2020-01-19

【週俳12月の俳句を読む】雑読雑考3 瀬戸正洋

【週俳12月の俳句を読む】
雑読雑考3

瀬戸正洋



句集「星糞」谷口智行(2019年12月20日、邑書林刊)の「あとがき」に、

私はある時期、那智勝浦町八幡神社の社務所で毎月一回開かれる「古事記を読む会」に参加した。
とある。本居宣長は、三十五年の歳月をかけて「古事記」を読んだ。その年、つまり、「古事記伝」脱稿の年に、浅間山が大噴火した。(「ふることのふみをらよめばいにしへのてぶりこととひききみるごとし」本居宣長)

句集「星糞」より二句、

長き夜の夢にふることぶみのこと  谷口智行

ふんだんに星糞浴びて秋津島  同

彼が、「熊野大学俳句部」に、入会したのは、西暦1993年である。彼は、二十七年間、「熊野」を読みつづけた。そして、現在も、読んでいる。「熊野」を読みつづけなくては、「熊野」を、詠むことはできないのだとおもう。

それにしても、「星糞」とは……。古代人のおおらかさを感じてしまうことばである。



「好きだと決めたから愛します」という。私は、こんな生き方が好きである。自分で、そう決めたから、そうする。つまり、百パーセントではないのである。まだ、すこし、迷っている。自分で自分を励まし一歩を踏みだそうとしている。人生とは、そういうものだと思う。「愛すると決めたから愛します」でないところにもひかれる。

セーターの模様にはあらわれない情  井口可奈

恋愛のはじめは、「情」が同じになることだ。あなたの苦しみがわかる。かなしみが理解できるということだ。確かに、セーターの模様に、「情」を感じることができるのならば、ホンモノに近づきはじめたということなのかも知れない。

つめたさにチューブ引き絞って余る  井口可奈

余ることは、たいせつなことだとおもう。余らないということは、誰かが、何かが、悪いのである。つめたさとは、水のつめたさなのか。こころのつめたさなのか。あなたのつめたさなのか。とにかく、チューブは、引き絞ってみなければならないのである。

里神楽手懐けられてしまう犬  井口可奈

手懐けようとするものはいない。手懐けられてしまっていると、勝手に思いこんでいるだけのことなのである。思いこむということは、その先を、左右することなのである。

神さまもひとも、神楽がすきなのである。

指をさす手前で逃げる冬の鳥  井口可奈

気配を感じただけで逃げてしまったのである。それほど、思いつめて悩むことはないのである。本当のことは、ことばでなくても十分につたわるということを、逆の方法で表現しているのかも知れない。

湯豆腐の豆腐揺らして遊びけり  井口可奈

遊びとは、こころを満たすためにする行為である。豆腐を揺らすことが遊びであるとおもった。それで、十分に、こころは満たされているのである。

実験のための明かりや冬景色  井口可奈

文部省唱歌のイメージよりも、空しさ、あるいは、さびしさを感じてしまう。実験というかたいことばのせいなのかも知れない。実験のためのとしたことで、ますます、空しさ、さびしさを感じてしまう。

目覚めないコールドスリープ鯨来る  井口可奈

目覚めることができなかったとしたら、眠ったままだとしたら、それはそれでいいのかも知れない。そのとき、目覚めることができなかったら、などと考える必要は何もないとおもう。

目覚めないのであるから、それだけのことなのである。そんなことより、何故、鯨は来るのかということにおもいを馳せることのほうがたいせつであるような気がする。

この人に見せる歯ならび十二月  井口可奈

知ってほしい。興味をもってほしいのである。十二月としたことで、せっぱつまっているような気もする。歯ならびを見せるか否か。そんなことでも、ひとは追いつめられるものなのである。

きみならばできる葉牡丹押し広げる  井口可奈

不本意な励ましである。葉牡丹にしてみれば、たまったものではない。放っておいてほしいとおもっている。ひとつのことに、こだわると、まわりが見えなくなってしまう。自重すべきことなのかも知れない。

