2017-08-20

【週俳6月7月の俳句を読む】雑読「ビー玉はすてる」 瀬戸正洋

【週俳6月7月の俳句を読む】
雑読「ビー玉はすてる」

瀬戸正洋


亀鳴けり刺子の驢馬がふえてゐる    高橋洋子

半纏、あるいは風呂敷をうつらうつらながめていると刺し子の驢馬が増えている。妖しい気分になる。そのときに鳴き声を聞いた。われに返り、何が鳴いたのかと考える。おだやかなお昼どき、亀の鳴き声を聞いたのだと確信をする。

遠足や高井戸工場ピクルス担当  同

高井戸工場にはピクルス担当者がいる。ピクルス担当者はピクルスについて何も言わない。ピクルスの担当者はうんざりなのである。静かにしておいて欲しいと思っている。ピクルスのご機嫌をとることだけでもう十分だと思っている。

山頂の石蹴り蛙の目借りどき  同

蛙に目を貸すから眠くなるのである。つまり、蛙に目を貸さなければ眠くはならないのだ。山頂に蛙はいないかも知れないが石蹴りあそびをすることが肝要なのである。にんげんにとってあそぶことは何よりも必要なことなのである。

ビー玉はすてる猫はすてない花粉症  同

ビー玉はすてたが猫はすてないから花粉症になったのである。ビー玉はすてるのは当然のことなのである。猫をすてることも当然のことなのである。大切なものはすてなければならない。日本をすて、家族をすて、あなたをすて、自分自身をもすてなくては幸福な未来はやって来ない。

川凪いで満天星躑躅消えてゐる  同

凪ぐくらいだから大河なのであろう。もちろん、満天星躑躅は意思により消えたのである。川が凪いだのはご愛敬なのである。生きとし生けるものはすべてにんげんの視線が不快なのである。だから、消えたいのだ。にんげんはどこにでも行きたがる。来て欲しいと願っているのは、そこで金儲けをたくらむにんげんだけなのであり、他、一切、かぜも草もみずも木も土も来て欲しくないと思っている。川は凪げばいい。満天星躑躅は消えてなくなればいいのである。

変身とかしたしぼうたんころがる  同

ぼうたんが転がるのをながめていたら、なおいっそう変身願望が募ってきた。おたまじゃくしが蛙になることは変身とは言わないのである。にんげんが変身するとすれば、どう考えても、獣、鳥、虫、植物のようなものということになる。決して、月光仮面ではない。

劇場がひまアネモネのやうにイヌ  同

栽培されている花なのである。このイヌも、当然飼いならされてしまっているのだ。劇場が閑散としていることは文化国家であると自負しているあの国、その国、あるいは、この国にとっては困るのである。気楽に生きるにはイヌもにんげんも飼いならされなくてはならない。俳人はイヌになればいいのである。

さるとりいばら夜をながれる水のあり  同

水はどこでもながれるのである。夜をながれてもおかしくはない。ただ、高低のある夜でなければならない。この花は日のあたる水はけのよい場所を好む。コンディションによいわるいということはない。豪雨のときは水かさが増し旱のときは減るのである。それをよいコンディションというのだ。

うべの花リヴィングルームが永遠  同

老夫婦がくつろいでいる。もちろん、永遠などということは錯覚なのである。錯覚であることを承知で永遠と書いたのである。日本がどれほど平和であっても別れの日は必ずやって来る。リヴィングルームのうべの花は、ただ、ただ、日差しに揺れている。

おぼろ夜の浴槽ほそながい画集  同

ほそながい画集に描かれているものは裸婦なのである。おぼろ月の出ている夜のとある家の浴槽。ひとりの婦人が湯浴みをしている。そのひとコマひとコマ、あたかもシャツターが押されたかのように裸婦が描かれていく。ことばのかたまりが描かれていく。あなたが描かれていく。


高橋洋子 ビー玉はすてる 10句 ≫読む
第535号
竹岡一郎 バチあたり兄さん 40句 ≫読む

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