『ただならぬぽ』攻略7
奴らはどこへ行ったのか。探しているのさ、復讐の為に!
柳本々々
この句集は本編がない予告編を次々に見せてくれる(1)。私は、すべての動画というものに致命的に備わっている違和感と不気味さを、あらためて発見していた(2)。それは「ない」という概念も包括している(3)。培地としての紙のうえで言葉がひろがってゆくその増殖の過程で、偶発的な突然変異によって不思議な言葉が発生すること(4)。田島健一の俳句は私にとっては確かに書かれているが、同時に書こうとしている俳句なのである。
【各引用】
(1)櫛木千尋「ミステリアスなぽ」『オルガン』9号、2017年5月
(2)鴇田智哉「わたしの言葉ではないの」同上
(3)宮本佳世乃「リンゴ(あるいは闇)」同上
(4)福田若之「根という言葉から」同上
(5)生駒大祐「頁をめくりはじめる」同上
紅梅やネバダにも似た花がある 田島健一
きょうは少し漫画と怪物の話を(浦沢直樹の漫画『MONSTER』のネタバレがあります)。
『ただならぬぽ』の読書会があった五月あたりに、一年以上ずーっと放送されていた浦沢直樹のアニメ版『MONSTER』が終わったんですよ。
で、毎週楽しみに『MONSTER』をみていたんですね。漫画は全部みていたし、十年前くらいにもアニメも全部みていたんですけど。
で、『MONSTER』ってどういう話かっていうと、〈終わりの風景〉をみた人間がどんどん人を殺していく話なんです。〈終わりの風景〉をみた人間ってどういう人間かっていうと、これはたぶんなんだけど、〈内面〉を放棄した人間なんですね。〈内面〉を放棄したから、ひとを殺してもとくになんとも思わないんです。で、たぶん〈内面〉を放棄した人間だけがみられる風景ってあるんですね。でもそれをみちゃったらたぶん〈怪物〉なんですよ。モンスターなんです。もうこっちにはもどってこられないかもしれない。人間にはもどってこられない。
で、そういう人間を描こうとした漫画だと思うんですね。私はそれってなんていうか手塚治虫の壮大な逆説なんじゃないかと思ったんですよ、浦沢直樹が手塚治虫に対して放った壮大な逆説。手塚治虫は鉄腕アトムというロボットで、ロボットといういちばん内面が欠落する装置で人間を描こうとした。ロボットに鉄腕アトムという内面を充填して人間に近づけていった。でも、浦沢直樹はまったくその対極を描いたんです。つまり、人間の内面を欠落させて、怪物にするとどうなるか。内面をなくしてどんどん人間を怪物にしていく。逆鉄腕アトムをつくること。怪物としての人間をうみだすことで、なにがおこるのか。だれがよろこぶのか。だれがかなしむのか。だれがとりかえしがつかなくなるのか。だれが人間だといえるのか。
で、わたしは『MONSTER』を観ながら『ただならぬぽ』を読むための準備をしていたんですが、『ただならぬぽ』ってなんだか『MONSTER』みたいだなと思ったんですね。ちょっと似てるなって。これはイベントでは一言も言わなかったんですけど、でもそういうつもりでイベントに出たんです。私は浦沢直樹と田島健一の話をしに行くんだぞというつもりで。
『ただならぬぽ』句集帯文に
なにもない雪のみなみへつれていく 田島健一
と大きく書かれているけれど、これがたぶん『MONSTER』の怪物であり殺人者・ヨハンがみていた〈終わりの風景〉に近いんだと思うんです。〈終わりの風景〉ってけっきょく、なーんにもない場所なんですね。でも、なにもないことが組織化されて、いろんなひとがそこに動員されていく。いろんなひとがそのなにもないことをめぐって殺されたり死んだり復讐したり殺したり助けたり救われたり絶望したりする。「つれてい」かれる。〈終わりの風景〉ってそういうものなんじゃないかと思うんです。風景でなくなってしまった風景と呼んでもいいかもしれない。でも〈そこ〉をめぐっていろんなものがうごくんです。なんにもないのに。なんにもない場所でおびただしいひとがしんで・いきていく。
それはちょっとポール・オースターのニューヨーク三部作にも近い。『幽霊たち』とか『鍵のかかった部屋』とかすごくなにかやっているんだけど、なんにもない、なんにもならない風景。なにかやっていることが・なんにもなくなってしまうのは、その風景に意味を充填するための〈内面〉がなーんにもなくなってるからだと思うんです。風景って内面がないとだめなんです。海がきれい、と思うときって、海がきれいだと思う内面のひとがいてはじめて、海という風景が成り立つんです。海という風景はそこにはじめからはないんです。内面をもった人間がいないと風景って成り立たない。だからたぶん鉄腕アトムには風景ってみえたんです。でも、殺人者ヨハンにはみえなかったと思う。