冬霧やスワンボートに囲まれて  井口可奈

冬霧とは何であるのか。味方か敵か、善か悪か。とにかく、スワンボートで湖に漕ぎだす。いつのまにか、湖は、悩むひとたちであふれている。

大雪を妻もくもくと荷造りす  松本てふこ

離れたところから自分をながめている。何もいわず、荷造りに励んでいる。ただ、こころには、何らかの、わだかまりがあるのかも知れない。

十二月八日朝餉に味海苔が  松本てふこ

「十二月八日」とは、太宰治の短編小説の題名である。十二月八日は、太宰夫妻にとっては、ひとつのはじまりの日であった。

十二月八日は、太平洋戦争のはじまった日である。ジョン・レノンが射殺された日でもある。

朝餉に、味海苔を食べる。日常である。だが、災難は、ひと知れず、背後から、何気なく訪れるものなのである。油断してはいけない。身がまえて生きていかなくてはならないのである。

保安検査場よろよろと着ぶくれて  松本てふこ

検査が強化されるのは、しかたのないことだとおもう。これからも、ますます、複雑になっていくのだとおもう。

ただ、着ぶくれて、よろよろするのは老人の特権なのである。どんなところであっても、十分に、着ぶくれて、よろよろすべきなのである。

子供にも旅荷ありけり石蕗の花  松本てふこ

幸せな風景である。だが、孤独を感じたり、不安を覚えたりするのは、こんなときなのである。

自分が、耐えて生きてきたように、この子らも、石蕗の花のように生きていくことができるのだろうかなどとおもっている。

冬浜にゆるやかに散り一家かな  松本てふこ

ゆるやかに散りとは、いい表現だとおもう。自由なのである。束縛などなにもないのである。冬浜だからなのだとおもう。自然に美しくないものはひとつもない。美しいから、自然というのかも知れない。

レノン忌や貝殻砂に埋めなほし  松本てふこ

埋めなおすことに意義があるのである。十二月の砂なのである。当然、目のまえには、十二月の海がひろがっている。

海辺の街のアパートのラジオで、ジョン・レノンが射殺されたことを知った。ラジオで、某シンガーソングライターは、「正しく生きようとすると、殺されてしまうのかも知れない」などといっていた。四十年以上もまえのことである。

貝殻を、砂に、埋めなおすことができるということは、幸せなことなのかも知れない。

幼稚園バス冬紅葉横切りぬ  松本てふこ

冬紅葉のなかを幼稚園の送迎バスが走っている。若葉を横切るのではなく、冬紅葉のなかを横切っていくことに、何かを感じたのかも知れない。

しばらく行くと、幼稚園の扉はひらき、園長先生は、園児たちを迎える。

避寒地のガードレールやよく汚れ  松本てふこ

昔ならば、沼津あたりの別荘ということになるのかも知れない。御用邸もある。そういえば、沼津の御用邸で句会をしたこともあった。半紙に墨で、「**俳句会」会場と書かれて貼ってあった。

現代ならば、沖縄、台湾、東南アジア、グアム、ハワイとなるのだろう。避寒地など行ったことのない私にとって、ガードレールがよく汚れている理由はわからない。

旅に来てシャンプー安しシクラメン  松本てふこ

年金だけで生きていくつもりである。山村くらしだと、それが可能なのである。旅に出ることなどあきらめている。シクラメンの鉢を買うことなどあきらめている。すこしでも安いシャンプーを買わなければならないことは知っている。

冬帽の夫が佇む渚かな  松本てふこ

海を見ているのである。海を見ている夫の背を見ているのである。何故、冬帽をかぶっているのかとおもう。うしろすがたは、そのひとの真実のすがたを見せてくれるのかも知れない。

スリッパのあまたぬがれて神の留守  浅沼 璞

神さまは、スリッパを履いていなさるのだ。神さまは、誰にたいしても公平なのである。

スリッパとは、足をすべらすように入れて履くものである。ぬいたままのスリッパをながめながら、明日のことを考えている。

神様がゐないみなとみらいライン  浅沼 璞

みなとみらいラインは、ホームへむかうエスカレーターが長い。深く沈んでいくような気がする。いくら、振りかえってみても、確かに、神さまは、いらっしゃらない。みなとみらいラインは、馬車道、日本大通り、元町・中華街へとつづく。

大根ひき虫歯できしりきしりとす  浅沼 璞

歯の強くこすれあう音である。当然、歯は痛いのである。大根を引くまえに、やらなければならないことは、いくらでもあるのだ。

小春日のほこりとなりぬ蓄音機  浅沼 璞

蓄音機は、ほこりとなった。小春日ならば、なおさらのことなのである。針を落とすと聴こえる雑音。すてたものではないとおもう。

つぶらなる丘の小春の子供たち  浅沼 璞

子どもたちがかわいいのは、あたりまえのことである。おだやかであたたかい日の、丘のうえの、子どもたちがかわいいのは、あたりまえのことである。つぶらなるとは、それらを象徴していることばなのである。

