ku+メンバーピッ句で遊ぶ
佐藤文香×福田若之×上田信治
佐藤 今日は元漫画研究会の上田信治さんと元美術部の福田若之さんに、クプラス各人のピッ句について語ってもらいます。よろしくお願いします。
上田 近世の俳画の伝統が、近代俳句以降途絶えている、ということが前提としてありますよね。現代の神経では「古池や蛙飛込むみづの音」に、なかなか、絵をつけにくい。広瀬惟然の「水鳥やむかふの岸へつういつうい」なら、つけやすいけど。
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うららかや犬の視線の先に猫 杉山久子
上田 この句は余白が多い句だよね。絵をつけやすい隙がある。
福田 いわゆる写生句よりは、滑稽味のある句、言葉遊びとかいわゆる「おばか俳句」みたいなのの方が絵がつきやすいなあというかんじはありますよね。
この句は犬の視線の先の猫に、うららかやという結構とぼけた季語がついてて、その余白がこの犬と猫の連なった輪郭線のイメージとよくあってる。文字の配置もかなり面白いです、「先に」まではすーっと読みくだすでしょう、そこから、「猫」にむかってぽーんと絵をまたぐ。ここにタメがあります。
上田 このピッ句のチャームポイント、犬一匹猫一匹じゃないところ。俳句は俳句の中で言っている内容と別の、言っていないことが成立しているかどうかが勝負ということがあります。
俳句をそのまま絵や写真で絵解きしてしまうと、その肝心の「言っていないこと」の邪魔になってしまうんですけど、このピッ句は、その弊を逃れている。
むしろイラストと俳句のずれの部分に、第三項のようなものが成立している。
こういう具合にいければ面白いんだよね、俳画って。
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新築やナイフに映る冬林檎 佐藤文香
上田 俳句が、家とナイフとりんごの三要素。それに対して絵は、おっきいやかんとちっちゃいラー油と栓抜き。三要素の関係という意味で、絵と句がパラレルになっている。佐藤さんはなんでこの句で書くことにしたの?
佐藤 私は具体物を描こうと思ったんですね。で、俳句も具体物を書いたものにして、どれも素材がかぶらない、というのを考えました。
福田 ひょっとして、これ、三つがそれぞれ対応してます? 新築というのは空間で、ポットは容器ですよね。どちらも中にものが入る。ナイフと栓抜きは金属でできた、どちらも台所にありそうな道具。
上田 映るっていう関係でちっちゃいもの2つが結びついてる。
福田 しかも、ラー油と冬林檎はどちらも赤。
上田 なるほど。ところで、れおなさんが言ってた、俳画は下手じゃなきゃダメっていうのはなんでだろう。その場で描くとか簡単に描くということかな、ちょこちょこっと座興として。
福田 昔のひとたち、お酒なんか飲みながら、興が乗るのにまかせて描いてそうなイメージありますよね。いや、あくまで勝手なイメージですが。
上田 昔の趣味人は、いろいろ腕に覚えがあるという人がいたんだろうね。
福田 文香さんのピッ句に話をもどすと、句が横書きなところも印象的です。さらっと横書きで書かれているかんじは、絵のかんじとあってる。
上田 美術部っぽいからじゃないですか。日本人の洋画のサインも、普通、横書きだし。
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身にしむといふは春もよ昼ねざめ 高山れおな
佐藤 高山さんより、「葛飾北斎の『己痴羣夢多字画尽』(おのがばかむだじえづくし )の中の絵を写しました。この本は、北斎先生が初心者のために制作した絵手本でございます。書き順の指示まであります。その通り写したのでございます。」とのことです。
福田 この絵、側頭部の生え際の感じはすこし男性っぽいような……。どっちでしょうか。
上田 遊女じゃないのかな。男だとしたら、流連の遊び人みたいなかんじ? れおなさんが自画賛としてこの絵をつけてきた、と思うと、なんとなく伝わるものがある。。
福田 絵手本の写しというのは、意図があるように感じます。句も、自分の句を書き写す作業があるわけでしょう。だから、句も写し、絵も写し。だから、ここでは句や絵自体の独創性ではなくて、絵と句の組み合わせが問題になってるわけですよね。合わせるっていうところにピッ句のある種の本質を見出して、そこに照準したやり方。
ところで、ここで写されている北斎の絵手本は、それ自体、複数の文字の組み合わせによって絵のかき方を表現しているんですね。この絵だと、たとえば、左腕のところは「氏」という字。で、髪は「叶」。ふすまの模様とかは別にして、輪郭線は、全部そんな具合に文字で構成されているわけです。だから、いま句と絵の組み合わせといいましたけれど、このピッ句において、絵と文字との境界は、ひそやかにかきみだされているともいえる。
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(e+πi)0=1 福田若之
上田 偽オイラーの等式なんだって?。
福田 はい。本当のオイラーの等式はeiπ+1=0というものです。表記する順番がπiだったりiπだったりするのはそれぞれ理由があるのですが、割愛。とにかく、オイラーの等式は、それぞれ非常に意義深い定数が、足し算、かけ算、累乗という基本的な演算で無駄なく結び付いているんですね。それで、数学史上最も美しい式と言われたりする。で、僕の書いた偽オイラーの等式は、そのオイラーの等式に擬態したもの。こっちは、数学的にみると無駄が多いんですね、ゼロ乗すれば、括弧に何が入っていても基本的には1になるわけですから。オイラーの等式に表れているような、真正なるものの唯一的な美に対して、擬態の美や、偽物の美、無駄の美などについて考えてみたくて。それは、いわゆる数学的な美しさとはきっと異質なものなんでしょうけど。
上田 これ前書きつくの?
