岡本眸の句業を顧みる
『矢文』を中心に
堀下翔
岡本眸が今月一五日、老衰で長逝した。九〇歳。謹んでご冥福をお祈りする。私などは初学の頃からその作品にこそ親しんだが、ついに生前にまみえることはかなわなかった。二〇〇九年以降は療養を理由に作品発表をほぼ絶ち(主宰誌「朝」の記念号の類に一句を発表することは数度あったが)、事実上の引退状態となって久しかったからだ。総合誌では今後、追悼特集が当然組まれるのだろう。私の出る幕は本来ないが、訃報に接して二日、消沈していたところからようやく気力が湧き、岡本の句集を再読するにつけ、一人の読者の感想くらいせめて書いてみてもバチは当たるまいという思いになってきた。
(たかだか句集の感想を書くのに、こういうふうなみっともない断り書きから起筆しなければならないくらい、私は岡本の熱心な読者だったということだ)
〈花神コレクション〉『岡本眸』(花神社、一九九五)所収の年譜(おそらく自筆)を参考に、また一九九五年以後の事項は管見の範囲で適宜補うと、岡本の生涯は概ね下記のようになる。
岡本は一九二八年一月六日、東京都江戸川区生まれ。戦中の東京に青春期を過ごし、戦後、聖心女子学院国語科に入学。卒業後は日東硫曹(株)に入社し社長秘書になる。この会社の職場句会で指導者だった富安風生と出会い、一九五六年より「若葉」に投句。「若葉」編集長であった岸風三楼の指導を受け、一九五七年には風三楼の「春嶺」にも入会した。一九五九年、春嶺賞を受けて「春嶺」同人。一九六一年、若葉賞を受けて「若葉」同人。
一九六二年七月に母が亡くなる。句友曽根けい二との結婚間近の不幸だった。けい二との結婚はこの年の一一月のこと。同年、俳人協会に入会。一九六六年には子宮がんで全摘手術。一九六八年には父が亡くなる。
一九七一年、第一句集『朝』を牧羊社より刊行。この句集で俳人協会賞を受賞する。一九七六年には第二句集『冬』を牧羊社から刊行。この年の一〇月、けい二が急逝。以後、一人の身となる。一九七七年には朝日カルチャーの横浜教室の講師に就任。
一九七九年、風生逝去。〈自註シリーズ〉『岡本眸』(俳人協会)、第三句集『二人』(卯辰山文庫)刊行。一九八〇年、主宰誌「朝」創刊。
一九八二年、風三楼逝去。一九八三年、第四句集『母系』を牧羊社より刊行。また初の散文の単著『俳句実作セミナー』(入門書)を同社より刊行。翌年、『母系』により第八回現代俳句女流賞受賞。高度経済成長期を経て、カルチャーセンターが隆盛するに随い、俳句ブームが巻き起こり、その中で女性俳人にスポットライトが当たるようになった時期だ。女性主宰が矢継ぎ早に登場したが、岡本もその一人であり、代表的な作家だった。一九八九年からは「毎日新聞」の投句欄「毎日俳壇」の選者も務めている(二〇〇八年まで)。
著作はその後、第五句集『十指』(角川書店、一九八五)、入門書『岡本眸の俳句を始める人のために』(池田書店、一九八七)、随筆集『川の見える窓』(牧羊社、一九八八)、第六句集『矢文』(富士見書房、一九九〇)、入門書『現代俳句入門 つくり方と上達法』(家の光協会、一九九〇)、鑑賞本『季のある暮らし 俳句の読み方・味わい方』(牧羊社、一九九〇)、第七句集『手が花に』(牧羊社、一九九一)、第八句集『流速』(朝日新聞社、一九九九)、入門書『俳句は日記』(NHK出版、二〇〇二)、第九句集『一つ音』(ふらんす堂、二〇〇五)、第十句集『午後の椅子』(ふらんす堂、二〇〇六)、随筆集『栞ひも』(ふらんす堂、二〇〇七)と、療養のために退くまでほぼ切れ目なく刊行。ただし、『手が花に』と『流速』との間が空いており、これは古稀の前後に「みっともないことだが、しきりに、老いとか死とかを考えだして、おろおろと落ち着かなくなった。(引用者中略)出版が延びのびになったのは、前述のような私の気の迷いによるため」(『流速』あとがき)だという。また『一つ音』はふらんす堂ホームページ連載の日記句集のため、通常の作品集としては、『流速』と『午後の椅子』の間も空いていることになる。量的に言えば、一九七〇年代から九〇年代初頭までのおよそ二〇年間に一つのピークがあり、その後、二〇〇〇年代後半にふらんす堂から再び複数の本が出た、といったところか。後者は当然、牧羊社を退社してふらんす堂を立ち上げた山岡喜美子氏の後押しによるものだろう。
