【空へゆく階段】№13
雑詠鑑賞
田中裕明
雑詠鑑賞
田中裕明
「青」1982年6月号・掲載
この連載も今回でいちおう終わりとなる。飽きもせずに同じことを繰りかえしてきたものだとも思うし、また俳句読者論という鍵をもって俳句の扉を開くこころづもりがその扉にさえたどりつけなかったという感も深くする。とにかくわたしの俳句原論というものがもしあるとすればそれはここからはじまったのだけれども、俳句における作者と読者の距離を考えもともとそのようなものはないのだと言うためにずいぶん苦労したし、また俳句読者とはいったい誰なのかという問いにならない問いを発しもした。
すぐにまわりを見まわすのが悪い癖だということは知っているので、短歌の読者、現代詩の読者、あるいは小説の読者とくらべることはしなかったけれども、それは音楽と絵画を比較するのと同じぐあいにはゆかなかっただろうと思われる。言葉がそのはたらきをするためには独特の論理とも呼ぶべきものが必要になってきて、しかもその論理の独特なるゆえんはそれが言葉を拘束するものでなく却って言葉のはたらきによってかたちづくられる点にある。その論理が短歌、現代詩、小説とは異なっていることは言わなくてもわかって、また根本的な言葉の論理は共通しているなどと言う必要もない。
言葉の論理とは詩人がどのようにしてその言葉を手に入れるかということで、詩の言葉は詩人の先に立つのだけれども、俳句では五七五の全体が天啓のごとくに与えられることがあってその場合のほうが多いことも考えられる。だから俳句の論理がごくみじかいということにはならなくて、短い詩というのは字に書けばそれが短かったということにすぎないから、俳句や短歌を短い詩と言うのは意味がない。あるいはわたしたちは詩の長短をはかる尺度をもっていないのであって、それとも明日生きるのをやめればそれは短い一生だったということになるのかしらん。
言葉の論理とは言葉が次の言葉を求めることだとすれば、その最初の一行はどこから来るのだろうか。べつに神々の国からと言ってもかまわない。俳句はそれ自体が最初の一行であり最後の一行なのだから俳句は神々の国から来ると言っても。これを連句はと言えば付合がこの言葉の論理にあたるからこの論理は複雑でかつうつくしいものになる。またたとえ言葉が先に立つとしてもできあがった詩はわたしたちが考えた跡をたどって言葉を配列したようにみえて、これが俳句ではただの一行であるから考えたことなど一度もないような顔をしている。しかしながら考えるということをわたしたちの精神に言葉をひびかせることだと知れば、先に述べたレトリック的思考に通じて、しかも俳句ではそれがひとりで考えることにはならない。
寒ざらへ始まつてゐる釘を打つ 朱人
ものごとがたんに新しいということはないので、トラディションを背負ってはじめて新しくなる。これは伝統が次の言葉を求めていると言ってもよくて、そうなれば最初の一行は既に与えられているのだから、言葉が意に従うのではなく意が言葉に従う。もっと言えば新しい内容というものはないので、宣長が意はまねやすくかたちはまねがたしと言ったのはほかのことではない。
詩来苦相寛という句が蘇軾が友人の詩に和したものに見える。書きくだせば詩来りてねんごろに相ゆるうすとなり、きみがこころ遠くして射るべしとつづく。すぐにひるがえって俳句はとはじめなくてもいい筈で、このあとに依依見其面 疑子在咫尺とあるのを読むときは俳句を知らない。俳句でもこういうことがないとは言えなくて、そういう私的な句が普遍的なコンテクストの中で読まれるときに、演劇で舞台の上のダイアローグを覗きみるのと同じような面白さがある。それを俳句における仕掛けのひとつと考えてもよいけれども、べつの見方をすれば俳句はすべて私的であるがゆえに普遍なるものを獲得すると言うことが可能で、それを挨拶と言うこともある。このとき挨拶は個人のものではなく伝統に属している。
演劇の観客を例に出したが、観客と読者との照応はよく言われることで、これはどちらが先なのか判然としないが劇場の構造が変化するにつれて観客が俳優と距離をもつようになったことは近代における読者の変質によく似ている。つまり近代的読者はあるパースペクティヴのなかでドラマを眺めているわけで、これは俳句読者とはかなり違っていて、わたしの考えている俳句読者はこれほど冷静ではない。
朝からの雨の初午御供配る 静子
ときどき時間のことを考えて、ものごとが動いているとたしかに感じられるときにそこに現在があり時間が流れていると思う。時間が止まっているという気がするのはそれだけ充実した時間が流れているということであるから、俳句のなかでは輝きながら時間が流れるのが見えるしまたただ一度かぎりのことのようにも思える。
もう一度蘇軾の名前を口にするなら、赤壁の賦は時間を考えさせて、変化するという点から見れば天地は不変でなく、変化しないという点から見れば万物も私も尽きはてることがないと友人に言う蘇軾の声はわたしたちの耳にも届く。そのあと赤壁の下の舟の幾人かはまた飲みなおして東の空が白んできたことさえ知らなかったと書いてあるのを読めば時間というのはそのようなものであって、その時間とともに生きる人間を感じる。時間にいくつもの種類があるわけはないから俳句のそれも舟の中で寝ている人とともにあるようなもので、もちろん時計の時間は時間ではない。
意識の流れを追えばそれは時間のかかることであって、俳句はそれほど息が長くはないと考えるのはあたっていない。俳句では人間の意識の流れを表に出さないから、俳句のなかの自然は作者の意識だと言っても信じてもらえそうにないが、時間はそういうぐあいにしかあらわれない。そう言えば「失われた時を求めて」も「ダロウェイ夫人」や「灯台へ」が書かれたのも今世紀にはいってからだった。
≫解題:対中いずみ
0 comments:
コメントを投稿