『ただならぬぽ』攻略2
おいおい多摩図書館に行くのにそんな装備でだいじょうぶなのか?
柳本々々
見えているものみな鏡なる鯨 田島健一
ふだん俳句や川柳や短歌の感想を書くときに私は作者の答え合わせをできるだけしないようにしているのだが、ただそれは作者の意見を無視しようとしているのではなくて、〈作者の磁場〉のようなものは大切にしようと思っている。
その作者がどんなところにいて・どんなメディアで・どんなことを言おうとし・どんな価値観をもっているのか。それを直接には反映しないが、でもそういった〈磁力をもった文化的場所〉というのを気にしようと思っている。できる限りは。
で、私なりにとらえていた田島健一さんの〈磁場〉があった。それは田島さんは俳句と現代思想をつきあわせるひとだということである。そういう言説を書くひとだということだ。それは田島さんがブログやツイッターで書くものや『現代詩手帖』の時評を読んで知っていた(実は私が俳句と現代思想関連で検索するたびによく田島さんのブログへと自然と行き着いていた。そういうことはふだんのヒントにしている)。
だから私のような外の人間がある程度自由に田島さんの俳句を読んでも(少なくとも田島さんからは)怒られないだろうなというほんのちょっぴりの思いはあった(ただ最近怒られることはそれはそれでいいと思っているところもある。ルイス・キャロルもこう言っていた。「ひとは怒られるものだ」と。まあ、いいんだけど)。
ただ今回前に出て60分は話さなければならないということで私はある程度話すことを決めてからちょっとこわいので〈答え合わせ〉をしようと思って、俳誌『オルガン』のバックナンバーから、田島健一さんの発言部分だけをずっと読んでいった。
そこで、これだ! と思う発言があった。わたしは、言った。これです! と。引用してみよう。
そもそも、ものが「見える」というのはある意味で幻想なんです。たまたまそういうふうに「見えて」いる。「見えてしかたがないもの」があって、日常と非日常ではない、反日常なんだと。ものが日常に抵抗している感じ。意味のレベルじゃなくて、泥んこ。この言葉を装備して多摩図書館に行こうと私は思った。迷ったことがあったらこの言葉にたちかえろう。これをわたしの根っこにしようと。
(田島健一『オルガン』2号、2015年)
ここには田島句集へのいろいろな〈解答〉がある。
1、「見えているもの」は幻想なんですよ。それが嘘だって場合もある。でも、見えるんだ。
2、見えているものって「たまたま」見えているんですよ。だからそれはぜったいじゃないんだ。明日は見えないかもしれないんだ。きのうも見えなかったかもしれないんだ。でも、見えるんだ。
3、見えてしかたがないものってあるんだ。それってまっとうとかくるってるとか関係ないんだ。正常とか異常っていうそういう二項対立そのものをひきずりだし、そういう二項対立にずっと抵抗していくものなんだ。ぼくらの暮らしに、生に、死に、言葉に、見るに、抵抗しつづけることなんだ。それが、見ることでもあるんだ。
4、意味なんて考えてもどうしようもないときがあるんだ。というところに立てたときにはじめてわかる意味があるんだ。
5、泥んこ。泥んこになって、世界がぶっこわれてはじめてわかってくる世界があるんだ。それは高尚な思想や哲学なんかじゃない。泥んこなんだよ。
わたしはこの5つの視点を根っこにすれば60分話すことができるんじゃないかと思った。ただすごく心配だったのは、おいおいこれ俳句の話にならないだろ、やぎもといったいおまえはなんの話をはじめちゃったんだと、聞き手の生駒さんがわたしを見つめてくる場合があるということだ。60分、話したはいいが、俳句の話がなんにもないぞ。
なにもない雪のみなみへつれてゆく 田島健一
うーん、とわたしは言った。
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