2020-04-05

早春はてふこさんとカレーを〔後篇〕 小川楓子

早春はてふこさんとカレーを〔後篇〕

小川楓子

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それでは怒涛の一問一答開始。

Q1
てふこさんの作品は、寡黙で朴訥とした魅力があるように感じました。ご本人としてはいかがですか。

A1
キレイに出来ていることに興味はないんですよね。「ごろん」とした作品を作りたい。「ごろん」の影響は、たぶん聴いてきた音楽が大きいと思います。宅録と呼ばれる、自宅などのラフな録音環境で録られた音楽が国内外問わず好きだったんです。歌詞もあけすけだったり、内向的だったり。俳句を始めたちょっと後からずっと聴いている「キセル」という京都出身の兄弟二人組がいて、彼らの曲のくぐもった音や、やるせない歌詞には非常に影響を受けているように思います。彼らの「ごろん」は、柔らかい「ごろん」。小説家では津村記久子に「ごろん」を感じるかなあ。正義とか倫理観にあんなに真っ正面から取り組んでる作家は珍しいなあ、かっこいいなあと。美しさなんて知るか、と言わんばかりの石ころのような文体も大好きです。津村さんのどの小説にも必ずと言っていいほどサッカーの小ネタが盛り込まれていて、サッカー、面白いのかな?ってぼんやり思っていたら乾貴士が好きになってセレッソサポになってしまったという。津村さんのサポーター小説、最高ですよ。津村さんの「ごろん」は石のような「ごろん」。俳人では辻桃子と波多野爽波の影響が若干ずつ。ふたりとももともと感性がオシャレな人なので、オシャレな人があえてやる「ごろん」と私の「ごろん」は違うぞ、と言い聞かせつつ、という注釈はつけておきたいですが。

Q2
「だんじりのてつぺんにゐて勃つてゐる」が『汗の果実』の帯にあり、よく話題にもなりますが、どのような気持ちで作りましたか。

A2
だんじりは大阪文フリに遊びに行ったついでに、会場近くでやっていたのでひとりで観に行ったのですが楽しかったです。だんじりの句は、祭に参加している男たちとそれを見ている自分が対にならない構成にするように気を付けました。例えば、多佳子の〈雄鹿の前吾もあらあらしき息す〉がなまめかしいのって、雄鹿に詠み手が雌として応えてしまうのでは……という可能性をチラ見せさせているところなのかなと思うのですが、私はそういう風に読みうる句には絶対にしたくなかったので。

Q3
女性としての自分についてどう感じていますか。

A3
同じ女性だからわかり合えるという発言とか聞くとほんと「はー無理無理」ってなっちゃいますね。でも、女性が多い職場で働くことが多くて、仕事環境としては女性に囲まれていた方が安心するなーと。女子高や女子大に憧れたときもあるのですが、母が女子大で苦労したようで気がつくと共学を選んでいました。学生時代はずっと共学で特になにも思わなかったのですが、うまく放っておいてくれる女性上司の下につくと「楽だなー!」って思いますね。趣味が分かればそれに合ったものを提示していけば好きにさせてくれるタイプ。最初の職場の上司がそんな感じでした。いまのチームリーダーも去年からの付き合いなのですがそういう感じの人なので、あ、これは楽できる!という気楽さでかえってやる気が出ます。

Q4
「女性俳句」についてどう思いますか。

A4
大学時代に平塚らいてうとか『青鞜』に興味があって、『青鞜』に載っていた俳句を調べてみたら全然よくなくて、ガーン……ってなって。同時期に杉田久女の評論を読んだらお茶の水女子大出身で当時の最高の女子教育を受けた、とあって。ああそうか、久女は新しい女になる可能性が十分にあった人だったのか(でも俳人としての道行きは俳壇の封建的な空気に阻まれるようなものになってしまった)という点、あと細見綾子も好きなのですが、彼女はらいてうなどと同じ日本女子大出身だったことが心に引っ掛かっていたり。そういう経歴は彼女の俳句にどういう影響を及ぼしているのかな?って気になるんです。たぶん、俳句でフェミニズムを論じてみたい気持ちが当時からあったのですが、糸口がわからなくて。俳句自体わからないのに、もっとわからないことと結びつけて書くなんて、無理な話で。宇多喜代子さんの文章とか、藤木清子を発掘したり女性のマイナーポエットへの目配りがすごいところに憧れますね。短期目標として、自分なりの俳句とフェミニズムの結び付け方を見つけるというのがあります。秋頃に久女が長く住んだ小倉に行くので、そこでヒントが得られたらいいなと思います

Q5
就職氷河期世代〔*〕、いわゆるロストジェネレーションにあたりますが、世代感はありますか。また、もしあるとしたら俳句に影響していますか。

〔*〕就職氷河期世代は1970(昭和 45)年4月2日から 1985(昭和 60)年4月1日まで生まれ。(2019(令和元)年度厚生労働省本省就職氷河期世代採用 選考案内)

A5
ロスジェネ。うーん。世代論って本質的なことをつけることももちろんあるけど結構的外れというか、知らない人とわざわざ同窓会をするような何がしたいんだろう…と思うような方向にいっちゃう例もよく見かけるので読む時に妙に注意深くなります。

就職活動を終わらせたいのに終わらない…と焦っていた大学4年の5月にスーパーフリー事件が明るみに出ました。(スーパーフリー事件は早稲田大学のイベントサークル関係者が組織的に行った輪姦事件で、輪姦の補助として女性も多数関与した)スーフリに関しては学内にポスターが貼ってあったり、サークル名として知っている程度でしたが、あの時期に大学名を背負って女子学生として就活をしなくてはならないのが本当に苦痛で、忌々しい気持ちでした。その忌々しさって結局なんだったんだろう、と詳しく思い出そうとすると、自分の思考に、被害者に寄り添う視点が欠けていた記憶があり、その頃の自分の視野の狭さ、当事者性の欠如にショックを受けます。あの頃、もしSNSがあったらもう少し視野を広く持てたかもしれないとも思います。たくさんの障壁はありますが、性暴力の被害者が自分自身の声で語り始めるようになった今だからこそ、思い出して苦い気持ちになってしまうのかもしれません。

ロスジェネが自分の俳句に…。どうかなあ。そこまで影響してないと思います。

Q6
前衛俳句などの戦後以降、高度経済成長期の俳句は、時代特有のエネルギーがあると感じます。また短歌の場合、SNSの発達や引きこもりなど時代性が映し出されることがしばしばあるので、現在の俳句はどうであろうかと考えています。ロスジェネのみならず時代性についてはいかがですか。

A6
戦後ある程度の時期までは、生きることにあらゆる面で執着しなければ、という強迫観念は多かれ少なかれ人々にあったと思います。今は経済的にこぼれ落ちてはいけない、という強迫観念の方が強いかなあなどと。俳句の世界での我々世代の強迫観念は「選ばれなければいけない」かなあ。私も、20代は結構とらわれていました。かといって、大きな仕事ができるほど時間があるわけでもなく。今は心からそう思わないように距離を取りつつ、モチベーションの向上にうわべの熱狂だけ利用させてもらったりしています。「選ばれなければいけない」という強迫観念は我々世代というより、50歳以下の新人賞の対象になる年代、くらいのざっくりした言い方が合っているかも。

選ばれなければ、って思いすぎると選ばれない状態の自分を肯定できなくなってすごく苦しいので、選ばれなくても私の価値が落ちるわけではない、とに応募するぞー!わー!って盛り上がっている群れの最後方でとりあえず拳はあげている、みたいなイメージですかね(全体主義に一番に利用されそうな群衆の思想だな……と思いつつ)。フェスに近いかもしれません。あんまり一体感を呼び掛けてくるMCには反感があって、いていいよくらいのノリが好きですね。俳句のシーンに関しても同じようなことを思う。いていいよ、って言ってもらえればそれでいいので。グループや同人誌が増えてきている今の傾向はいいんじゃないかなと思います。居場所は結社や受賞の肩書の中にだけあるわけじゃないし。同人誌はBL俳句誌「庫内灯」に参加したりしましたが、俳句グループには入ったことがないなあ…。人からどういう作家だと思われてるのかわからないですけど、もしチャンスがあったら入ってみたいですねw


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