雑読々Ⅳ
瀬戸正洋
秋祭開いて捨ててある漫画 豊永裕美
秋祭りとは収穫を感謝するために行うものである。漫画雑誌が捨ててある。それが開いて捨ててあると思ったのである。漫画とは精神的労働により生み出されたもの、米やサツマイモなどの農作物と何ら変わらないものなのである。漫画を開いて捨てる理由はあるのである。その理由について考えることは畏れ多いのである。何故ならば、神様が漫画を開いて、そこに置いたのだから。
新しき都心に流れ星刺さる 豊永裕美
新しき都心とは具体的にはどこのことなのだろう。そこに流れ星が刺さったのである。流れ星が消えたのではない。刺さったように見えたのでもない。間違いなく刺さったのである。つまり、これは作者の意思なのである。ますます、新しい都心とはどこなのか知りたくなる。
層楼の徹頭徹尾秋黴雨 豊永裕美
幾階もある重厚な楼閣に雨が降り続いている。それは、最初から最後まで、どこまでも、あくまでも、秋の長雨なのである。層楼はまいってしまっているのだ。疲れてしまっているのだ。はやく雨があがり爽やかな日の来ることを待ち望んでいるのだ。
ひややかやビーズ叱られながら買ふ 豊永裕美
ビーズを買う母と子の情景である。子は母が知らないだけで母の性格など知り尽している。母は子の性格など手に取るようにわかる。子はビーズが欲しくて母にねだる。母はだめだと叱りながら、それでも、ビーズを買ってやる。この母子の生活のパターンは、いつも、こうなのである。なんとなくつめたさを感じるとある日のできごと。
はららごもブーツも売られたる通り 豊永裕美
はららごもブーツも売られている通り。いろいろなものが売られている通り。それなりの商店街なのかも知れない。作者は、売られているはららごを見ておいしそうだなと思い、ショーウインドーのブーツを見て、自分に似合うなと思ったのである。この商店街で売られている他のものは、いったいどこへ消え失せてしまったのだろう。
椋鳥にオリオン通り明け渡す 豊永裕美
オリオン通りとは寂れた商店街にふさわしい名前だと思う。椋鳥に明け渡したのはひとである。閑散としたオリオン通りに椋鳥が群れを成す。明け渡してしまったのだから、大量の糞、うるさい鳴き声、しかたがないとあきらめる。それでも箒を持って椋鳥を追いかけるひともいる。
家ありて町の始まる落し水 豊永裕美
落し水とは稲刈りの前、田を干すために流し出す水のことをいう。つまり、この町とは山村の集落のことなのである。一軒の家から町がはじまる。都会の生活者には考えられない風景なのである。私の住む集落では猪が田に寝転んで稲を食べたとか、小学生の植えたサツマイモを食べ尽してしまったとか、そんな話でもちきりである。老妻は「小学校の畑ってうちのすぐ裏手でしょう。私が猪と会ったりしたらどうするの」などと言っている。
古墳より徒歩一分の露台かな 鈴木陽子
露台とは屋根のない床縁、観光客がひとやすみするところである。古墳のまわりに点在している。古墳の見学のあと、ちょうどひとやすみするにふさわしい露台なのである。幸いなことに誰も座っていない。古墳より徒歩一分のところにある露台に感謝したりして。
祭の夜宿の部屋から閉め出され 鈴木陽子
何らかの手違いで部屋にもどれなくなってしまったことを閉め出されと表現した。部屋にもどれないことを楽しんでいるような気さえする。家族で経営しているようなちいさな宿なのかもしれない。祭の夜には宿の仕事の他に氏子としての役割もある。祭囃子でもききながら待っていれば、直に宿のひとは戻ってくるのだ。
はてしなき両替のごと滝壺よ 鈴木陽子
滝に落ちる水は金貨なのである。滝壺に金貨が落ちる。滝壺に落ちた金貨は紙幣となり下流へと流れていく。同じことが繰りかえされていくのだ。落ちるとき、一瞬、乱れた水は、滝壺を経て、また、川となり流れはじめる。滝壺は両替をする場所なのである。両替とは、異種の通貨、あるいは異なる単位の紙幣と硬貨を交換することである。つまり、同じものを同じものに替えたことになったのである。
コンベヤに鞄流るる台風圏 鈴木陽子
台風圏の空港に飛行機が着陸した。空港の荷物コンベヤには多くの鞄が流れている。それを眺めることができていること、予定通り空港に着いたことに感謝する。あとは見覚えのある鞄が流れてくるまで気長に待てばいいのである。
あさがほの種玉砂利の間へ落つる 鈴木陽子
