まなざすということ
青本柚紀
俳句には、世界との出会い方、世界の捉え方が記される。そう、思っている。それはべつに、俳句に限った話ではなくて、詩や短歌、数学や地質学についてもそうなのだ。みじかく、ぎゅっと。焼きつけられた手ざわりの話をしたい。
ひややかやビーズ叱られながら買ふ 豊永裕美
母と子の景。ビーズを買うことが嬉しすぎたり、選ぶのに時間がかかってしまったり。とにかく、叱られてしまって、しゅんとする。よろこびが萎んでしまったことと、ビーズの質感とが「ひややか」で結びつく。この感触は大人になっても案外覚えていて、ふいに蘇っては、また、締めつけられるのだった。
はてしなき両替のごと滝壺よ 鈴木陽子
両替の硬貨が落ちる様と滝壺まで水が叩きつけられる様とを、重ねる。この句で書かれていることは、一見わかりやすいけれど、読んでいくと妙に引っかかる。
まず、「はてしなき両替」それ自体は架空の存在だ。尽きることない欲望をちらつかせながら、滝壺まで落ちて、受け止められているそのことが、変な説得力を持って迫ってくる。
そして、「両替」。滝壺に置いては、何が、何に? 滝は寄せつけなさともいえる、ある種の聖性を持って書かれることが多い。ここでは、滝の価値観が、聖から俗へと書き換えられつづけている。そして、それとは関わりなく、滝壺は水を受け止めつづける。
語り尽くした眠たさの草かげろう 森澤程
草蜉蝣や優曇華に眠たさが重ねられることはたしかによくあるけれど、語り尽くした眠たさ、と言うとそれらとはまた違ってくる。語り尽くしてしまうことは、高揚感とむなしさとの間にある。それはきっと相手もわかっているのだろう、と思う。けだるさや、むなしさ、語り尽くしてしまえたということが、草かげろうのにおいや、存在感に重なる。
手ざわりを、そのときたしかにそのものがあった、ということを書くのは困難だ。正確なデッサンよりも印象派の光がときにはっきりと描かれたものを立ちあげるのと同じように、正確にその場にあるものを書き取れば、手ざわりを残せるとは限らないからだ。もちろん、印象派の光がただぼんやりと消えていくこともありうる。
ここでは、書かれたものごとが目の前にありながら、多かれ少なかれ心象のほうへ揺れている句について書いたつもりだ。俳句は、たしかに感情の入り込む余地が少ない。けれど、わたしたちの目が、まなざしが、真に「客観的」であることなど、ありうるのだろうか?
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