【週俳12月の俳句を読む】
それぞれに冬
遠藤由樹子
実験のための明かりや冬景色 井口可奈
冬の夕べ、明かりのついている研究棟を少し離れた場所から眺めているのか。作者は建物の外から見ていても実験室の場所がわかっている。〈実験のための明かり〉とは文字通り、科学研究の目的の下実験を行うために点されている照明。情緒的な明かりではない意外性が印象を深める。実験室のある建物の周囲には冬景色が広がる。冬木立やよく刈り込まれた枯芝。点在する年代を経た校舎。夜風とも夜気ともつかない冷気。人影は少ない。何となくそんな景色を思い浮かべた。私はどちらかというと情緒纏綿とした人間なので、この句の中の明かりを思い描いてみるだけで、世界の端に心もとなく立っているような気がしてくる。
子供にも旅荷ありけり石蕗の花 松本てふこ
ふたりの娘がまだ小さい頃、旅行に行くときの荷物はこどもの分まで私が揃えて旅行鞄に詰めた。パジャマや着替え、小さな靴下等々。心配事も多いが賑やかな日々。私が詰めた荷物以外にも、こども用のリュックサックに娘たちはそれぞれ大事なもの、どうしても持参しなくてはならないものを詰めていた。ぬいぐるみやお気に入りのタオルケット、ゲームやお菓子、はては手品まで。
石蕗の花の咲く頃の旅。真冬にはまだならない時期の海辺だろうか。石蕗の花は決して派手な花ではないが、明るく鮮やかな黄色の花弁をひろげる。私は日を浴びた石蕗の花に出会うと幸福な気持ちになる。
小春日のほこりとなりぬ蓄音機 浅沼 璞
蓄音機にはレトロという言葉が似合う。エジソンの発明した当初は手動で、エジソンはのちに蓄音機を最も愛する自分の発明と語っている。円盤状のレコードも今や隔世の感があるが、蓄音機といえば更にアンティークの趣を持つ装置。ここに詠まれた蓄音機も長いこと使われていないような気がする。全体に埃を被っているのかもしれない。この句を読むと、蓄音機そのものが〈ほこり〉と化しているような印象を受ける。そして、その〈ほこり〉は決してマイナスなイメージではない。過ぎ去った年月の穏やかな時間の堆積といえばよいか、そんなふうに感じられるのは偏に〈小春日〉という季語によるところが大きい。
黒豆の覚悟を決めた艶つぽさ 樋口由紀子
私はたぶん野暮なのだろう。ふっくらとした黒豆の照りから艶っぽい話を連想したことがないので、面白いことを考え付くなというのが正直な感想。「少しくだけすぎたかしら」などと頓着しない自由さが横溢する一連の作品。お節料理を題材にイメージを膨らませて、お重の中の一品一品をキャラクターに仕立てた趣向のようにも読めて楽しい。バツ一やバツ二の栗きんとんもいれば、にせものらしい棒鱈も登場。棒鱈はさしずめ自称○○のやさ男。お重の中では、ちょっとした人間模様が繰り広げられている。いかがわしくもあり、愛すべきこの世が新しい年を迎える。
凩や石もて潰す貝の殻 相子智恵
凩の吹く寥々とした海辺の光景か。何の為に石で貝の殻を潰しているのだろう。今の時代、目的を持って、つまり何らかの作業として石で貝を潰すということはないような気がする。筋道を立てて考えるというほどではないが、少しばかり物思いながら寒々とした海を背に貝の殻を潰しているのか。石で潰すことのできる強度だから、栄螺とかではなく、比較的割れやすい二枚貝の片割れかもしれない。そもそも貝の殻を潰しているのは誰なのだろう。作者? それともこの作品の表題ともなっている少年? 句の中では〈凩〉と〈貝の殻〉と〈石〉だけがクローズアップされていて、その潔い省略の利かせ方が余韻をもたらす。
寂しみは鯛焼きの鰓その陰り 福田若之
鯛焼きの鰓に寂しみを感じるか否かは人それぞれで、それほど肝心なことではないだろう。この句の中に置かれた〈寂しみ〉という言葉によって、鯛焼きの鰓が俄かに寂しみを帯びた存在になる不思議。この次に鯛焼きを食べる時、私は温もりの残るほの甘い鰓をしげしげと眺めてみるだろう。もしその時、寂しさに似た感情を抱えていたら、この句の〈寂しみ〉の一語が柔らかい痛みを伴って私を包むかもしれない。ぱくぱくと幸せな気分で頬張ったとしても、その気分の中でこの句を反芻してみるだろう。一度、文字となって生み出された言葉は、そうやって一人歩きを始める。
降誕祭ワカケホンセイインコ群れ 岡田由季
空を流れるインコの群を初めて目にして、「この鳥ってもしかしたらインコ?」と驚いたのはずいぶん前のことだ。変哲もない東京の空に生息しているはずのないインコが群れなしていて、心が一瞬弾んだ。長い尾を持つ若草色の鳥たちを単純にきれいだなと仰いだことを覚えている。この鳥の和名がワカケホンセイインコ。ペットとして飼われていたものが野生化して全国的に拡散。果物や農産物を食い荒らしたり、野鳥の巣を乗っ取るなど、少なからず悪影響が出ているらしい。クリスマスの日の冬空を、逞しい流浪の民さながらに群れなしていたのだろう。立ち止まることで、日常が違った光景として目に映ることがある。
2020-01-26
【週俳12月の俳句を読む】それぞれに冬 遠藤由樹子
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