2017-06-04

BLな俳句 第14回 関悦史

BLな俳句 第14回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第149号より転載

老残のこと伝はらず業平忌  能村登四郎『咀嚼音』

在原業平といえば放縦な美男子の代表で、これはそのポルトレ(肖像)のような一句である。業平は五十代半ばで死んでいるので、現代から見ればさほどの高齢ではない。当時の感覚としては、充分老人であったのだろうが(時代がだいぶ下るが『往生要集』や『徒然草』などでは四十歳は老人扱いである)、じっさいに「老残」を人目にさらす間もなかったのかもしれない。その点、老いさらばえてさすらった伝承を持つ小野小町などとは、少々事情が違う。

そもそも業平と聞いて、ただちにその老残を考える人は少ないはずで、大体は才気や色事のことしか連想できないのではないか。われわれにとっては、今や見慣れてしまった有名句ではあるのだが、「老残のこと伝はらず」というフレーズは業平というキャラクターを描くにあたり、大胆なアイデアであろう。生きた人間であった以上、いつまでも『伊勢物語』に描かれたような才気や色事ばかりで済むはずもない。その「老残」を打ち出しながらすぐ見せ消ちにして見せている。ここにあるのは、陳腐な一般論ではない。老いや死のイメージを背景にしつつ若いままにとどめられた業平という一世の美男のイメージ、そしてその消失がもたらす空虚である。残るのは千年のときを経た、雅やかな美男の匂いのようなものだけだ。

この一定の距離を置きながらも強力で繊細な感知の仕方、作者が強い恋情を抱いているというよりは、あたかも壁や天井のような無機物となりきって好きなキャラクターを見守る腐女子的な目をもって接しているように感じられる。

夜学子のいはけなかりし耳の裏  能村登四郎『咀嚼音』

「いはけなし」は、幼い、あどけない、子供っぽいの意。

夜学となれば昼間働いている生徒が多いはずであり、どうしても年かさのイメージが出てくる。それを「いはけなし」であざやかに逆転させた格好で、これで「夜学子」がいきなり可憐で清新な存在になりおおせた。逆にいえば、空疎な浮いた形容に終わりかねない「いはけなし」が「夜学子」との組み合わせでリアルの側に引き寄せられているともいえる。

しかも見ているのは「耳の裏」。相手に気づかれない、背後からの忍びやかな視線を敏感な部位に這わせている(「夜学子」に対して、危ない逃げろと言いたくなる気がしなくもない)。

少年の耳を詠んだ句はたまに見かけるのだが、この句で特徴的なのは、きれいな少年の図像だけを投げ出しているのではなく、「裏」によって視点人物との位置関係が明らかにされていることである。これで不意にその欲望がなまなましいものになる。対象はあくまで清純さをたもったままなのにだ。

安部公房の『箱男』に、見ることには愛があるが、見られることには憎悪があるという一節があったが、この句ではまさに見ることが愛につながっている。

水泳の褌をたがへ師弟若し  能村登四郎『咀嚼音』

教師であった能村登四郎には生徒と思しき若者を詠んだ句もちらほら見えるのだが、この句の「師弟」も俳人同士のそれではなく、学校の教師と生徒だろう。

時代のせいか、指定水着などではなく、「褌」である。そしてその褌も揃ってはいない。これも句のなかでの細かい転調とでもいうべきか、褌がもし揃っていたら互いの肉感が妙に平板なものになってしまっていたのではないか。その後にもう一度転調が来て「師弟若し」となる。ここで両者ともに「若い」という形で肉体の共通性が引き出され、揃え直されるからである。

ただし両者ともに若いとはいっても、師弟である以上、もちろん年齢差はある。そうした共通性のなかの差、差のなかの共通性を微妙にずらしながら、両者の水に濡れた肉体を彫り上げていくのが「褌」と「若し」なのだ。

教師であったとはいっても、「褌をたがへ」「師弟若し」という客観的な把握は登四郎自身のことではなさそうで、これも師弟を外から見ているらしい。

前の句「耳の裏」の「裏」といい、この句の「褌をたがへ」の「たがへ」といい、大雑把な「耳」や「褌」だけでは出てこない、細部にまつわりつくようなフェティッシュな視線が感じられ、しかしそれが句としては、ごくあっさりとした詠みぶりにまとめられている。

炎日の流木挽けりふぐり揺り  能村登四郎『合掌部落』

真夏に男が流木を鋸で挽いているらしい景だが、この句も「ふぐり揺り」に関心がおもむき、そこまで描きとめてしまうあたりが登四郎ならではだろうか。この句は必ずしも男性性の誇示が眼目ではない。