福田 いや、分かる人にだけ分かれば。分かったところでさしたる意味もないですよ、たぶん。けど、そんな無意味な式でも、こういうふうにかまきりを思わせる筆跡のまとまりと合わせると、それが俳句に見えてくるんじゃないか。かまきりらしきかたちにまとまった無数の線をこの数式の隣に描いておくと、その筆跡の束が俳画に見えてくるんじゃないか。要するに、俳画に擬態した何かを書こうと思ったんです。今回提示された「ピッ句」という呼称も、チープさを狙っていて、もどき感があるので、それに合わせてみました。
上田 ぐらぐらしてるもの同士いいかんじに支え合う? それが俳画の伝統かもね。
俳句をやってない人から(殊能将之という作家の小説に出てくるらしいんだけど)「E=mc2秋の暮」はどうですか、と聞かれたときに、面白いけどよくある手なんだ、とこたえました。俳句の模型としてよくできているよね、という。
福田 ちなみに、「かっこいーたすぱいあいのぜろじょうはいち」と読むと、七七五の字余りで、中七下五にかけて句またがりをした韻律に乗ります。
上田 前書きはいるは、ふりがなはいるは、だね
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灯ともせば心うつむくをみなへし 生駒大祐
福田 この絵を見たときに思い出したのは、ソール・スタイバーグっていうアメリカのだまし絵的なイラストを描くイラストレーター。こんな絵を描く人です。
スタインバーグの人物が線に解体されていくのに似て、生駒さんの絵も、電球を構成する線が解体されて電球をおさえる手を構成する線になってる。ここに描かれてるのは電球とか手とかじゃなくて線なんだ、っていうのを意識させる絵ですよね。
電球は、句の「灯ともせば」という言葉のイメージと結びついているんですけれど、見方を変えるなら、この文字だって線でしかない。この線の束を「灯ともせば」と読んで灯りを想像するっていうのは、考えてみれば奇妙なことなわけですよ、少なくとも、添えられたこの線描を電球だと思うのと同じくらいには。要するに、文字と絵が線でできているという意味で等価である。どちらもあたかも絵であるように文字であるようにふるまっているが、つまるところ線なんだ、という。これは、さっきの高山さんの絵にも通じるところです。
上田 句は「をみなへし」のところで、外の世界へ開かれる。家に帰ってきて電気をつけた、あらためて孤独の中にある人が外の女郎花を思う、それが救いになっているという構造の句。でも、絵は上の12音に集中してるので、暗いよね。蛇の尻尾呑みみたいなもんでしょう。
福田 せつない……。スタインバーグの絵はユーモアとか笑いに通じている度合いが強いけれど、生駒さんの絵はそうではないわけですよね。ペーソスに通じている。
上田 まじでいいよね。
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路面を知り擦り傷黒き梨をもらふ 関悦史
上田 面白いなぁ。
福田 この句、韻律は五七五ぴったりじゃないけれど、段切りがきれいに上六・中七・下六の三行に分かれてるじゃないですか。これって、よく素人くさいっていわれる表記法でしょう。梨の絵の配置なんかも、ともするとありがちなキッチュになりかねない。というか、たぶん、そこを狙っているんでしょう。だけど……そこでですよ、この目っ!