鼻先をみんな聖樹へふり返る  浅沼 璞

誰もが聖樹を見ている。ふり返るひともいる。誰もが、聖樹を見つづけていたら、それは、それで怖い光景だとおもう。ふりかえるひとが、ひとりぐらいいることを知ると、安堵感をおぼえたりもする。

つけ髭のぶらさがりをる聖夜かな  浅沼 璞

つけ髭だとわかることは、安心なことなのである。ぶらさがっているとわかることは、安心なことなのである。聖夜であれば、なおさらなことなのである。

壁一枚へだてクリスマスは眠る  浅沼 璞

一枚の壁はたいせつなものなのである。なぜならば眠ることができるからである。誰もが、ふと、われにかえるときがある。だから、一枚の壁はたいせつなものなのである。

駅ホーム端へ端へとゆくコート  浅沼 璞

最前列の車両に乗りたいのかも知れない。最後尾の車両に乗りたいのかも知れない。中途半端な車両はごめんこうむりたいのである。コートを着ていればなおさらのことなのである。

すかすかのジャンパーなびかする軍港  浅沼 璞

軍港では、とにかく、何でも、なびかせなければならないのである。「すかすかのジャンパー」を着るとは。何か、批判しているような、見下しているような気がしないわけでもない。

ちょっとした隙に溢れるお屠蘇かな  樋口由紀子

隙があるということは、たいせつなことなのである。ちょっとした隙をみせることは、生きるための知恵なのである。杯から溢れたのは、ただの酒ではない。お屠蘇なのである。不老長寿の効があるといわれている、お正月の祝い酒が、ちょっとした隙を見つけたのである。杯から溢れたのである。こころが溢れたのである。めでたいことだとおもう。

数の子に似ているもののあたりまで  樋口由紀子

似ているものは偉大である。似せようとする精神がすばらしいとおもう。だから、引きかえすのである。やさしさは、たいせつなことなのである。せめて、年のはじめくらいは、やさしくあってほしいとおもう。

黒豆の覚悟を決めた艶っぽさ  樋口由紀子

覚悟を決めたからこその艶っぽさなのである。世のなか、覚悟を決めていないひとであふれている。だから、たのしいのである。だが、ときどき、覚悟を決めることなく、ふわふわと生きていて、いいのかとおもったりもする。

明日なら好きになれそう紅白膾  樋口由紀子

からだによさそうだから遠慮しておこうとは、見あげたものである。にんじんと大根に塩と酢と砂糖と醤油。無敵である。

だが、明日になれば、そのときも「明日なら好きになれそう」などといっているような気もする。

栗きんとんバツ一だとかバツ二とか  樋口由紀子

栗きんとんを食べている。男だろうが女だろうが、おとなだろうが子どもだろうが、関係ないのである。当然、「バツ」云々などということは、何の問題もない。遠慮する必要など何もないのである。今年一年が決まってしまうのだという、こころいきで食べてしまえばいいのである。

棒鱈はにせものらしいそうらしい  樋口由紀子

にせものが好きである。何も、わからないのに、ホンモノだといいはるひとも好きである。何もかもが、にせもの、にせものにかこまれた生活。しあわせとは、このようなものなのだと確信している。

雑炊と雑煮のあいだ間違えて  樋口由紀子

「雑」とは、ひとがらを表すことばである。もちろん、炊くのは、ひとである。煮るのも、ひとである。ひととひとのあいだにいるのは、ひとである。間違えるのもひとである。「雑」とは、あこがれのことばである。

重箱の底は開かなくなっている  樋口由紀子

重箱の底が開くと、こぼれてしまうから、開かなくなっているのである。そんなことは、誰でもわかっている。

底の開く重箱をつくるひとに、会わなければならない。底の開く重箱を手にしなければならないのだ。

凩や石もて潰す貝の殻  相子智恵

貝の殻は、かつて、貨幣、装飾品、日用品、玩具、薬用、魔除けなどに使われていた。

だが、この貝の殻は、石で潰される。ただ、それだけのことなのである。凩が、そう仕向けているのである。石が、そう仕向けているのである。世のなかが、そう仕向けているのである。

