【空へゆく階段】№16
本居宣長
田中裕明
本居宣長
田中裕明
「青」1979年10月号・掲載
本当のところは私の読んだ本ではない。読みたい本である。
小林秀雄の文章はある速度で読みすすむことができない。言葉が難しいのではない。語彙は広い方ではあるまい。
小林秀雄は考えながら書くのではなく、書くことによって考えをすすめていく。自分のために、思索のために書く文章だから、道すじを知っておらねば読み辛いのかも知れない。ここから読書は娯しみを離れる。「當麻」や「無常といふこと」などにしても、一気に読み通せない。それでいて、情熱的な筆運びがわかるのだから、もどかしい限りである。
小林秀雄の内面ということ、又その内面に深く斬り込むことは私の理解の外にある。彼の最も赤裸々な形が我々の眼前にある。そう信じることが読書のはじめである。人は、ある人を、ある文学を、良い意味でも悪い意味でも無批判で受け入れることを嫌う。信仰というものは別のところにあると思う。信仰が別のところになどある筈がない。
小林秀雄は歴史と美である。権化だというのではない。ある物を求めるとき、彼自身その物であることに間違いない。「當麻」が「無常といふこと」が美しいならば充分だ。
「當麻」と「無常とふこと」など短かいものが好きである。エッセイという言葉には本来かなり重い意味があるというが、私は知らない。しかし、これらの文章がエッセイと呼ばれるならば、それも納得できる。『だが、僕は決して美学には行き着かない』この簡明な覚悟は、解釈だらけの現代における最も思想らしい思想かも知れない。ただ、そう記したペンが動きを止めずに、「本居宣長」を書いている。厄介なことだ。
「本居宣長」を読もうとするのは何故か、自問はそこから始まり、進まない。冒頭に『「古事記」をよく読んでみようとして、それなら面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだことがある』とある。「うひ山ぶみ」や「玉かつ間」を読もうとして、それなら面倒だが、小林の「本居宣長」で……。別に冗談ではない。
本居宣長に『姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ』という言葉がある。小林秀雄は続けて言う。『意は似せ易い。意には姿はないからだ。意を知るのに、似る似ぬのわきまえも無用なら、意こそ口真似しやすいものであり、古の大義を口真似で得た者に、古歌の姿が目に入らぬのも無理はない。文辞の伝へる意を理解するよりも、先づ文辞が直かに示してゐるその姿を感ずる、宣長は、これを歌人の習癖とも、歌学者の特権とも考へてはゐなかった』という。
「本居宣長」と鴎外の史伝と相通ずるものがあると感ずるのは多分間違っていない。そしてまた小林秀雄が「渋江抽斎」を意識して、なお史伝という姿になれぬのは能力の問題ではない。
小林秀雄が「古事記伝」を読んだのは「古事記」を読むためではなあかろう。小林が古事記を読んだことに間違いはないが。
≫解題:対中いずみ
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