炎天下に立ち働く男の動作の力強さが詠みたいのであれば、「ふぐり揺り」はむしろ間抜けに見えてしまい、諧謔味につながるところだが、この句はそうした狙いにもなっていない。挽くたびに揺れる睾丸まで含めて、好もしい力強さとしてまとめられているのである。

「材木」や「立木」「大木」などではなく、水に流されてなめらかな表面を持つオブジェと化した「流木」と男がかかわっている点がこの句の感触をひそかに決定づけているのだろう。炎日とはいえ、必ずしも、剛直さや力強さばかりを男に見出しているわけではないのである。一見そう見える題材のなかに、「流木」のなめらかな曲面が入り、揺れる睾丸(急所でもある)の傷つきやすさも入る。男の肉体労働の力強さと見えたものが、男女いずれともつけがたいような不定形じみた性そのものへと、それとなくずれ始めているのである。

あるいは、ことによったら、この句の語り手は男に挽かれる「流木」の立場を羨望し始めているのではないかといった妄想も浮かぶ。

夕焼けや濡れ緊りたる海士の褌(こん)  能村登四郎『合掌部落』

褌がいま一般的にはあまり使われていないので、妙に古めかしい和装趣味に特化した句のようにも見えてしまうのだが、作句当時は男性の下着・水着としてはこれで当たり前だったはずである。現在に置きかえてみれば、水着姿に向ける視線と変わりはなく、ことさら和装趣味や懐古趣味で持ちだされた褌ではない。

この句もごく普通に見かけ得る光景として描かれていて、ここには海につかりながらの一日の肉体労働を終え、夕焼けに染め上げられる漁民の男性の肉体と、それにはりつく濡れた衣類への賛美だけがある。

ただしこれをたくましい男性美に象徴される生命への礼賛といったふうにだけ取るのは、やや無理があるだろう。中七「濡れ緊りたる」の触感性がフェティッシュに過ぎるのだ。そのエロスを自然の大景に引き戻しているのが上五「夕焼けや」なので、ここでは細部に執着する性質の官能性と、大きな景色とがそれぞれ弾きあい、生かしあっているといえる。

荒巌に臀食入らせ泳ぎの子  能村登四郎『合掌部落』

触感性といっても「夕焼けや」の句の方は濡れた褌と肉体との緊密な接触を想像的に追体験しているといったものだったが、こちらは「荒巌」と「臀」が触れあっている。いや、触れあっているなどというものではなく、「臀食入らせ」ている。

句材としては単なる健康的に外で遊ぶ子供でしかないはずなのだが、「臀食入らせ」の、対象の皮膚を這っていくような視線が、子の体のわかわかしい弾力を引き出し、句に官能性を呼び込むのである。前掲の「耳の裏」と同じく、ここでも視点人物の目は「臀」に、後ろから絡みついている。「荒巌」「泳ぎ」といった体育会系的健やかさをしか呼び込まないはずの言葉のなかに、まつわりつく視線が性的なモチーフを割り込ませ、その反発力が両者を異化し=生かしている点は、濡れ緊った褌の句と同様。柔軟な肉体に執しつつ、不潔さには流れてない。

わかものの匂ひ燃えをりキヤンプの火  能村登四郎『合掌部落』

この句では、褌や荒巌のような触感ではなくて、嗅覚から若者の存在をさぐり出している。一義的にはキャンプファイヤーの火が放つ輻射熱と匂いであるはずだが、それを若者たち自身の匂いへとずらし、それが燃えていると詩的にねじって捉えているので、ここでも自然と肉体との相互映発が詠まれていることにはなるのだが、より共感覚的に認識が融合しあっていて、肉体も内面も一気に貫通しながら、すんなりとしなやかに若者賛歌へと収斂しているといえる。

「わかもの」の立てる匂いが、何やら麻薬的な物質としてはたらいているようにも感じられてくるが、だとしてもそれは、およそバッドトリップとは無縁の清浄なものであろう。直接には対象に触れないまま、視線と体内感覚でもって密着していく句作りは、そのまま性と清浄さの関係への、実践的な考察ともなっているようだ。

「わかもの」という言い方が気になり、このときの登四郎の年齢を計算してみたが、句集『合掌部落』を出した一九五七年で四十六歳、当時の感覚では立派な初老だったのではないか。「わかもの」の匂いは若者自身にはわからず、ここでも視線は一方通行である。

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関悦史 新緑

   同人誌即売会想望
「ふたけっと」見てきて初夏の茄子・胡瓜

男(をとこ)の娘(こ)は初夏を日本に中国に

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