朝顔の種を庭の花壇に蒔こうとして、落してしまったのだ。玉砂利を退かして朝顔の種を見つけるか、落ちた種のことなど気にもせず、そのまま種を蒔くかのどちらかである。さて、私たちが想像しなくてはならないのは、玉砂利の間に落ちてしまった朝顔の種のことなのである。俳句を作るには朝顔の種のこころの動きを想像しなくてはならないのだ。
赤とんぼ荷造りはゆつくりがよし 柳元佑太
日常でも非日常でもゆっくりと行動することがいいのである。せっかちな私はそんな生活に憧れている。電車がホームに入ってきても絶対に走らないと書く小説家もいる。これは、旅先の旅館あたりで荷造りをしているのかも知れない。安宿、長期滞在、そんな旅なのかも知れない。
中小企業に勤めてかれこれ四十年近く、あと少しで定年である。中小企業は少ない人数でやり繰りするので休みなどなかなか取れない。老妻に「家にいても暇でしょう。定年を過ぎても、会社にしがみついていなさいよ」などと言われる。当然、聞こえないふりをする。微々たる退職金の額など一切言わず、記念に一冊句集を作り、のんびりと旅でもしたいものである。もちろん、何百何千の赤とんぼの中を、ひとりでふらふらと酔っぱらいながら。
さはやかに四万十までの頼みごと 柳元佑太
さわやかな頼みごとなのである。それも四万十までの頼みごとなのである。頼みごとというのは、本来、さわやかなはずはないのである。他人にことを頼むのである。気は重く、不安もあり、説得のための言い訳を考え続けるのである。それが、さわやかであるとするならば、既に、頼みごとは解決していることと同じなのである。もちろん、それは、四万十のちからなのである。
われの影われよりも美し土佐夕焼 柳元佑太
いちばん穢れているのは「私」なのである。それは誰でもそうなのである。「私」は美しいなどと本気で思っていたとしたら、そのひとは少々**なのである。影が美しくないはずがない。「私」以外のものが美しくないはずがない。夕焼けが、それも旅先の夕焼けが美しくないはずがない。美しいと感ずるのは「私」より美しいからなのである。目の前にあるものは、すべて美しい。だから、ひとは自分がいちばん醜いと思わなくてはならないのである。そう思わないひとは、絶対に**なのである。
こほろぎの草喰ふかほが目の前に 柳元佑太
どんな草なのか知らないが目の前で蟋蟀が喰っている。それを見ているのだから飼っているのかも知れない。他人が飼っている蟋蟀を眺めているのかも知れない。蟋蟀にしてみれば、喰っているところをひと見られるのはたまったものではない。ひとも同じなのである。食べているところを見られるのは、恥ずかしいことなのである。町の定食屋では気のいい労働者たちが壁を睨みながら昼食を黙々と食べている。
みづうながすみづの流れや澄みてをり 柳元佑太
水は高いところから低いところへ流れるのではない。水が水を促すから水が動くのである。してみると、水には意思があるということなのである。秋の水の澄む季節、水の意思は活発に動きはじめるころなのかも知れない。
ねむりびとまたひとり増え星流れ 柳元佑太
ねむりびとというのは眠っているひとということでいいのだろう。秋の合宿なのかも知れない。消灯後、敷き詰めた部屋の蒲団を退かしで雑談をはじめる。男女間のはなし。人生のはなし。話も佳境に入る頃、昼間の疲れも手伝って、ひとりふたりと脱落していく。それぞれが蒲団を敷き直して眠っていくのである。窓のそとの星は流れる。
鳶色に地球は老いぬ女郎蜘蛛 森澤 程
鳶色はこころをおだやかにする色だと思う。女郎蜘蛛は、蜘蛛のなかではいちばん美しいと思う。地球は老いていく、地球はいずれあとかたもなく消え去ってしまう。鳶色も老いていく、女郎蜘蛛も老いていく。当然、ひとも老いていく。細心の注意を払いながら、誰も彼も、何もかもが、その道を歩いていく。その先にあるものは、醜、穢・・・絶望であることを薄々と感じながら。
滝みちの思う存分ひとりかな 森澤 程
生きていくことが辛くてひとりになりたいということではない。滝に向かって歩いている。たまたまひとはいないのである。それで、思う存分ひとりということになった。たまたま、出会った幸運をかみしめて滝に向かって、ひとりで歩いているのだ。
真っ暗な鏡へ踊りより帰る 森澤 程
鏡とは自分を写すためのものである。写した自分と自分とは決して同じではない。メモリーレコーダーの自分の声が同じでないことと同じように。鏡には鏡の意思がある。盆踊りより帰り真っ先に鏡に向かって自分を確認する。盆踊りより帰り、真っ黒な鏡に向かって自分自身を確認する。ひとは鏡が真っ黒であったことは、鏡の意思であったことを知らない。