壁面緑化宙吊りの枯草も  相子智恵

壁面を緑化することにより、ヒートアイランド現象の軽減、空気の清浄化。さらには、緑を見ることによる心理的・生理的な効果などがあげられる。ひとや地球にやさしいのだという。

枯草は宙吊りにされ、ベランダに干されているのだろう。まだ、緑色が、残っているのかも知れない。宙吊りには、「ちぐはぐな」、「違和感がある」などという意もある。やさしさとは、何であるのか、考えている。

京寒し五山の火床(ほど)を遠く見て  相子智恵

五山の火床を遠くに見て、五山の送り火におもいを馳せている。それにしても、
何故、京都の冬は、こんなにも寒いのかとおもう。

しぐるるや大学を抜け相国寺  相子智恵

相国寺とは、臨済宗相国寺派の大本山である。南には、同志社大学がある。大学を抜けることが近道なのかも知れない。それとも、散歩のコースなのかも知れない。

冬のはじめのころ、振ったりやんだりする小雨のことを、しぐれという。

太き咳して幼年は少年に  相子智恵

五歳までを幼年という。十四歳までが少年、三十歳までを青年という。咳とは、気道内に異物が混入することを防ぎ、逆に、気道内の遺物を排除するためのからだの動きであるという。咳も、幼年から少年へと成長していくのである。

少年は自転車愛す冬紅葉  相子智恵

冬紅葉のなか、少年は、自転車に乗っている。はじめて、ひとりで、ペダルを漕ぐことができたのかも知れない。

凩も楽し自転車立漕ぎに  相子智恵

少年は、自転車を立って漕ぐ。立って漕ぐことが嬉しいのである。少年は、自慢げに、何度も、母親に、凩に、ふりかえるのだ。

結露の窓に落書きあまた十二月  相子智恵

結露の窓に、誰かが落書をした。書きはじめたらとまらなくなってしまう。誰かが書きはじめたら、誰もが書きたくなってしまったのだ。

「いたずら」書きでいっぱいの十二月の窓は、やさしさであふれているのだ。

果汁一パーセントのジュース冬の星  相子智恵

果汁一パーセントとは、無果汁であることと同じである。私たちが、子どもの頃は、粉末ジュースがあった。水に溶かさずに舐めたりもした。とても、懐かしい気がする。

少年期に、おもいを馳せる。冬は、空気が澄んでいる。星のかたちが、くっきりと見える。よくここまで、無事に生きて来ることができた。「運」がよかったからだとおもっている。

ゆでたまご黄身みどりなす聖夜かな  相子智恵

たまごが過熱されたことにより発生した硫化水素。それが黄身の鉄分と反応してできたものがみどりいろに見えるのだ。聖夜であるから、黄身が、みどりいろに見えるのだ。

事実(真実)は、知らないことのほうがいい。夢は、持ちつづけていかなければならないとおもう。

夜明け前の上り電車を待つ厚着  福田若之

たいせつな用事があり都心へ向かうのかも知れない。それとも、遊び過ぎて終電に間に合わなくなり、始発電車で自宅へ帰ろうとしているのかも知れない。夜明け前のホームには、やさしいひとたちであふれている。

雨漏りをやがては氷柱とも思う  福田若之

ものごとは、負にむかって進んでいる。精神も、世のなかも、何もかもが。あたかも、ひとが死にむかって歩いていることと同じように。だから、氷柱になるためには、それなりの決意と努力が必要なのである。

寂しみは鯛焼きの鰓その陰り  福田若之

鯛の鰓ではない。鯛焼きの鰓なのである。寂しみは、その陰りだという。鯛焼きの鰓にも存在する理由はある。誰もが、寂しみを噛みしめながら生きていくのだとおもう。

三日月を冴えた水面に風が研ぐ  福田若之

三日月を、鋭く切れるようにすることは、どういうことなのだろうか。三日月を、冴えた水面において、風で研ぐということは、どういうことなのだろうか。

かわせみが雪の景色の枝に待つ  福田若之

かわせみでなくても、待つことは大切なことである。力んでみてもしかたのないことだ。ただ、祈ることである。雪は、しんしんと降りつづいている。

筆を執りながらに咳をこぼす夜  福田若之

老人は、夜に文章を書くことはない。からだのためなのである。太陽を感じながら文章を書くのである。すこしくらいの咳は、こぼしてもかまわない。太陽を全身に感じながら、貧しい文章を書きつづけていくのである。

