2018-09-09

【山田耕司句集『不純』を読む】おとこまえ  樋口由紀子

特集【 山田耕司句集『不純』を読む】
川柳作家から見た『不純』
おとこまえ

樋口由紀子


挿す肉をゆびと思はば夏蜜柑
ロー石の線路の果てのおはぎもち
鼻のあなに舌はとどかずヒヤシンス
ペンギンは受話器にあらず半夏生
エビフライずれてをるなり紅葉山


川柳人の私にとって季語は美しいトッピングのように感じていたので、上の句に使われている「夏蜜柑」「おはぎもち」「ヒヤシンス」「半夏生」「紅葉山」の季語には驚いた。

だから、何回も読み直した。季感にも抒情にも結びつかず、上五中七のフレーズの意味が揺らぎ、季語との違和感が場面展開を不思議なものにしている。エロスかなとも思ったが、生々しさは感じない。

 歯が抜けてなほ寒雲の下にゐる
淡雪のただそれとなくすべて山
研ぎ方のわからぬ虹となつてゐる


ほどよい抑制が心地よく響き、諦念から一歩踏み出したような仄かな明るさが魅力的な句である。存在と不在の間で「寒雲」「虹」「淡雪」という季語はその美しさを維持しながら、アコーディオンのように開閉する。その動きは言葉の揺れだけを楽しんでくださいと言っているようである。

 現状ではうなづく程度だが鯰
瓢箪をわが子とおもふ鯰かな


デリケートな感情をこのように表わすことができるのだと思った。くっきりしていて、そこはかとなくユーモアを感じさせるのにどこかさびしい。鯰の存在に「あはれ」「おかしみ」があり、「鯰」がいい味を出している。こんな「鯰」は必ずいる。「鯛」や「平目」ではこうはいかない。「鯰」に自分を投影させているのかもしれない。

仏たり炎暑冷たき髭剃られ
まづ声のわたりて鳥よ弟よ


弟の死と向き合っている。やり場のない感情を抑えて、理性で受けとめようとしている。この静謐さはとても男前である。「髭剃られ」も「剃る」でなく「剃られ」なので「仏」のもつ意味が響く。「まづ声のわたりて」の「まづ」も受け入れがたい現実の入口を感じさせる。

面影に天ぷらそばを持たせけり



>> 左右社HP『不純』

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