語り尽くした眠たさの草かげろう 森澤 程
語り尽すことはなかなかできないものなのである。ついつい躊躇する。自分の本音が知られてしまうことを恐れて。ここまで相手に踏み込む資格が自分にはあるのかと不安に駆られて。あるいは、レコーダーを使われているのではないかという疑心暗鬼の中で。それでも語り尽したのである。ひとも、ひとの関係を司る神様も、草かげろうも、誰もが疲れてしまい眠くなってしまう。
核の世の網棚に置く榠樝の実 森澤 程
核の世であることを誰もが忘れている。忘れることは容易いことなのかも知れない。うす緑色の榠樝の実を網棚に置く。核の世であることを忘れるために網棚に榠樝の実を置く。新幹線でも在来線でも、どこの網棚にも榠樝の実が置かれていることに気付くはずだ。
香水の文字の中まで入り込む 伊藤蕃果
香水についていろいろ書かれた文章がある。香水とは香水という文字のなかにまで、いろいろなものが入り込んでいると言っている。香水のかおりは文字の中にも入り込んでいるという意味もあるだろうが、この場合は、この香水を買い求めたひとの生活の一部始終が文字の中にまで入り込んでいるということなのだろう。
ごきぶりやこの夜に一寸海まで 伊藤蕃果
海を眺めたくなったのである。それも夜の海を。海辺の街に住んでいるのではなく車で一時間くらいの、少し離れたところに住んでいるのだと思う。「ごきぶり」とは、不快な経験の象徴なのである。経験の大小に関係なく不快とは、こころにしてみれば全く同じことなのである。だから、取るに足りないことで、こころが乱れるより海にでも行って頭を冷やして来ようと思ったのである。
感嘆の度に傾く舟遊び 伊藤蕃果
この場合は川下りといったものなのだろう。船頭が何か説明をはじめる。乗客はその方に身を乗り出し、その説明と、その景色をながめ感嘆の声をあげる。乗客全員がそちらに身を乗り出すので舟は傾く。船頭はその加減をあらかじめ見越して舟を操る。
天道虫星あざやかに朽ちてをり 伊藤蕃果
星とは朽ちるものなのである。それもあざやかに朽ちるものなのである。星も太陽と同じ恒星である。天道虫とは太陽に向かって飛んでいくといわれている。あざやかに朽ちるとは見るもののこころの動きなのである。確かに、恒星には、そう思わせる何かがある。
シャワー浴ぶ怒声まみれの体なる 伊藤蕃果
他人から浴びせられたもの、自分自身に浴びせたもの、その両方にまみれているのだ。他人からの場合は日常茶飯事だと思うが、自分自身に浴びせる怒声はよほどのことなのである。シャワーとはからだを洗うもの。不思議なことに肉体をきれいにする作用と、精神を落ち着かせる作用は並行しているのである。
茅舎忌の天象儀から光の粒 伊藤蕃果
題名となった作品である。天象儀(プラネタリュウム)から光の粒が降り注いでいる。川端茅舎に対して何か特別な感情があるのかもしれないが私にはわからない。だが、自分だけがわかる作品を作りたいと思う気持ちは誰にでもあると思う。特定のひとだけにわかる作品を作りたいと思う気持ちは誰にでもあると思う。
逃げるべき場所など無くて紙魚走る 伊藤蕃果
逃げるべき場所がないと思っているのはひとなのである。紙魚は逃げるべき場所があると信じて走っている。逃げるべき場所などないと思っているのは神様なのである。ひとは、逃げるべき場所があると確信して懸命に走っている。
見世物のごとく売らるるデラウエア 伊藤蕃果
デラウエアだけではなく店頭にならべられた果実も野菜も飼いならされているのだ。ひとはひとの都合で、果実にしても野菜にしても、適当に、でたらめに、めちゃくちゃに品種改良をしてきた。品種改良とはふざけた言葉である。確かに、飼いならされたデラウエアは見世物のごとく売られているというのは正しい表現なのである。
秋の蟬涙ここまで落ちてこい 伊藤蕃果
秋の蝉というと何かさみしさというものが感じられる。涙も同じようなものなのである。涙は、ここまで落ちてこないのである。だから、ここまでおちてこいと言ったのである。涙と尿の成分は全く違うのであるが、この場合の涙は尿のことなのかも知れない。さらに、秋の蝉そのものも、ここまで落ちてこいと言っているのかも知れない。
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