上田 これがなかったらどうよ(と言って目を指で隠す)。俳画の絵ってイラストじゃないですか。意味と支えあうことによって成立するものでしょう。福田くんの言うこの目が、意味として突出してる。杉山さんの「こんなにいっぱいいたのかよ!」というのと同じで、余計なはみ出し部分があってうまく支えてる。この目は、関さんのトレードマークのオリビアの目でもあるし。
あと、関さんの俳句って、ときどき、わざとイラスト的なつくりになってるのがあるよね。言いすぎて意味がありすぎて何かある、という。同じことを絵でもやってくれている。
福田 「知り」のとこなんですよね、目に対応しているのは。句において、梨はまさに「知る」ことの主体として語られている。絵においては、目によって、その主体が表現されているというわけです。
上田 そうなのよ! この目は署名でもあるからね。どっちかというと、もらった語り手より、梨のほうがむしろ主体。マジなのは関さんも生駒くんも依光さんも同じなんだけど、関さんのはやっぱ変なユーモアがあるんだよね。
福田 認識の主体はすなわち目であるという発想は、俳句の文脈でいえば、「写生」が支配した近代俳句のありようと深いかかわりがあるように思われます。「秋風や眼中のもの皆俳句(高濱虚子)」。この関さんのピッ句は、そうした「写生」的な文脈における目の隠喩をふまえながら、それにたいする穿ちの態度によって、非「写生」的な句と絵のほうへ突き抜けていく。まさしくその抜け穴として、この眼孔があるのかもしれません。
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冬の蛾よ我は野面の石であつた 依光陽子
上田 似てるわ、句風と画風(と言ったら大げさだけど)絵と俳句の書きぶりがそれぞれ。面白い。
福田 これは句に即したものを並べてある。蛾の見切れてる感じがオシャレ。
上田 無意識の計算だと思うんだけど、光が飛んでるところと、蛾が見切れてるところね。冬の蛾こそがこの句のなかの非現実で呼びかけの対象なんだ、と見える。俳句だけ読むとそれは逆で、石は心理で冬の蛾はいるんだけど。
福田 キュンとさせられたのは、この赤い線。ここにこの赤が入ってるのが、印刷だとうまく伝わるかわからないですけど。細部の妙味です。
上田 蛾とビー玉みたいな光だけじゃ理に落ちるところを、赤の謎の筋で救ってるよね。みなさん、さすが、絵を描かせてもそう簡単に絵解きに落ちない。
福田 まず油性のクレヨンで赤い線をかいて、その上から水彩絵の具ですっと一刷毛いれているみたいですね。滲み方がそういうふうになっています。。
上田 枝とか地べた的なものだよね。現実と非現実というか具体と抽象が入れ替わるように描かれている。なかなか素晴らしいのではないでしょうか。この三連チャンはすごかったな。
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自動車はシンメトリーで冬の海 上田信治
上田 この句は自分としてはマジ。元は古谷利裕の「偽日記」というブログで見た、駐車場に車が停まってる写真から作った句だから、それを、また元にひっくりかえすのは面白いんじゃないかなと。
あと、ぼくは漫画とかアニメを生業にしているので、ここはコマ割りだろうと。
福田 今の話を聞いていて思ったのは、信治さんのなかで、この句と自動車のイメージそのものがもとから繋がっているから、繋がっているものを出すとこうなるということなんだろうなということでした。信治さんのなかでのこの句のあり方により近いものがピッ句に出ているんだろうなと。そこが興味深いです。
「自動車は」から「シンメトリーで」に移るときに、ちょっと引くかんじがオシャレですよね。余白が生きる。で、「冬の海」で「ザザッ」と。この句をパッと読んだときに浮かぶのは、一瞬を切り出した感じなんですけど、このピッ句だと動いている海とじっとしている車があるっていうのが、時間が取り返される感じがあって、それはコマ割りの力なんだろうな。と。
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ラグビーの胸ラグビーの腿の下 阪西敦子
佐藤 「大首絵にしました」と送られてきました。阪西さんはお母様が似顔絵作家なので、顔に対する思いがあるのではないでしょうか。
福田 大首絵って、浮世絵の顔のアップになってるやつのことでしょう、阪西さんはそれのバリエーションとしてこの絵を置いてるということですね。
上田 これはほんとに〈絵と言葉〉じゃなくて、〈絵〉だな、と思った。絹谷幸二だっけ。絵に文字をガリガリ書く人いるよね。字がとりこんである絵。
ラグビーの句って男性の肉体とか青春性を賛美する句が多くて、あまりいただけなかったけど、こうやってモロに体を出されると、わかりました、受け取りましたという気持ちになるね。
佐藤 阪西さんはラグビー部のマネージャーでした。
上田 このラガーの壮年ぶりはいいよね。「ラガー等のそのかちうたみじかけれ(横山白虹)」のラガーは学生ラグビーってかんじがするけど。
