【週俳12月の俳句を読む】
岡田由季「内勤」を読む
瀧村小奈生
水仙花机汚さぬ花として 岡田由季
机に飾られる花として水仙のたたずまいにまさるものはないだろう。まっすぐで、でしゃばらず、品があって静謐だ。おもしろいのは「机汚さぬ花として」という意識の表明である。作者がそう口にすることで、水仙の花を介して読み手との間に通路が開かれる。
エコカーの音無きことも神無月 同
エコカーが滑り出すときの音の無い感じの音。鳩尾のやや浅いところからクワッとくるやつだ。それが十月のある日だったことで「神無月」という言葉を付与され、いつもの風景が特別なものになる。日常と詩の世界の出会いのささやかな感触が好ましい。「音のない音」と書いてみて、そう言えばと思った。これは、川柳を書く私が俳句に対して抱いているイメージに近い。俳句の中では、音が描かれていても世界はしんと静もっている。一方、川柳からはいつだって何某かの声が聞こえてくる。今のところ、あくまでそんな気がするだけの話だが。
降誕祭ワカケホンセイインコ群れ 同
インコの鮮やかな色合いから、まずクリスマスカラーを思い浮かべる。しかも群れているのだから、かなり賑やかだ。それにしても「ワカケホンセイインコ」は言いにくい。「降誕祭」という言い方と相まって、多くの日本人にとって実はそんなに特別でもないはずのクリスマスという日に対するかすかな違和感のようなものも伝わってくる。ところでこの鳥、いったいどんなに特別なインコなのだろうと調べてみると、東京や神奈川では大発生が問題になっているらしい。輪掛本青鸚哥。なんと1000羽以上の群れもあるということだ。怖い。「クリスマス」ではなく「降誕祭」であることにも、さらに納得がいく。
指ばかり動かしてゐる師走かな 同
師走だから忙しいのである。期限内に処理すべき業務のためにキーボードを叩き続ける指。内勤の師走。動き続ける指だけが頭の中に現れて「師走」という言葉と響き合う。かたかたと無音。あくまで「指ばかり」を意識したことによって、「師走」という時間のもつ〈ちょっと違う感じ〉を共有することができる。
冬の蜂バブル期の服死蔵せり 同
時代がもうわからなくなっているのだが、「蜂の一刺し」とか言った女性がいたのは、バブル期のずいぶん前だったろうか。ある日思いがけず、残されていた「バブル期の服」を見つける。意識して残したわけではあるまい。「死蔵」という仰々しい言葉が立ち上がる。針持つ者でありながら力なき「冬の蜂」があしらわれて、哀しさと可笑しみが滲む。
時雨をり内勤の日のカーディガン 同
ちょっとカーディガンを羽織ってオフィスを出る。傘はどうしようかと迷うほどの雨。冬の気配を含む小雨だ。ウール100%ではなくもちろんカシミアでもなく綿混ニットの手触り。冷たい空気と時雨の湿り気を含んだカーディガンの重さが肩にある。「時雨をり」の淡々とした描写が、かえって複雑ないろいろを伝えているように思う。
綿虫の印刷すこしずれてゐる 同
印刷の文字がずれて、綿虫が飛んでいるように見えたのだろうか。綿虫というと美しいが、実物を単体で詳細に見るとそんなによいものでもない。ふわふわとたくさん飛んでいるのをぼんやり眺めての美しさである。この綿虫は印刷がずれたことで現れるのだが、「ずれてゐる」ことの重要性は、この句にかぎったことではない。日常に見聞きし触れるもののひとつひとつを大切にしている作者であればこそ、日々の暮らしの中の小さなずれを見逃さずに捉えることができる。それが17音の言葉になって、読む者の心をつっつくのだ。その感触と句を読み終えたあとの無音の世界を楽しんでいる。
2020-01-26
【週俳12月の俳句を読む】岡田由季「内勤」を読む 瀧村小奈生
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