どう作品であり得るか
白川走を
何が言えるか、というと鬱陶しく思われるだろうが、しかし確かに、書くことで何が現れ出て来るかは人によって異なるものである。
それ自体ほとんど意味をなさない、特段変わり映えのしない言葉であれ、その繰り出しや結びつきの表情にはどこかしら人が現れる。
そもそも、詩は言葉でありながら、大した意味は伝えない。ならばなぜそれが、言葉として、詩として存在したがるかというと、やはり結局のところ人ひとりひとりの、あくがれのようなものから出て来る何かに依っているのだとの感を日々深くしている。
■この町あの町 豊永裕美
あけすけな明るさがある。ある意味ではわがままな言葉の運びでもある。「町」を伝えるというのはどこか漠然として、どのように受け取るかは難しいものだが、つまるところこの作品がそうであるように、私が何をどう捉えたかというところに収斂されるのだと思う。そのときにしかありえない一瞬を自らがどう掬い得るか、またその一回のかけがえなさをどこまで作品の力で担保させられるかが鍵となるのだろう。
秋祭開いて捨ててある漫画
猫みんな似て破芭蕉市場かな
くちびるの縷々浮かびくる秋の川
■あの町この町 鈴木陽子
これもまた「町」。異邦を訪れるかのような軽快なリズムがある。と同時に、身近な空間を描いたものにも見える。タイトルからは場所を意識させながら、土地というよりは出会わせる偶然の光景の、それがたまたまであるという強さに賭けているように思われもする。
古墳より徒歩一分の露台かな
草いきれ過ぎ三味線の音ひづむ
朝霧は置き傘の柄に及びをり
■土佐夕焼 柳元佑太
意識的に間をとっている趣のよさが興味を引く。意味的な伝達もことばの連なりも等閑にすることなく、無理をさせないことが余裕を生んでいる。軸足は人間の文化的な感興に置かれているようだが、天象の運動になめらかに没入しようとする傾きも感じられる。
秋雲や千切れて飛べる雲の中
天の河まなざしをして何釣らん
■レモン捥ぐ 森澤 程
前のめりな饒舌がイメージと現実をほどよくかち合わせている。ほどよく、が肝心である。ものに寄せる心と、ものそれ自身の存在と、どちらが勝っても一句の緊張はほどけてしまう。
語り尽くした眠たさの草かげろう
階段も雲もテンペラ小鳥来る
■天象儀 伊藤蕃果
佶屈とした文体への志向が感じられるが、言葉を虐使することで洗練を目指すということは、どだい困難な傾斜である。それは自然いままであり得ていなかったぎりぎりの言葉の連なりを射止める線を狙うしかないからで、普通に考えるもの、現れる言葉というのはだいたい誰も普通のことに留まりがちであるからだ。自分が一体どれだけ言葉でありうるかという孤独ないじめを楽しめるのも、うまくするとそれを他人と共有できるのも、ことばの遊びという変態行為の喜びではあるものだが。
香水の文字の中まで入り込む
なぜ俳句なのか、それは一体どういった形で作品でありうるのか、ということは、何かが書かれようとするたびに、都度問い直されなければならない。
その面倒をあえてする営為が作品としての輪郭を成すのだろうし、とはいえそんな作為の継ぎ目を意識させないものが気持ちの良い読み物として感じられることでもある。
書かれたものを読むという行為においても、それは事あるごとに問い直されるものであるのだろう。
それ自体ほとんど意味をなさない、特段変わり映えのしない言葉であれ、その繰り出しや結びつきの表情にはどこかしら人が現れる。
そもそも、詩は言葉でありながら、大した意味は伝えない。ならばなぜそれが、言葉として、詩として存在したがるかというと、やはり結局のところ人ひとりひとりの、あくがれのようなものから出て来る何かに依っているのだとの感を日々深くしている。
■この町あの町 豊永裕美
あけすけな明るさがある。ある意味ではわがままな言葉の運びでもある。「町」を伝えるというのはどこか漠然として、どのように受け取るかは難しいものだが、つまるところこの作品がそうであるように、私が何をどう捉えたかというところに収斂されるのだと思う。そのときにしかありえない一瞬を自らがどう掬い得るか、またその一回のかけがえなさをどこまで作品の力で担保させられるかが鍵となるのだろう。
秋祭開いて捨ててある漫画
猫みんな似て破芭蕉市場かな
くちびるの縷々浮かびくる秋の川
■あの町この町 鈴木陽子
これもまた「町」。異邦を訪れるかのような軽快なリズムがある。と同時に、身近な空間を描いたものにも見える。タイトルからは場所を意識させながら、土地というよりは出会わせる偶然の光景の、それがたまたまであるという強さに賭けているように思われもする。
古墳より徒歩一分の露台かな
草いきれ過ぎ三味線の音ひづむ
朝霧は置き傘の柄に及びをり
■土佐夕焼 柳元佑太
意識的に間をとっている趣のよさが興味を引く。意味的な伝達もことばの連なりも等閑にすることなく、無理をさせないことが余裕を生んでいる。軸足は人間の文化的な感興に置かれているようだが、天象の運動になめらかに没入しようとする傾きも感じられる。
秋雲や千切れて飛べる雲の中
天の河まなざしをして何釣らん
■レモン捥ぐ 森澤 程
前のめりな饒舌がイメージと現実をほどよくかち合わせている。ほどよく、が肝心である。ものに寄せる心と、ものそれ自身の存在と、どちらが勝っても一句の緊張はほどけてしまう。
語り尽くした眠たさの草かげろう
階段も雲もテンペラ小鳥来る
■天象儀 伊藤蕃果
佶屈とした文体への志向が感じられるが、言葉を虐使することで洗練を目指すということは、どだい困難な傾斜である。それは自然いままであり得ていなかったぎりぎりの言葉の連なりを射止める線を狙うしかないからで、普通に考えるもの、現れる言葉というのはだいたい誰も普通のことに留まりがちであるからだ。自分が一体どれだけ言葉でありうるかという孤独ないじめを楽しめるのも、うまくするとそれを他人と共有できるのも、ことばの遊びという変態行為の喜びではあるものだが。
香水の文字の中まで入り込む
なぜ俳句なのか、それは一体どういった形で作品でありうるのか、ということは、何かが書かれようとするたびに、都度問い直されなければならない。
その面倒をあえてする営為が作品としての輪郭を成すのだろうし、とはいえそんな作為の継ぎ目を意識させないものが気持ちの良い読み物として感じられることでもある。
書かれたものを読むという行為においても、それは事あるごとに問い直されるものであるのだろう。
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