2018-09-30

【句集を読む】沼の光 岡田一実『記憶における沼とその他の在処』 三宅やよい

【句集を読む】
沼の光
岡田一実記憶における沼とその他の在処

三宅やよい


とてもきれいな句集である。深みのある群青色に繊細な装画、常に手元置きたいと思う新書版の大きさもいい。読み始めてその作品の迫力と構成の巧みさに驚いた。冒頭から読み手を引き込んで、読ませる句集だと思った。

岡田一実さんを始めて知ったのは『俳句関西なう』の作品50句を読んだときだった。「とほくに象死んで熟れゆく夜のバナナ」という句が印象的で岡田さんが所属する「らん」が届くたびに作品を追った。発表のたびに深まってゆく文体に自分の独自の世界を確立できる俳人だと思っていた。句とともに収録されている久留島元さんとの往復書簡の中で一実さんは「俳句を始めたきっかけ」について「喪失」だと述べている。「父母が次々と他界し、愛犬まで死んでしまったとき何かを言葉として残したいと思ったのですが、くどくどと辛かったことを書くのは嫌でした。そこで俳句なら短すぎて『語れないだろう』と思い俳句を作り始めました

「喪失」がきっかけというのは岡田さんの俳句にとって大きな要素だと思う。ちょうど同時期に読んでいた橋閒石の『俳諧余談』で橋閒石が昭和38年の「琴座」へ寄せた「イロニーとニヒリズム閑話」という小論があり、その中のニヒリズムについて書いた下りが『記憶における沼とその他の在処』の根底の部分を言い表していると思うので、引用したいと思う。

ニヒリズムとは「決意して自分自身であろうとする。つまり本当の意味で主体性をつかむ立場である。虚無というものもその立場において初めて顕わになるし、その中に自己を投げ込むことによって自己そのものも顕わになる。これはニヒリズムとしてもっとも根本的な拒否である。虚無の深淵を覗いたときに感じる『めまい』はまず、イロニー、不安、絶望へと深まってゆく。イロニーとは、自己をも含めて現実のあらゆる歴史的実在の世界に対して、『人間性』の立場から異をたて、その裏へ無限の否定性を差し込んで根底に虚無をすえる。これはあらゆる現実への無限の否定である可能性、として実在であり、ここに至って虚無の深淵は主体のうちに内面化される。
虚無の底の底まで沈んだときに「主体のうちに内面化」されたものが見えてくるのだろう。虚無自体は観念ではあるがそれを自身の内面としてどれだけ鮮明なイメージとともに俳句に立ちあげるか、岡田さんは今回の句集で見事にその成果を見せてくれたと思う。

火蛾は火に裸婦は素描に影となる

火に舞う蛾は光を求めて火に焼かれてこそ「火蛾」となる。裸婦の3次元世界の肉体を2次元の紙に表現するとき、そのかたちは影で構成される。火に舞う蛾の刹那的な輝きと素描で写し取られた裸婦の存在がくっきりと浮かび上がる。

眠い沼を汽車とほりたる扇風機

煙を吐きながらわたってゆく真っ黒な汽車は沼を通るのか扇風機を抜けてゆくのか。扇風機の羽根の回転音を聞きながらだんだん眠くなる。暗い「沼」ではなく眠い「沼」であることから「沼」はずぶずぶの眠気に支配された私自身であるかのように思える

くらがりの沼へ水入る蛾の羽ばたく

沼は湖と違い底が見えない。よどんでいて下に何があるかわからない怖さがある。その暗がりの沼へ水が入る、「蛾の羽ばたく」とはっきり書いてあっても暗い沼に羽根をとられる蛾のもがきを想像してしまう。

芯のなき赤子の首の昼寝かな

生まれたての赤子の首はぐらぐらしている。うしろにそりかえったりしないか不安で抱くのが恐ろしい。そのぐらぐらの首が昼寝している不安定さが怖い。

端居して首の高さの揃ひけり

端居しているなんでもない光景なのだろうが、首の高さが揃うという表現でさらし台に乗せられた首へ連想を誘う気持ち悪さがある。

鷹は首をねぢりきつたるとき鳩に

ブラックな句だが、鷹は首をねぢきって鳩になるという発想がシニカルに突き抜けた感じがする。不安定な首ねっこに対して否定のようで明るい肯定なのだ。

暗渠より開渠へ落葉浮き届く

暗い暗渠から流れに乗って落葉が明るい空を仰ぐ開渠に流れ出る。しょせん沈んでしまう落葉ではあるが、開渠に出た明るさがまぶしい。

冬の街つくるに街の冬木伐る

冬木に電飾を飾るのは好きではない。伐採された枝は次の季節の備えではあるけれど「冬の街つくるに」という目的を思うと人間のため?

蝋燭と冷たき石の照らし合ふ

灯をともした蝋燭が一方的にものを照らし出すのではない。光を受けた石も冷たく発光して蝋燭を照らしている。

こゑが混む部屋香水の人を据ゑ

人ではなく「こゑ」が混むところに注目。部屋の真ん中に香水をつけた人が無言のまま据えられている。談笑が続くなか、香水の人の孤高。

しらほねに耳の骨なし女郎花

耳の機能は最後の最後まで残るという。骨揚げでも耳の骨は細すぎて残らないのだろうか。この世の音を聞いた耳も跡形もなく、なくなってしまう。女郎花が哀れさを誘う。

空洞の世界を藤のはびこるよ

「夏藤のこの崖飛ばば死ぬべしや」「藤垂れてこの世のものの老婆佇つ」藤と言えば何を詠いたいかと問われて「孤独」と答えた鷹女の世界を思ってしまう。空洞にはびこる藤房は豪奢でもある。

前掲の橋閒石の文章には続きがある。
ニヒリズムを生き抜くことは、その克服を意味する「シニカルにまた無邪気に」の真意もそこにある。「シニカルに」はむろん価値の裏をあばくことだが「無邪気に」というのは、俗にいう「はからい」を放下して、端的に直截に自己を肯定する生の立場をさすのである。
この言葉もまた岡田さんの句の光の部分を言い表しているのではないかと思う。

( 了 )




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