2018-03-04

【句集を読む】美の存在  上田信治『リボン』を読む・その1 西原天気

【句集を読む】
美の存在 
上田信治リボン』を読む・その1

西原天気


上田信治の句を初めてまとめて読んだのは「団地」50句、角川俳句賞への応募作で、もう12年も前のことだ。その感想を、当時こう記している。

ひとりの人間(男だな)が、歩いたり寝そべったりして、自分の周りにあるものと、「俳句的関係」を持とうとしている。もちろん、その「俳句的関係」が全部成功するわけではない。けれども、その姿勢は一定で、事物へのまなざしがたしかに一定なのだ。/だから、冒頭の句で魚屋の前に立っていた男(編註:そのうへに雨後の月あり鮮魚店)と、50句目の他人の裸を見ている男(編註:夏の月ひとの裸は頬笑まし)とは、たしかにたしかに同じ男なのだ。
http://tenki00.exblog.jp/3181686/
元の50句へのリンクは切れているし、私のこの記事、いま読むと綻びが目立ち拙さが恥ずかしくもあるが、それはそれとして、今回、上田信治の最初の句集『リボン』(2017年11月/邑書林)を読んで驚いたのは、読後の感想が、12年前に私が抱いたものと、ほぼ変わらなかったことだ。

私にも上田信治にも成長がないのか、上田信治が12年を経過してなお一貫性を保持しているのか。それはまあ後者なのだけれど、そのあたりを確かめるために、『リボン』の冒頭と掉尾を引いてみよう。12年前の50句のときと同様に。

うつくしさ上から下へ秋の雨  信治

馬たちは問題がない秋の海  同

12年前に書いた《「俳句的関係」を持とうとしている》は、いま、《俳句との良き関係を続けている》と言い換えていいかもしれないが、ちょっと違う感慨も味わっている。

というのは、つまり、俳句的とか表現とかの前に、世界への、世界の価値への全幅の信頼が、この作者にある。

一句目。「うつくしい」ではない。「うつくしさ」なのだ。

誰かが何かを美しいと感じるのではなく、「うつくしさ」はすでに揺るぎなく存在する。

このことは、例えば波多野爽波《美しやさくらんばうも夜の雨も》と並べてみるとよくわかる。爽波句は、さらんぼう、夜の雨という選択、趣味の良い、また凝ってもいる、それでいて抑制の効いた二物の選択が土台になっている。作者の趣味・審美眼が「美しや」という一種の判定を引き出す。

一方、信治句は「秋の雨」という皆の目の前にある事物の、「上から下へ」という当然の動きを提示。ここには趣味も審美眼もない。普遍そのものに、もとより「うつくしさ」が宿るとでもいうかのようだ。

二句目。「問題がない」のは、なにも「馬たち」ばかりではない。「馬たち」でさえ問題がないのだから、すべてのものに問題があるわけがない。そう信じてしまえるほど、この「馬たち」には「選ばれた」感が薄い。言い換えれば、突拍子がない。美学的でもない。つまり、俳句的に/文芸的にとりたてて美しくも素敵でもない。つまり、すべてのものが「在る」ことに問題などあろうはずがない。

さらには「秋の海」という季語のいわゆる斡旋には、意外なほどムードを醸さない。説得力もない。句集『リボン』には、巧みで素晴らしい季語の扱われ方をした句がたくさんある(別の機会に言及したい)にもかかわらず、この掉尾を飾る句の「秋の海」の取って付けた感、ヘタさ加減は、どうしたことだろう。これはきっと、俳句としての処理・操作などなくても「馬たち」は「馬たち」なのだ、ということだろうと思う。これを世界の肯定と呼ばずして、なんとしよう。

「世界」は在る。それは「美しさ」である。

美しいのではない。美しいと感じる人間が一人残らずいなくなったとしても、そこには厳然として「美しさ」が在る。

冒頭と掉尾の二句、秋の雨と秋の海。すごいね。

ラヴ&ピース!


(句集にリボンについてはもうすこし書きたい。よって「つづく」といたします)


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