『ただならぬぽ』攻略5
どこにあるやら、次元のはざま
柳本々々
眼がひらき顔だとわかる雨月かな 田島健一
あなたのすきな目薬をひさびさに買ったよ、わたしがきらいだったあなたの眼はげんき、と手紙には書いてあったのに、もうその手紙もどこにいったかも、わからない。みえない。
眼の話を続けよう。
蜂が眼を集めて空へ供養の日 田島健一
鮫の眼は個室のくらさ樹のホテル 田島健一
私は前回、田島句集において眼は〈このわたし〉を差し置いて・〈このわたし〉に先行して出来事を構成してしまうと述べたが、それを知ってか田島句集は、「眼を集めて空へ供養の日」という〈大量の眼たちの/と死〉、「鮫の眼は個室のくらさ」という〈ゆるやかな失明〉など、〈眼と/の傷〉というテーマがみられる。眼の可傷性(ヴァルネラビリティ)といったらいいか、《眼は傷つきやすい》のである。
これは驚くべきことではないか。俳句とは、写生という言葉があるように、眼をことほぐものではないのか。眼を祝福するのが俳句なのではないか。ブニュエルのシュールレアリスム映画『アンダルシアの犬』の有名なあのシーン、眼を剃刀ですうっと切り開くシーンのように、〈眼(見ること)のリストカット〉という主題が俳句にあらわれてしまったらどうしたらいいのか。
見ることで、わたしが傷ついてゆくこと。だとしたら、俳句の元気とは、いったいなんなのか。わたしが元気〈過ぎる〉ことで、どんどん濁っていく眼。
いのちありすぎ秋晴に眼が濁る 田島健一
しかも、眼はよく見えたら見えたで主体や世界の次元をおびやかすのだ。「宇宙の 法則が 乱れる!」。
にんげんを見すぎて屏風絵のなかに 田島健一
〈見る〉ことは主体の〈確変〉とつながってしまう。主体の次元が変わるのだ(ファイナルファンタジー5でエクスデスがギルガメッシュに掛けた言葉「役にたたぬやつめ!次元のはざまへ行くがいい!」)。
たしかに、見ることは、わたしたちの立ち位置を変えてしまう。見ることが、傷つくことによって。
写真家の杉本博司さんの写真「シロクマ」を思い出してみよう。シロクマと殺されたアザラシの剥製がまるで生きているように〈リアル〉に写しだされたモノクロの写真だ。杉本さんは剥製をリアルに写し出す方法を、〈片目で世界を見る〉ことによって発見したという。カメラを片目で撮影したようにすると、次元が損なわれ、剥製があたかも生きているように見える〈奇妙な次元〉が現れるのだ。
片目で世界を見ること。「見ること」そのものを写真におさめること。
何事かに本当に集中するというのは難しいことだ。人は物を見つめ続けることが出来ない。眼は常に動いていて他に見るべき物はないかと捜している。現実に真っ正面から向かい合うしずかで安らかな時間を得ることは難しい。そこで絵画あるいは写真が必要とされるのだ。杉本さんの写真は、〈眼を傷つける〉ことによってディメンションをかくらんし、死の次元を生の次元へと移行させる。
(杉本博司「虚ろな像」)
今、片目で世界をみてみよう。それまで三次元だった世界はべたべたっとした二次元の世界になる。そのとき剥製といった不動の〈死体〉がやけにリアルに生き生きとした「いのちありすぎ」としてあなたの眼にうつってくる。奇妙な次元のいきものとして。しかしあなたの眼はそのとき積極的に「濁」っている。眼を傷つけると、次元が変わる。
せり出してくる日本画に立つ狐 田島健一
眼を傷つける。眼を失敗させる。ディメンションをかくらんする。見ることをしくじらせることで、「見ること」そのものがせりあがってくる。「せり出してくる日本画に立つ狐」という生/死の二項対立を超越した〈動物〉があらわれる。杉本博司が写真にうつしたような。
海みつめ蜜豆みつめ眼が原爆 田島健一
原爆をどう詠むか、見るか、ではなく、眼そのものに原爆を宿らせる。「原爆許すまじ」という原爆の対象化ではなく、原爆そのものを、見る行為そのものとして眼に宿らせる。生も死も次元も原爆も。
見ること。見ることの原爆。福田若之さんは田島俳句の言葉の自動性を指摘していた。「うみみつめみつまめみつめめ」と言葉が自走していく。しかしその〈きもちいい〉自走性のなかで、唐突に「見る」ことが〈きもちよくないかたち〉で傷つけられる。〈きもちよさ〉のなかで、いちばん〈きもちよくない〉ことが露出し、露開する。
シャッターを持たない人間の眼は必然的に長時間露光となる。母体から生まれ落ちてはじめて眼を開いた時に露光は始まり、臨終の床で眼を閉じるまでが人間の眼の一回の露光時間である。網膜上に倒立しながら一生を通じて映し出される虚ろな像をたよりに、人間は世界と自分との距離を測り続けるのだろう。見ることは、きもちいいのか、きもちわるいのか。
(杉本博司「虚ろな像」)
眼を傷つけられてわたしたちは思う。そもそも、俳句と見ることの関係はどうなっているのか。きもちよさのなかでわたしたちがなにかを見ているのだとしたらそれはなにかを見ているといえるのか。しかし見ることのきもちわるさをどうやってわたしたちは密輸すればいいのか。見ることは、なにも見ていないのか。〈見ること〉そのものを俳句自体が問いかけてしまったときわたしたちはいったい〈どこ〉に連れていかれるのか。
毛布から白いテレビを見てゐたり 鴇田智哉
この鴇田さんの句を思い出してみよう。この句の語り手は何を見ているのか。白い色のテレビを見ているのか。視界がぼやけているのか。それとも、白い画面を見ているのか。白い画面を見ているというのは、見ている、と言えるのか。「毛布から」と言うとき語り手は眠っているのだろうか。いや、死んでいるのか。横になっているのか。だとすると、その身体の姿勢は「見ること」を、見ることの次元を損ねているのではないか。たとえばこう考えてみてもいい。吟行は横になったままできるのか、担架にのせられながら俳句を詠むことはできるのか、おんぶされながら俳句は詠めるのか、ちからつきて腹這いになりながら俳句を詠めるのか。今走りながら俳句を詠めるのか(なんにもみえない確定できない視界のなかで)。
今走つてゐること夕立来さうなこと 上田信治
見る、って行為は、どんな姿勢で、どんな健康状態で、どんな元気で、なにを見たら、見る、として成立するのか。走る正岡子規。横になる正岡子規。運ばれる正岡子規。誰かの膝の上に乗せられて後ろから抱き締められている正岡子規。腹這いの正岡子規。リフトに乗ってスキーゴーグルをつけてなぜか降りてくる正岡子規(ゲレンデ滑るのこわかったのかな)。井戸の底から青空をみあげる村上春樹かぶれの正岡子規。どの正岡子規がちゃんと〈見ること〉ができたのだろうか。
見ることと過剰性の問題。見ることは災害であるかもしれないということ。
写生としての多面的な見ることから成立しているはずの俳句が、眼(見ること)を傷つけはじめたとき、わたしたちはどのような俳句の次元の狭間に出会うのか。
鯨は眼がしみてその理由を知らず 田島健一
眼が傷ついていく理由はわからない。でも。
眼は、傷つきやすい。
いや。というよりも。
俳句は、傷つきやすい。
包帯を巻いて祭りのなかにいる 田島健一
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