なお『午後の椅子』は第四一回蛇笏賞と第四九回毎日芸術賞を受賞。ほか一九九四年には紫綬褒章を、一九九九年には勲四等宝冠章を受章。
さて、その後のことだが、二〇〇八年二月号より「朝」における作品発表数が徐々に減り、二〇〇九年二月号には編集部名義の「長い間走り続けてこられた先生です。ここで充分なご休息をとっていただくことが必要でしょう」という編集後記が出た。翌三月号から継続的な新作発表がなくなり、以後、旧作再掲と周囲の補佐付きでの主宰選のみとなったが、ついに復帰はかなわず、二〇一六年一二月号、通算四六二号で「朝」は終刊。後継誌として松岡隆子主宰の「栞」と仲村青彦主宰の「予感」が創刊された。そしてこのたび二〇一八年九月一五日の逝去ということになる。
著作については、上記のもののほか、共著に『俳句添削教室』(東京出版、一九七八)、『女流俳句の世界』(有斐閣、一九七九)、『俳句創作の世界』(有斐閣、一九八一)、『鑑賞俳句歳時記』(有斐閣、一九八二)、編著に〈俳句実作入門講座6〉『日常吟と自分史』(角川書店、一九九七)、自選句集に『自愛』(ふらんす堂、一九九二)、〈花神コレクション〉『岡本眸』(花神社、一九九五、第一句集『朝』は全句収録)がある。『四季逍遥 岡本眸写真集』(ウェップ、二〇一〇)というのもあるらしいが私は未見のため詳細は不明。
参考文献としては、「俳句研究」一九八六年四月号の特集〈岡本眸の世界〉、「俳句研究」別巻『岡本眸読本』(富士見書房、一九九九)、小川美知子『言葉の奥へ――岡本眸の俳句』(ウェップ、二〇一七)といったあたりが必見資料になろうか。第二十八回俳人協会評論賞を受けた仲村青彦の『輝ける挑戦者たち――俳句表現考序説』(ウェップ、二〇一三)にも岡本に関する評論が収められている。『現代俳句大事典』(三省堂、二〇〇五)には「岡本眸」の項目を西村和子が執筆。島田牙城・櫂未知子編『第一句集を語る』(角川学芸出版、二〇〇五)は島田による岡本へのインタビューと第一句集論を収録。
なお二〇〇六年刊行の最後の句集『午後の椅子』に収められているのは二〇〇三年までの作品であり(岡本の句集にはこういうズレが多い)、二〇〇四年から引退までの作品は句集化されていない。全句集の話が出るのが待たれる。
以上、基本情報を雑駁ながらまとめてみた。ネット上には満足な著作一覧もないので、今後の読者の一助になれば幸甚である。
先に述べた部分とやや話が重なるが、著作を総覧すると、第一句集『朝』(一九七一)から第七句集『手が花に』(一九九一)までの句集はかなりハイペースで出ており、散文集もこの期間におおむね集中していることが分かる。高度経済成長に端を発し、その後長らく続いた俳句ブーム(終焉がいつなのか、いまひとつわからないのだが、むろん二〇一三年に「プレバト!!」が起爆剤になって始まった現在のブームとは別物)の中で、指導的立場にあった彼女に依頼が殺到していた様子が想像される。鷲谷七菜子、鷹羽狩行、能村登四郎などの句集が異様に多いのも同様の事情だったのだろう。俳句人口の増加によって、一九八〇年代に入ると総合誌も増加し、発表場所自体が増えていった。一九七三年創刊というから古株ではある牧羊社の月刊誌「俳句とエッセイ」も、一九八〇年代以降は掲載作品数が増加し、岡本なんて、一九八八年には、三〇句連載を一年やるという、想像するだけでげっそりするような仕事をしている。
そのような日々から生まれた多くの岡本作品が、私は好きである。
女性の社会進出のさきがけの時期に書かれた、
キヤンプ張る男言葉を投げ合ひて 眸『朝』
毛虫の季節エレベーターに同性ばかり 同『朝』
霧冷や秘書のつとめに鍵多く 同『朝』
といった句。あるいは、
鈴のごと星鳴る買物籠に柚子 同『朝』(引用者註:前書「結婚、神明町車庫前に住む」)
白玉や子のなき夫をひとり占め 同『朝』
夏燕夫の知る店どこも美味し 同『冬』
という、結婚生活の句。
夕焼け居らんか母葬り来し墓地もかく 同『朝』
