一周まわって
二村典子
夕星の弘法市に苗木見に 藤田哲史
「夕星」「弘法市」「苗木」、同趣の風流で穏やかことばが並ぶ。今までこういった句にあまり惹かれなかったように思う。
「弘法市」といえば京都の東寺が有名であるが、自分の地元である愛知県知立市にもある。「弘法さん」と呼ばれる遍照院の縁日には善男善女がたくさん詰めかけるため、駅からの道が歩行者天国になる。その道が中学の通学路と重なっていたため、うっかりはちあわせると、露店と善男善女で狭くなった道を通りぬけるのが大変だった。あらかじめわかっていれば遠回りしたものだ。露店で売られているものにも全く興味がそそられなかった。弘法市は身近ではあるが避けるべきもの、とずっと思っていたため、まともに訪れたのはごく最近になってからである。
弘法市は午前中からお昼にかけてが最盛期で、ほんとうによい苗木がほしいと思えば夕方では遅い。この作品の人物も人の多い弘法市のさなかは避けて家の中に引っ込んでいたのかもしれない。夕方になって人通りも途絶えたであろうことを見計らって外に出る気になったのだ。「弘法市に苗木見に」、と目的がはっきりと書かれている割には「弘法市」にも「苗木」にもさほど関心があるようには思えない。つまりは風流なことばが並びながら、風流とはどこか距離を置いている。そんな態度が私には好ましかった。そのうえで、弘法市は来月も来年もあり、人々でまた賑わうに違いない、と疑いもしなかった日々が遠くになりつつあることにうっすら気づいているようだ。
卒業期サンドイッチのきゅうりの味 藤田哲史
卒業期。卒業のためのあれこれをこなしつつ、新生活への準備も必要な忙しい時期。「卒業」という行事と無縁になろうとも、この時期への感傷めいた気分は多くの人が共感できるものである。お昼どきであろうか。サンドイッチなら作業の手を休めて手軽にさっとすますことができる。
ここのところきゅうりがしみじみおいしく感じる。よくおやつ代わりにかじったりする。きゅうりといえば、本場イギリスのアフタヌーンティーのきゅうりサンドはあこがれの食べ物である(本に出てくるそれのおいしそうなこと)。さらに、昔飼っていた猫の子がもらわれていった先で、きゅうりの食べ過ぎで死んでしまった。このようにきゅうりに関して結構思うところがあっても、この句が「きゅうりの味」をなにか特別なものと言っているようには読めない。下句の字余りのぐだぐだとした感じにもそれは現れている。サンドイッチに入っているきゅうりは、その歯ごたえは多少主張するところがあっても、とびきりおいしいものではない。そんな存在感がこの句のあじわいそのもののようだ。もしかしたらあわてて食べたきゅうりが歯にひっかかっていて、しばらくたって気づいて噛みしめたのかも、とも考えた。けれどそんな読みは、この句にとって「事件」であり過ぎる、おもしろがり過ぎている。
「きゅうりの味」とはっきりと書きながら、きゅうりの味の変哲のなさを示している、と感じられた。そのあたりが今回惹かれた二句の共通点かもしれない。もちろん共通点をさがす必要などこれっぽっちもないのだが。作品は多かれ少なかれ時代の気分を反映するといわれる。その影響はむしろ読み手にまわったときに強く働くのかもしれない。
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