この句集あとがきで田島さんは、「あらゆる人のはじまりであることの困難さの代わりに」と書かれていたけれど、たぶん、「あらゆる人のはじまり」と「あらゆる人のおわり」の風景はおなじで、〈なんにもない風景〉だとおもうんです。風景でなくなっていくかもしれない風景です。まあ、風景でないんですねそれはもう。
しかしそれはむずかしい。とってもむずかしいことです。〈なんにもない風景〉をみることは。
これはたぶんジャック・デリダが言っていたと思うんですが、ひとの意識というのはあらかじめすでに書き込まれている。内面の書式ができあがっている。それをデリダはエクリチュールというふうに呼んでいたとおもうんですが、ともかくひとは「はじまり」や「おわり」にはなれない。つねに・すでに書き込まれてしまっているから。むずかしいのは、いかに風景をみるか、ではなくて、いかに成立してしまった風景をみないようにするか、なんです。でも、むずかしいです、そんなの。狂っちゃえば、かんたんなんですけど。でも、大事なものがたくさんありますから、なかなかひとは、狂えないですよね。ちゃんと狂うことってむずかしいです。
だけどこの句集をみていると、ちょっとこれ、アクセスできんじゃないの、という気もするんですね。たとえば『MONSTER』をみていて、ヨハンのみた〈終わりの風景〉をわたしたちはみることはできないんだけれど、でもちょっと近づいてもいる。わかんないけれど、長くずっとヨハンの周辺をうろうろしつづけることで、アクセスしそうになっている。物語ってそういうちからがある。
俳句もたぶんそうなんです。それと似たかんじで、もしかしたら、俳句という装置のせいなのか、この句集が志向している風景のせいなのか、この句集を読んでいると、〈終わりの風景〉にアクセスできそうなところまでいけそうな気もするんです。ただ、もちろん、しちゃだめなんですよ。アクセスは。すると、まずい。帰ってこられなくなる。わたしたちはヨハンになっちゃいけないし、まだ生きなくちゃなりませんよね、まっとうに。でも、わたしたちがいろんな質をもった現実とともに生きているのも事実で、避けられないとも思うんです。新聞をひろげれば、ニュースをみればわかります。この世界は向こうからやってくる現実ばっかりなんだって。
『MONSTER』も『ただならぬぽ』もそういう現実にふれようとするとってもスリリングな読み物だと思うんです。こんな俳句があるのかってはじめて読んだときはびっくりしました。2013年だったと思います。田島さんの俳句をはじめてみたのは。十代の暗い自分に教えたいです。こんな俳句があるぞって。今も暗いですけど。なんだか私は『MONSTER』のサブテキストは『ただならぬぽ』のような気もするんですよ。そういうことってあるんです。この句集はいろんな文化とリンクしあい参照しあっている句集です。そういう俳句があるんですよ。びっくりすることですけど。
俳句って、いったいなんなんでしょうか。
「現実」って何だろう、と思いますね。
(田島健一「座談会」『オルガン』9号、2017年5月)
ええ。で、たぶん、その〈終わりの風景〉、なんにもない場所をこの句集で象徴しているのが「ぽ」だと思うんですよ。私はこの句集は、たった1音、この「ぽ」が言いたかったために組織された句集なんじゃないかと思ったりもするんですよ。もちろん、そんなわけはないんだけれど、でももし、人類のはじまりのひとか人類のおわりのひとがなにかを発音するなら「ぽ」なような気がする。「あ」じゃないと思う。「ん」でもない。「ぽ」なんじゃないか。それは意味があっちゃいけない音の、さいしょでさいごの音の。
イベントの最後に私が述べたことばです。そのまま引用します。引用して、そのままもう私は出てこないかたちで、今回は終わります。
イベントの最後に私が述べたことばです。そのまま引用します。引用して、そのままもう私は出てこないかたちで、今回は終わります。
ぽ、というのははじまりの光であり終わりの光、えいえんに意味にならない音とひかり、はじまりとおわりをどうじに想起させる意味に回収されないなにかであり、ぽっとそこからなにかが生成されるものであり、またどうじに、終焉にぽっと吐き出された息でもある。そうした原現実、むきみのげんじつが「ぽ」なんです。だからそれは語り手にとっていつもただならなかった。でも現象学者であるこの句集の語り手が世界を解体していきながらも、虚無的・ニヒルにならなかったのは、この「ただならぬ」というタイトルの熱量・意志・驚愕にあったように思います。この熱量こそがこの句集の雰囲気を決めているんだと。ぽと熱量。なんにもない場所の熱量。『狂人日記』で淡々と狂気を描いた作家・色川武大は『怪しい来客簿』のなかでこう言っていました。「人間が本当に生きようとするとかっこうが整わなくなって化け物のようにならざるをえない」
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