【空へゆく階段】№30
ゆうの言葉
田中裕明
ゆうの言葉
田中裕明
「ゆう」2000年9月号・掲載
枇杷熟れてどすんどすんと浪の音 文子
波音を形容するのに「どすんどすんと」というオノマトペは面白い。子どもが親に「いったいあれは何の音?」とたずねているようなかんじです。
枇杷の実が熟れているのも、眼前の景であると同時に幼いころ海辺の村で見た景色なのでしょう。
風の日やまばらに蟻を見たるのみ 麻
「風の日や」という詠いだしは、まさしくそのような一日だったのでしょうが、ぶっきらぼうにも見えてユーモラスです。一日をふりかえってみると、白く乾いた土の上をゆく数匹の蟻だけが印象に残っているという思い。女性らしからぬドライな感性が光っています。
雀さへ眩しき茅花流しかな 尚毅
人間は名前をつける動物なのでしょう。茅花が白い絮をつけるころに吹く、雨を含んだ南風に茅花流しという名前をつけました。
このころ光と影が心にしみます。雀さえまぶしいというのとまるで枕草子の一節のようです。
山法師の花見えてをり夜の雨 喜代子
旅先での景というよりは、自分の住んでいる町のすがたというかんじがします。それは落ちついた言葉づかいとリズムがもたらすものです。
山法師は山野に自生する背の高い木です。鎌倉という町のたたずまいも想像されます。
葭切やしんと脈うつわが手首 敦子
孤独感でしょうか。自分の脈を感じている静かな時間。
遠く葭切が鳴いています。いまこの時、ひとりぼっちの自分と葭切のあいだに通いあう糸のようなものを確かに感じました。静止する時間。
そしてやがてまた時間は流れはじめるのです。
一匹は考へごとの毛虫かな 洋子
これはまた陽性の作品です。俳句ではすぐに焼かれてしまう毛虫ですが、作者はじっくりとその一匹に眺め入っています。見れば、その一匹はほかの毛虫とはちがって、歩むのをやめて考えごとをしているようです。
顔つきまでソクラテスに似ていたかもしれません。
「昼の蛾の死ぬほど眠き波の音」も午後の海辺の倦怠感がよくあらわれています。
早乙女のうしろに降りて海の鳥 青鳥花
素直な作品です。
田植をしている早乙女の背後の畦に、鯵刺か小型の鴎か、海の鳥がやってきて降りたったという事実だけを述べています。それだけのことがポエジーをうみだしています。
もちろん海は見えていないで、それを思っているのです。
病める身の強いて立ちたり螢の火 美帆
病弱の方が、螢だよという家人の声に窓辺に立ったところです。もちろん作者自身。
まだ俳句をはじめて数ヶ月の美帆さんが、こういう思いのこめられた昨をなされたことに敬意を表します。
はればれと浮巣は空らになりにけり 豊香
空らの浮巣というのが楽しい。こういう面白さを詠った人はいままでにありませんでした。
さみだるる書肆の灯に輝る男髪 キク
女性的な作品です。モンスーンの端にある日本を意識すると、本屋の立読みの男まで許されるようです。
≫解題:対中いずみ
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