福田 そうですね、あとは、「ラグビーの頬傷ほてる海見ては(寺山修司)」なんか、完全にラグビー部。
上田 ラグビーの句ってエロいよねー。
福田 絵に壮年の雰囲気があるからかもしれないけど、この句はなんだかこの人の肌に彫り込まれた古傷のようなかんじがする。この俳句は、書かれてるとか記されてるっていうよりも、刻まれてるなぁってかんじがします。
上田 この絵の主人公はきっと肉体に対するフェティシズムとともに人生を送ってる。フランス語が書かれてるから、きっと海外遠征に行くような選手なんだな。絵の一部に句を彫り込むという、ピッ句のあり方ですね。
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狼よ誰より借りし傘だらう 山田耕司
上田 かっこええですなぁ。
福田 傘の部分は、写真を切り抜いてるようですね。写っているのは動物の毛なのかな。写真俳句の新しいかたちともとれる。
佐藤 狼の毛でしょうか。
上田 狼を連想させるような人の後ろ姿を見ているというような構図が浮かぶよね。狼はナルシズムを託す対象なんだな。あと「絶滅のかの狼を連れ歩く(三橋敏雄)」も念頭に置かなきゃかな。
福田 なんとなく意識の隅にありました。ああ、これは「真神」としての狼だよな、って。この句の狼は、金子兜太の狼よりは、三橋敏雄の狼を思わせますよね。切り抜きも文字も、荒凡夫的なごつごつした感じではなく、すっとしている。でも、それでいながら、芯のところに激しさがある。そのあたりが敏雄の句を思わせるんでしょうかね。
上田 ふだん傘なんか持たない人が、似合わない意外な傘を持ってるんで、その人が歩いてるのを見ながら、ああ、あの人だ、傘誰かに借りたんだ、という句。俳句には摂津さんとか三橋さんとか、いなくなっちゃった人がたくさんいるから、そういう人を思い出させるよね。
福田 字の線が、細いんだけど骨のあるかんじです。それが、傘の柄のかんじと響き合ってるなと。
上田 正中線が意識されている字なのかもしれない。字が上手い人はずるいな。
福田 ほんと、かっこいいですよね、これ。
上田 佐藤さんも字うまい。
佐藤 や、私はホワイトボードに書くのが一番いいぐらいです。
上田 ああ、そういやピッ句って、ホワイトボードに描いて消しちゃうのとかが一番いいありようかもしれないな。
福田 「文台引下ロせば則反故也(芭蕉)」みたいなことでしょうか。
上田 そうだね、座興としてこんなことしたらすごい楽しいっていう。それってずっと昔から続いてる本質だよね。だから、ここは銀漢亭にホワイトボードを設置するなどしていただいてだな。笑
佐藤 集まった俳人が描いては消す、みたいな。
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上田 イラストレーターさんに描いてもらったのを見るのがすごーく楽しみになってきたね。1号目の鴇田智哉さんの「上着きてゐても木の葉のあふれ出す」とかすごくよかったじゃないですか。
自分の句で描くと、すごくナルシスティックになりがちだよね。自句自解的な内容になったり。純粋読者の側から句を読んだ人の絵が、どうついてくるかは楽しみ。関さんのやつとかも別の人が描いたら多分違う絵になってただろうから。絵をつけることによって明らかになることもあるよね。
はじめに広瀬惟然の「水鳥やむかふの岸へつういつうい」とかはつけやすいって言ったけど、今だと西村麒麟さんとかがやるといいよね。「上手くいき鶯笛で人気者」とかさ(笑)
福田 「初めての趣味に瓢箪集めとは」に瓢箪じゃないものの絵を添えてみるのとか、いいかも。
上田 超時代的な可能性をはらんだ方法を、麒麟さんは確信犯でやってるから。
この、絵のつけやすい俳句にある空間とか隙というのはなんなんだろう。
福田 体感としては、句のしなやかさというか、しゅっとしたかんじのあるものは、そこが絵のつくための余白になってるかんじがある。必ずしも滑稽じゃなくてもいいんだな、という気がしました。例をあげるついでに少し振り返ってみると、たとえば、れおなさんのなんかは高等な滑稽ですよね。他方、山田さんのは、決して滑稽ではないんだけれど、しゅっとしていて、余白がある。
上田 すこし歌ってるかんじかもしれない。福田くんや関さんは、人間の自然な歌声を抑圧して、ごつごつしたところに重層性をつくるじゃないですか。
でも、すらっと歌ったところに気分のようなかたちでもう一個の項目が成立しているというのが、合わせやすいのかもしれないね。杉山さんも飄々としてる。あの人も面白いややこしい俳句も書くけど、人柄でぽんと立たせちゃうというのが近年は多いような気がするな。
新聞や雑誌で、活字で読むものという芸術として俳句はあって、僕らはここだけでどこまでもややこしくして見せるというつくり方で。でも、そうじゃない書き方ってあるよね。
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