2020-05-17

【週俳4月の俳句を読む】目が覚めれば 山岸由佳

【週俳4月の俳句を読む】
目が覚めれば

山岸由佳



朝、目が覚めてから、まだ完全に現実のものともならない意識の中でいつも見る窓の風景がある。音のない風が微かに生垣の葉を戦がせ、その向こうには、誰のものとも分からない生活の窓があり、いつもと何も変わらない朝だなと思う。しかし、次の瞬間には、現在の私たちの生活は新型コロナウイルスによって変化せざる得ない状況化にあることに愕然とする。

人と距離を取らなければならないのである。

人と距離をとるという行為は、俳句を読む上で、少なからずとも影響があるように思う。



さて、安里琉太の「追憶と鉈」は形式による世界の断絶が印象的であった。

俳句は十七音という形式がもともとあるわけだが、「追憶と鉈」は表記の形式にまず眼が奪われ、その形式自体に美しさがあるように思われた。重層的な表現形式は、言葉が頭に入ってくる前に、自ずと一呼吸置くこととなり、日常からのかすかな断絶が生まれ、作者が意図している世界に誘われていくことになる。

そして、その一句目は、やや冗長的ではあるものの、その形式にふさわしい静謐な世界から始まっている。

海灼くる無風を蝶のひた歩く  安里琉太

蝶が歩いている様というのはなかなか見ることがないように思う。飛んでいるか、止まっているか花や葉の上を少し歩くか。しかしここには、花の蜜も草もない。「ひた歩く」という言葉からは途方もなく歩きつづけている様を思う。もしかしたらもう弱っている蝶なのだろうか。もちろん、作者自身が蝶に投影されているとも考えらえれる。無風、蝶という音のない世界に海という大きな自然。富沢赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」と季節は違えど、どこか通じるものがあるように思われた。

掲句はアスタリスクで1句だけ区切られており、次に世界が続くことを拒んでいる。広い世界の中で孤独が永遠につづくように。

次に置かれている三句は、現代というよりは誰もが持っている原風景に還っていくような懐かしさと、長閑さの中にある退廃的な風景が広がっている。

日をおいて夜汽車のとほる田螺桶  同

暮春の母屋あぶらゑのぐの饐えてゐし  同

卯の花や天金の書の束ね売り  同

どの風景も春の気怠さの中で、印象主義の絵画を眺めているような心持になる。作者の美意識の方向性が伺える。

そして次に、アスタリスクで区切られている三句では、生の作者の世界に近づいているものの、やはり壮大な自然と時間の中に置かれている。

鳥沼の玉葱畑に寝てしまふ  同

鳥沼は北海道の富良野にある湧水の沼である。旅の途中に、玉葱畑が広がっていたのだろうか。長閑な句のようにも思われるが、異界に連れてかれるような不気味さは、鳥沼という言葉の持つ力だろうか。自然に抗うことができずに広い玉葱畑に図らずとも眠ってしまった。人が眠っている姿、特に父親が眠っている姿を見るのを、小さい頃から私は嫌った。それは本能的に死を畏れていたのだと思う。

先生や牡丹痩せて月痩せて  同

溢れんばかりの牡丹でもなく、満月の光でもない、華やかさの過ぎたあとの美しさ。先生と過ごした時間は過去になり年月を経て老いてゆくことは避けられない。先生やと上五で大きく切ったことで、先生に対する想いの大きさが伺われ、その後につづく牡丹と月の時間には肯定感があるように思われた。

最後は、アスタリスクでは区切らずに、一行空けたのちに三句が並べられている。記号で区切ることを拒否したように、意味から逃れ、境界というものを曖昧にした句の作りになっているようだ。

ひらかれへ馬上の風雲倦む耕  同

意味や像を結ぶことができなかったが、ひらかれという言葉のイメージや馬上、風、雲という言葉からは天空の光が感じられた。一方で倦む、耕には地上における単調につづく労働を想起させられたが、何か一筋の希望を掴もうとしているような印象を持った。
「みしはせを奇想の蒜へふり分ける」も

掲句も、解釈を書けば書くほど、句が遠ざかっていくように思われる。ひらがなや音、漢字の美しさを味わいたい。

吊るし倦む百丈雛の黄の総体  同

吊るされている状態というのは安定感が損なわれている状態であるが、百丈という空間に雛が吊るされているのは圧巻である。その空間自体が黄の総体ということであるのか。黄色は明るさもあるが同時に、神経を逆なでるような危うさもある色である。異様な空間であることは間違いない。



黒岩徳将「半券」は、日常の中の微かな違和感を等身大の作者の感覚で詠み込んでいる。もっとも、新型コロナウイルスにより、今まで日常と信じていたものが揺らぎつつあるわけではあるが。

花屑が手羽先用の紙皿へ  黒岩徳将

お花見の光景だろうか。しずかな空虚感が漂うのは花屑は土に還り、紙皿は一度使われたら捨てられ、いまこの瞬間の風景ははすぐに消えていくということ。刹那的ではあるが、お花見とはそういうものである。まだ使われていない真っ白な紙皿とも、手羽先を食べた後の紙皿ともとれるが、紙皿の先には確かな人の気配が感じられ、賑わいの中の一抹の寂しさがあるようにも思われた。

手羽先の羽という字が、桜の花びらの軽さに重なりあいながらも、骨や肉の重さも同時に想起させられ、句に確かな重量感が生まれたように思う。

水に茶に蕎麦の半券濡れて春  同

蕎麦の半券が濡れることは、たいしたことではないが、何故かどうしようもなく情けない気持ちになる。しかし同時にこのどうしようもなさを愛おしいと感じるのは、お茶の色に染まりふやけた半券を前にしながらも、かつて信じていたささやかな日常がこの句の中にあるからだ。それは今も変わらず続いている日常なのかもしれないが、なにかひどく遠くのことに感じられる。半券という半分失われた状態で、かろうじて残っている券の有り様は、春の不安定な心持が仄かに表れているようにも思う。水だけでなく茶にも濡らしてしまったのが、作者の持ち味なのかもしれない。

百千鳥ウインドブレーカーの張り  同

ウインドブレーカーを着て、走っていいるのか何か運動をしているのだろうか、最後の張りで作者のかすかな高揚感のような息遣いが感じられる。ウインドブレーカーの軽さとこすれ合う音が百千鳥と交響しているようだ。生命感と躍動感に溢れている。

犬よりも丸まつて寝る朧かな  同

気象的な現象である朧であるが、今年の春の夜は長く、そして精神的にも世の中が朧に感じられた。丸まって寝ることで自分の体温がより近くなり、何か殻に閉じこもっていくような、自分の中に還っていくような眠りである。上五に「犬よりも」と置いたことで自分の存在の小さを自嘲しているようでもある。



二人の異なる世界の作品を読みながら、非日常と日常というものが、いかに曖昧なものであるのか思い知らされている。言葉という意味では、どちらも同じなのかもしれないとも思う。

人と距離を置かなければならない世界の中で、俳句における切れの断絶の在り方は、俳句がより遠くにも近くにもあるように思われた。非日常が日常になりつつあるように。

さて、もう夏が来ている。


第676号 2020年4月5日
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