喪主といふ妻の終の座秋袷 同『二人』
といった、痛切な句も心に残る。そして、
雲の峰一人の家を一人発ち 同『母系』(引用者註:「朝」創刊号に発表)
と見事に俳句に描いてみせた、主宰として生活と旅を往還する日々の、
抱かねば水仙の揺れやまざるよ 同『十指』(引用者註:前書「下田 五句」うち一句)
鍵しまふ抽出すこし開けて秋 同『十指』
春疾風少年の喪に子らの列 同『矢文』
パン焼いてゐてカレンダー四月にす 同『手が花に』
巷塵に暮れて筍飯淡し 同『流速』
春の暮列柱に身を紛らしむ 同『一つ音』
温めるも冷ますも息や日々の冬 同『午後の椅子』
といった句。
どの句集のどの句も忘れ難いが、私が最も愛読したのは『矢文』だ。マクラが長くなってしまったけれど、この句集について書いてみようと思う。
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『矢文』(富士見書房、一九九〇)は岡本眸の第六句集。一八八五年から一九八七年までの三一一句を収める。富士見書房から出た唯一の著作だが、一九八六年には「俳句研究賞」の選考委員を務め、同誌の読者投句欄の選者にも就任しているから、その縁ということになるのだろう。「俳句研究」で特集〈岡本眸の世界〉が組まれたのもこの時期(一九八六年四月号)である。
いまつとに知られている句を挙げると、
汗拭いて身を帆船とおもふかな 眸
秋風や柱拭くとき柱見て 同
生きものに眠るあはれや龍の玉 同
炎昼のきはみの櫛を洗ひけり 同
夏痩せて矢文のごとき目をもてる 同
さばさばと生きて日記も買はぬなり 同
文旦の故なくをかし笑ひけり 同
日傘さすとき突堤をおもひ出す 同
飲食のことりことりと日の盛 同
萩散つて地は暮れ急ぐものばかり 同
後ろ手に歩めば鳥や藁塚日和 同
仰ぐとは胸ひらくこと秋の富士 同
といったところになるだろうか。贔屓目で引きすぎたきらいがあるかもしれないが、現行の歳時記類やアンソロジーに入っている句を中心に挙げてみた。個人的には〈炎昼のきはみの櫛を洗ひけり〉〈さばさばと生きて日記も買はぬなり〉〈萩散つて地は暮れ急ぐものばかり〉あたりは演出のケが強くてあまり好きではないが、それにしても、句集を繰るにつけ、ああこの句も『矢文』に入っていたかと改めて驚くことしばしばであった。
〈汗拭いて身を帆船とおもふかな〉〈夏痩せて矢文のごとき目をもてる〉〈後ろ手に歩めば鳥や藁塚日和〉〈仰ぐとは胸ひらくこと秋の富士〉といった句の、奔放な、しかし実感のある比喩。句集表題に取られている〈夏痩せて矢文のごとき目をもてる〉の〈矢文のごとき目〉とは、矢のごとくに鋭く、文のごとくに意をもたらす、の謂いだろう。熟語を構成する「矢」と「文」とのそれぞれを喩になす力業である。
〈生きものに眠るあはれや龍の玉〉は、眠りという生理を不可思議に思うまなざしが深い。この句の主体人物自身は「龍の玉」を見つめているのだから、覚めて外に出ている。冬季の「龍の玉」から龍、蛇、そして冬眠を連想するのは読みすぎには当たるまい。冬の空気に、生きものたちの眠りの気配を感じ取ったのだ。くわうるに、「生きもの」と一般化されてこそいるが、人間の眠りのいとなみにまで思いが及んでいるようにも読めるのは、岡本の句という先入観があるからだろうか、さて。〈飲食のことりことりと日の盛〉のように、岡本の句には、ふつうの生活者にしてはちょっと心配になるくらい日々の些事を本質的に視ようとする志向があるのだ。
だって、〈秋風や柱拭くとき柱見て〉なんて、すごいでしょう。どなたの鑑賞だったかあいにく失念してしまったが、〈柱拭くとき柱見て〉とは日々をとことん丁寧に送ろうとする姿だと解釈したものがあったはずだが(揶揄ではなく本当に失念したのです。どなたかご存知の方はご一報を)、そんなわけあるものか。日々とは、生活とは、柱を拭くことが自動化し、柱なんて見ないで柱を拭くことなのである。柱を拭くときに柱を見て、あまつさえそれを俳句にするのが、岡本眸という俳人の凄みなのだ。
