2019-06-30

【歩けば異界】④女化 柴田千晶

【歩けば異界】④
女化

柴田千晶

初出:『俳壇』2017年6月号「地名を歩く」

女化(おなばけ)という地名に呼ばれて、桜にはまだ少し早い三月の下旬、茨城県龍ヶ崎市を訪ねた。上野駅から常磐線に乗り、佐貫駅で降りる。寂れた駅の東口には観光客らしき人の姿はなく、タクシーが一台止まっているだけ。

「女化神社まで」と告げると、「お客さん、前にも乗せたことあったね」と、運転手に言われた。

ミラーに映る男の顔に確かに見覚えがある。龍ヶ崎市には初めて来たのだけれど。男とどこで会ったのか、思い出せないうちにタクシーは走り始める。

竜ヶ崎ニュータウン、ニュータウン北竜台、ニュータウン長山……広大な田畑と田畑の間に造られた新興住宅地にモダンな家並が続いている。

タクシーは蛇沼公園の入口を通過し、雑木林沿いの脇道を走っている。女化神社までの近道だと運転手は言う。

薄暗い脇道を抜けて、広い道路を渡ると、女化神社の裏側に到着した。

料金を支払うと、運転手から名刺を渡された。

「根本忠七」という名前と、電話番号のみが記された名刺。

もしも帰り道がわからなくなったら呼んで下さいと。

女化神社は、牛久市女化町の中にある。不思議なことに所在地の住所は龍ヶ崎市馴馬で、神社の敷地だけが龍ケ崎市の飛び地になっている。

砂利道の参道を歩く。桜はまだ二分咲きだ。いくつもの鳥居を抜けた先に質素な拝殿があり、拝殿の手前には二体の狐像が祀られている。

左右の狐の足元には可愛らしい子狐がいる。

女化の狐女房譚に由来しているのだろうか。

女化伝説は、猟師に命を狙われた狐を、農夫の忠七が助け、その狐が人間の娘に化けて、忠七の妻となり、三人の子を産む。だが八年後、うっかり忠七に正体を知られてしまい、母狐は子と別れ、泣く泣く森に姿を消す、というお話。

拝殿の裏の道を北へ行くと、こんもりとした森が現れる。

母狐が逃げ込んだというその森に、女化稲荷の奥の院がある。低い鳥居を屈んでくぐる時に顔が夕映えのように明るむ。と、先ほどの運転手の名前が、女化伝説の農夫と同じ「忠七」だったことに気づく。

私はあの男にやはり会ったことがある。

地中に半分ほど埋まった鳥居の向こうで、三匹の子狐が私を見つめている。もう引き返さなければ。でも帰り道がわからない。

橅林の暗がりの向こうに、タクシーの「空車」の文字が赤く滲んでいる。

茨咲いてこんなさみしい真昼がある 三橋鷹女







0 comments: