2020-03-29

早春はてふこさんとカレーを〔前篇〕 小川楓子

早春はてふこさんとカレーを〔前篇〕

小川楓子


早春のある晴れた日、昨年の11月に刊行された第一句集『汗の果実』のお話を伺おうと松本てふこさんと代々木で待ち合わせた。歩いていたら、たまたま、インド人のおじさんがドリンクチケットを配っていたのでお店に入った。落ち着いた色味の広々としたソファー席に案内され、てふこさんはマトンカレーとラッシー、わたしはチキンカレーとチャイを注文した。

それにしてもと泰山木の花のこと

わたしは、普段から俳人と(人類と?)それほど交流があるわけではないので、てふこさんときちんと話すのも初めて。少し緊張しながら「それにしてもと」いう感じでいると、飲み物が運ばれて来た。ラッシーとチャイをそれぞれ飲みながら、てふこさんが大学一年生の頃、バンドサークルや音楽鑑賞サークルをのぞいてみたものの居心地が良くなかったので、ドイツ研究会に入会したこと。その後、ドイツ研究会と部室を共有していた俳句研究会に加わったのが俳句を始めたきっかけであること。さらに『汗の果実』入集句の話となった。

メロン切る好きなバンドが解散する

叩く叩く見る叩く見るごきぶりを

ごきぶりの死や腸をかがやかせ

てふこさんの音楽好きは一句目のバンドの解散というテーマや二句目のドラムのようなアップテンポなリズム感に表れているように思う。一句目の好きなバンドとは、星野源がかつて所属していた「SAKEROCK」。なぜメロンなのだろうと聴いてみると「とくにこだわりがあったわけではない」と。照れだろうか、それとも偶然の出会いを大切にするのだろうか。正解はわからないが、果物の王様という印象があるメロンからは、解散後の新しい出発を祝うのにふさわしい。しかしながら、包丁を入れ、メロンの美しい断面が現れる中で思いを馳せる突然のバンドの解散には、明るさの中にあるからこそのせつなさがあるようにも感じられる。二句目は、ドラムのように「叩く叩く見る叩く見る」と畳みかけられた後のごきぶりの出現。世界に作者とごきぶりしかいないほどの濃密な時間。三句目は、生前は疾走していたごきぶりの腸が目前で輝く。ごきぶりというとまずは体表のつややかさを思うが、白い内臓のような脂肪体への着目が興味深い。この脂肪体は、周りに食料がなくなったとき、エネルギー源として生き延びるためにあるらしい。死してなお生き物としての力を感じさせるごきぶりの存在感。「GOKIBURI」という音はパンチが効いているので、バンド名にしてもいいかもしれない、と思って検索してみたらヴィジュアル系バンドがヒットした。

先輩と大きく呼びてアロハシャツ

大学の俳句研究会には、二学年上に村上鞆彦さん、一学年上に髙柳克弘さんが在籍。村上さんはふるさとの大分を感じさせる作品が時々あり、髙柳さんは出身の静岡を詠むよりは、都会的な作品が多いが、一方で「うみどりのみなましろなる帰省かな」が名高い。意識的にはほとんど東京、しかし東京ではない場所に住むてふこさんにとって、俳句研究会のメンバーと比べて「自分には産土が無い」というコンプレックスがあったという。東京近郊に育ち、生まれた場所はまた別、そして、地方に住んでいたこともあるという経歴が、てふこさんにとっては「中途半端な所在なさ」を感じさせる要因であるという。

旧姓が春の嵐に飛ばさるる

シクラメン息子の嫁と名乗りけり

冬暁の小高き山として夫

詩歌や歴史に詳しい友人を介して知り合った、東京近郊で育ったお連れ合いには産土コンプレックスがなかったという。三十歳で結婚する以前から彼と同棲するうちに「そんなに劣等感を感じる必要なんてないんだ」と思うようになったという。世界のどこであっても大切な人がいるところが故郷なのかもしれない。「でもまだちょっと気にしている」と付け加えるのがてふこさんらしい。そういうちょっとした屈折のようなものが松本てふこという作家の原動力になると思う。

くやしさの極みの栗を剥いてをり

くやしさや屈折した心境が鬱屈に繋がることはないようだ。くやしさを爽やかにバネにして栗を剥く作業に集中する作者。栗を一つずつ剥くのは根気が必要で、かなり大変な作業なので、くやしさの極みが大いに役立ったのに違いない。

ボクサーを汗の果実と思ふなり

タイトルともなった一句。大学の卒業旅行はタイ。旅先でムエタイを観たのだが、ボクシングよりも傍らで汗だくになりながら、だるそうに太鼓を叩いていたおじさんの印象が強かったという。周囲の興奮や熱気に取り込まれて心を動かされるより、クールに周囲を見渡して自分にしかつかめないものを掴む。それがてふこさんの作品になってゆくのだろう。

さて『汗の果実』は皮、種、汁、蔕という果実の部位で章立てされている。四つに分けられる章立てに充てるものということで、お連れ合いや友人にも相談してヒントを得ながら、当初は、桃、林檎、蜜柑、バナナで検討していたという。桃は肉感的、林檎は俳句として折り目正しいもの、蜜柑は庶民的、バナナはそれ以外で区分。最終的には皮、種、汁、蔕として、皮→バナナ、種→林檎、汁→桃、蔕→蜜柑となったという。果物名が並ぶと『月刊 MOE(モエ)』(人気絵本・作家の巻頭特集が多い)的な雰囲気があるように思うので、てふこさんの句集ならば、皮、種、汁、蔕とすっきりと一文字の漢字というのがぴったりだと思う。

尋ねれば、打てば響くという感じの軽快さで、内容の深い回答をぽんぽん返すてふこさん。それでいて作品は寡黙で読者にあえてなにかを提示しようとしないので面白い。

花は葉にまたねとうまく笑はねば

面白し面白しとて咳き込める

これらには、人との関わり合いの中で生まれる不器用さやぎこちなさが表れ、どことなくペーソスを纏った作者の姿が思い浮かぶ。5・7・5の間をゆったり取って味わいながら、韻律と共に作者の心の揺れを感じたい。うまく笑えなさそうだと感じているのに、笑わなくてはならない。面白すぎて笑い続けていると咳き込んで笑えなくなる。人とは不思議な生き物だなと思う。こうした日常のちょっとしたペーソスを汲み取って、さらりと一句に仕立てるのも松本てふこ作品の特長に感じる。

てふこさんにとって『汗の果実』はすでに過去のものという意識があるという。刊行後、それほど月日が経っていないが、過去の作品に対しての態度がさっぱりとして、もう次をしっかりと見つめていることがカッコいいなと思う。これからも松本てふこ俳句の朴訥とした持ち味がどのように変化するのか、あるいは深化してゆくのかについて、注目してゆきたいと思う。長時間ありがとうカレー屋さん。またおじゃまします。後篇はてふこさんに一問一答で迫ります!

(後篇に続く)



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