九月二七日の「毎日新聞」朝刊に掲載された訃報記事(https://mainichi.jp/articles/20180927/ddm/041/060/110000c 最終閲覧:二〇一八年九月二九日)――俳壇選者だったから、どこよりも詳しく報じていた――は、岡本のことを「日常に根差した生命感に富む俳句で知られた俳人」と紹介していた。この種の言説は岡本についてまわるし、ある程度は正しいのだと思う。けれども、その「生活に根差した」俳句とは、〈秋風や柱拭くとき柱見て〉のようなものであるということを、見逃してはならない。いみじくも私よりずいぶん早く、中村苑子がほぼ同じことを書いている。
私は以前から、この作家の作品に対するおおかたの世評が「平明で庶民的、一読、誰にでも判るやさしい情感にみちた句」と謂われていることを不思議に思っていた。(引用者中略)知人に貸してしまってあいにくいま手元にないから確かめられないが、島田牙城も『第一句集を語る』(角川学芸出版、二〇〇五)でこの文章に首肯していたはずだ(さっきから「あいにく」が多くて申し訳ないが、通夜に平服で馳せ参ずるようなものと思っていただきたい)。〈蟻殺す〉の句はいささか中村ごのみで極端ではあるが、岡本はこういう句も書く作家だったということだ。
蟻殺す見失はざるため殺す
のような作品が、どうして「平明で庶民的」であろう。
(中村苑子「命とは神意なりや――句集『二人』管見」、「俳句研究」一九八六年四月号〈岡本眸の世界〉所収)
だからこそ私は、〈文旦の故なくをかし笑ひけり〉〈日傘さすとき突堤をおもひ出す〉という不思議な句を、しかし、ああこれは岡本の句だなあ、と思うのだ。文旦はまさに「故なく」おかしく見え、日傘をさしながら「故なく」(と、しか言いようがないだろう、日傘と突堤には何の関係もないのだから)突堤を思い出す。「故なく」とは文字通り、理不尽ということである。生活とはなんと殺伐としていることか。
先んずる句集『二人』にも〈夕星を見てゐて急に野火のこと〉という句がある。これには『現代俳句入門』(家の光協会、一九九〇)に「房州の春宵の空は滴るように青く美しく、星は小さな炎のかたちをしていました。その星を見ているうちに、ふと、昼間見た野火の炎を思い出したのです。それだけの景ですが、早春の房州の明るさが背景にあってこその作です」という自解が書かれている。「炎」の形象を媒介として「夕星」と「野火」とが結びついている点、理屈自体は通っていることになるが、この二つを結ぶことができるのは偶然にこの二つを目撃した岡本のみなのであり、それとて「急に」「ふと」というさまなのだ。
「故なく」「急に」「ふと」何かが見えだすことがある、平凡ならぬ切れ目が入ることがある、それが生活というものなのだと、私は岡本眸から学んだ。『矢文』には〈確かむる一事ありけり春夜逢ふ〉〈人糺す思ひの文を秋の水〉(引用者註;前書「一事あり、敢へて」)〈略奪の速さに過ぎて雪野汽車〉(引用者註:前書「越後湯沢 六句」うち一句)という、温厚という世間的な作家像とはうらはらの句や、〈春疾風少年の喪に子らの列〉というケガレを詠んだ句があるが、生活とは、このように唐突なものを孕んでいるのだ。作家の伝記的事実に倚りかかりすぎているかもしれないが、岡本がこのようなまなざしを持ちえたのは、前半生に悲痛な死別を相次いで経験したからではないかと、私はひそかに考えている。
岡本さん、ありがとうございました。合掌。
2 comments:
追悼記事を読ませて頂きました。ありがとうございました。亡き父が朝同人であったことから、朝終刊の2年朝におりました。眸先生から返信の投句ハガキが私の宝です。合掌
お返事が遅くなりましてたいへん申し訳ございません。このたびはご愁傷様でした。「朝」の方にまで私の文章が届いたことに驚いています。私などは岡本さんと直接の御縁はありませんでしたから、はたしてこのような性質の文章を書いてよいものかと逡巡していました。あたたかいお言葉に痛み入ります。
実は2014年の春に、一度だけ「朝」の句会にお邪魔したことがあります。その折野路さんには大変お世話になりました。大切な思い出です。
堀下 拝
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