2020-03-15

【空へゆく階段】№26 読書室 はじめての詩との出会いは『心のなかにもっている問題』長田弘著 田中裕明

【空へゆく階段】№26
読書室
はじめての詩との出会いは
『心のなかにもっている問題』長田弘著

田中裕明
「晨」1991年1月号・掲載

人はどうやって詩人に出会うのだろう。

俳人だって俳句に出会うより、はじめに詩に遭遇する人はかなり大きい割合を占めているのではないだろうか。小学校の教科書で谷川俊太郎の「ネロ」を読んだのが谷川の詩に出会った最初の機会だということもあるし、田村隆一なら『この金色の不定形な液体』で彼の詩心に触れたという場合だってあるかもしれない。(だいぶ以前に横浜の駅のポスターに「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」というコピーがあった。このポスターで田村隆一の詩にはじめて出会ったという中学生だっているだろう。ちなみにこれは「帰途」という詩の一行。このあと「日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで/ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる」とつづく。)

ところで私が長田弘という詩人と彼の詩に出会ったのは『猫に未来はない』という本の中である。これは物語エッセイともいうべき読物でたとえば次のような一節がある。

たかがねこ一ぴき飼うために引越しをするなんてものずきだなとわらわれるひとも、きっといらっしゃるでしょう。もちろんそれはたかがねこ一ぴきのことなのでしたが、若いなりたての夫婦は、それいじょうに、たかがねこ一ぴきも飼うことができないじぶんたちの非力さがくやしくて、そんな無力なじぶんたちにすっかり腹をたててしまったのです。

これを読んだのはもう十年も前のことだけれども、そのときに感じたやわらかい言葉という印象は変わらない。

電子計測器の製造販売をしている横河・ヒューレット・パッカード(株)という企業がある。ここのPR誌は「M&C NEWS」といって毎号一編の詩を掲載している。今年はずっと長田弘の作品をのせていて、八月号は『食卓一期一会』という詩集におさめられた「テキーラの飲み方」という詩だった。
(前略)
まずレモンを口にぐいと絞る。
言葉でさんざんよごれた
きみの口のなかを明るくしてやるんだ。
それから、空を仰いで、
サッと塩を口に放りこむ。
一瞬、テキーラを口に投げいれる。
(後略)
速度のある、いきのいい詩句である。しかもやわらかい言葉が使われているという印象は変わらない。電子計測器メーカーのPR雑誌ではじめて長田弘の詩に出会う若いエンジニアだっているだろうなと想像させる。

詩をあまり意識せずに詩に遭遇する機会があるということが面白い。俳句でもそういうことがあるだろうか。俳句はいかにも俳句らしいところに存在しているような気がする。

長田弘の詩にもどれば、これはどこにでも存在しうるような言葉で書かれている。『心のなかにもっている問題』は『食卓一期一会』につづく最新の詩集であるが、言葉の速度はもっとゆっくりしていて、言葉のやわらかさはさらにしたしい。たとえば「それは」という作品。
それは窓に射す日の光りのなかにある。
それはキンモクセイの木の影のなかにある。
それは日々にありふれたもののなかにある。
Tシャツやブルージーンズのなかにある。
それは広告がけっして語らない言葉、
嘘になるので口にしない言葉のなかにある。
それは予定のないカレンダーのなかにある。
(後略)
この詩集は後記にもあるようにほぼ二十年のあいだに書かれたもので、詩人が父親として子どもたちへ語ってきた作品である。目次をながめても「どんなむしがいるかな」「ねむりのもりのはなし」「虫歯」「忙中、猫あり」「手を働かす」など楽しい題の詩がならんでいる。

詩に子ども向きのもの、大人向きの区別があるわけではなくて、やさしい言葉で書かれた良質の詩はじゅうぶん大人の鑑賞にたえる。詩集のいちばん最初の作品は「どんなむしがいるかな」というすべて平仮名で書かれたものだが、豊かな日本語がここにある。
ひとつ ひねむし
ふたつ ふくれむし
みっつ みえぼうむし
よっつ よわむし
いつつ いばりむし
むっつ むずかりむし
ななつ なきむし
やっつ やっぱり わすれむし
ここのつ ここにも
とう どこにでも
むしがいるぞ
まだまだいるぞ
(後略)
俳句で、子供にもじゅうぶん理解できるようなやさしい言葉で書かれた良質の作品があるだろうか。俳句はそういうものに似つかわしくないのだろうか。そんなことを考えさせられた。

最後に「失くしたもの」という詩を引用する。ガリ版印刷や鉛の活字がなくなって言葉に根がなくなったというもの。たしかにそうだろう。それが詩になるということが素晴らしい。
文字に 面(ツラ)があり 表情があった
それと 体(テイ)だ 線がきれいで
肉付きがよくて 懐ろがあった
高さがあり 肩があり 足があった
圧(アツ)があり 言葉に 力があった
真新しい匂いが 新鮮だった
人間と おなじだ 呼吸していた
疲れると 摺り減って 汚れた
こういう言葉を語りかけられて育った子供が、どれほど幸福であるか。人の子の親として我身を振りかえってみたくなる。


解題:対中いずみ


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