とっぷりと濡れて仕上がる焼き林檎  福田若之

とっぷりと濡れたのは人生なのである。人生を仕上げるためには、林檎を焼かなければならないのである。他のものを、いくら焼いても、何のやくにもたたない。林檎を焼かなければならないのである。

推敲の果てに海鼠の句が残る  福田若之

苦労することはたいせつなことである。結果、何かが残るということは幸せなことなのである。懸命に生きてみても何も残らないのが人生なのである。何も残らず、何もわからず、死んでいくのが人生なのである。

曰く座の文芸だとかなべこわし  福田若之

「なべこわし」という魚がいる。「なべこわし」という料理がある。座の文芸というものがある。

ただ、集まって笑いながら酒を飲めばいいのだとおもう。

地吹雪にまた僕の影見あたらない  福田若之

影があるということは、生きているあかしである。影が見あたらなくなるということは、死が近づいてきているということなのかも知れない。地吹雪と影との関係は、そういうことなのである。それも、生きていきたいと願っているのである。

水仙花机汚さぬ花として  岡田由季

机のうえは汚れるものなのである。だから、一輪挿しに水仙を投げこんだのである。これは、あくまでも、自分自身への戒めのためなのだとおもう。

エコカーの音無きことも神無月  岡田由季

エコカーは、静かである。静かであることはいいことなのかも知れない。悪いことなのかも知れない。エコカーに乗って日本国中を旅することも楽しいことなのかも知れない。

冬桜猫消えてゐる倉庫裏  岡田由季

猫はどこにでもいる。どこにいても、すぐにいなくなる。冬桜が咲いていても同様である。倉庫裏にいても同様である。猫は、ひとが考えているよりも不自由であるのだとおもう。

マスクして試用期間のあとすこし  岡田由季

マスクとは、やさしさの象徴である。使用期間でなくても、使用期間が終わろうとも、必要なものなのである。「あとすこし」とは、自分を励ますことばである。勇気をつけようとすることばである。やさしさには、勇気がいるのだとおもう。

降誕祭ワカケホンセイインコ群れ  岡田由季

「群れ」とあるので、野生化してしまったものなのだろう。「群れ」とは、同一種の集団でもある。複数種の集団でもある。

「群れ」て生きることに、誰もが疲れている。自由に生きたくて「群れ」ることに、誰もが疲れている。降誕を祝う祭りの日であっても、「群れ」なくてはならないことに、誰もが疲れている。

指ばかり動かしてゐる師走かな  岡田由季

指を動かすことなど、とうの昔に忘れてしまった。師走になると指を動かさなければならないことも、忘れてしまった。

忘れてしまうことは、幸せなことなのだとおもう。何もしないことも、幸せなことなのだとおもう。

冬の蜂バブル期の服死蔵せり  岡田由季

むだにしまい込んでおくことを「死蔵」という。「死蔵」とは、作者自身のことなのだとおもう。

私には、バブル期はなかった。冬の蜂に刺されたこともなかった。

信楽の狸を撫でて年忘れ  岡田由季

年忘れとは、その年の「苦労」、「災難」を忘れることである。「苦労」、「災難」を忘れるためには、信楽焼きの狸はふさわしいのだ。その狸を撫でることは正しい行為なのである。

時雨をり内勤の日のカーディガン  岡田由季

事務服には、カーディガン。何故、こんなにふさわしいのかとおもうくらいである。時雨れている日であれば、なおさら、手ばなせなくなる。事務所の椅子の背にかけられたカーディガンには、何ともいえないあたたかさがある。昭和のあたたかさがある。

綿虫の印刷すこしずれてゐる  岡田由季

印刷がすこしずれているのは、綿虫のせいなのである。駐車場から事務所にむかって歩く。綿虫が頬のあたりを通りすぎる。そんな日は、必ず、印刷がずれているのである。



「須藤徹全句集」(ぶるうまりん俳句会2019年12月26日刊)が、でき上がった。山田千里、生駒清治をはじめとする同人諸兄の努力によるものである。これで、「ぶるうまりん」同人による、「ぶるうまりん」の仕事は、ひと息ついたということになるのかも知れない。

JR大磯駅から、国道一号線に向かって坂道を下ると、大磯町立図書館がある。かつて、その手前に、「マリンブルー」という珈琲店があった。白い木造のテラスがあり、そこで、珈琲を飲んだことなどおもいだしている。


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