夜のせいしておけばいいと考えた。
麦茶少し残して席を立ちにけり 野名美咲
麦茶の香ばしさが漂っている。麦茶は喉を潤すだけではなくあの香ばしさがたまらなくいいのだ。いちばんはじめに立ったひとのコップには麦茶がすこし残っている。
どこの毛も伸びっぱなしの夏休み 野名美咲
誰の毛も何の毛もどこの毛も伸びっぱなしでいいのである。自然は無駄なことはいっさいしない。そんな贅沢は許さない。だから、毛は伸びっぱなしであってもいいのである。花火をしているときでも毛は伸び続けている。西瓜を食べているときでも毛は伸び続けている。もちろん、怪獣の毛も、人形の髪も伸び続けている。
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