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2026-06-07

【句集を読む】舟への憧れ 山岸由佳『丈夫な紙』評 福田若之

【句集を読む】

舟への憧れ
山岸由佳『丈夫な紙』評

福田若之

『豆の木』第27号(2023年6月)より転載


『丈夫な紙』という書名は、見たところ、なんとなく無骨な感じがする。その感じは、たとえば、本書のなかに収められた八つの章の表題――「スピーカー」、「見えない硝子」、「ボクシングジム」、「歩行者天国」、「幻の羽子板」、「一輪草の夜」、「十一月の木」、「鳩のゆめ」そして「手から手へ」――と比べてみても、明らかだろう。さて、この書名が無骨に感じられるのはどうしてか。それは、おそらく、丈夫な紙という言葉が、多くの場合、何かの素材として紙を扱うひとのものだということによる。この言葉は、次のとおり句に書きこまれている。

 黄のカンナ丈夫な紙を探してゐる

何かのために、丈夫な紙が探しもとめられている。要するに、この書名は本来何かの素材を指し示すはずのもので、ただし、その素材が何をかたちづくるかについては、さしあたり読み手には知るよしもない。だから、この書名は読み手に無骨な印象を与えるとともに、何のための紙なのか、何のために丈夫でなければならないのか、という問いをもたらす。句集などというのは、どんな句を載せようと、畢竟、丈夫な紙の束にすぎない、というイロニーだろうか。しかし、集められたくさぐさの句は、そうした皮肉な自己言及の文脈を帯びてはいない。

問いは宙づりのまま、しだいに、ひとつの象徴的なイメージが、くりかえしのうちに際立ちはじめる。水だ。

まず、季題としての水を書いた句がある。

 草に風ロープ張られてゐる泉
 春水の揺れゐし奥の歯にちから
 水温む誰も死なない陽だまりの
 噴水をはなれぬ人の長き髪

読み手は、これらの句に、それぞれの季の水の表情を思い描くだろう。とくに表情がはっきりしているのは、三句目にあげた水温むの句だと思う。誰も死なない陽だまりという言葉に、目のくらむようなまばゆさとあたたかさを感じる。そのまばゆさ、そのあたたかさが、ふっと死ということを呼びおこす。誰も死なないという言葉は、死を思うときにしか湧いてこない。

つぎに、季題とは別に水を書いた句がある。

 満月の浅瀬は砂を吐きつづけ
 炎天の水を跨ぎて人に会ふ
 水音の氷を渡り城の跡
 躑躅ほろほろ命日の階段にみづ
 雉鳴いて腐りたる水地に馴染む
 藻の花のひらいて水の忘れゆく

これらの句は、水そのものを指し示す言葉が、はっきりと書かれている。取りあわせによって、水がそれぞれの表情を浮かびあがらせている。

さらにまた、水そのものが名指されなくとも、書かれた景のうちに、水のあることが感じられる句もある。

 排水溝ひゆうと告げたる檸檬かな
 雪の果肥りつづける魚の棲み
 ひかる雲あり蟷螂の濡れてをり
 さくらんぼ洗ふ時計のあかるさを

これらの句において、水は、排水溝を鳴らしたり、魚が息づいたり、かまきりを濡らしたり、さくらんぼの実をきれいにしたりすることで、その存在を示している。

この句集にみられる水の表情は、このとおりさまざまだ。けれども、読みかえすにつれて、とりわけひとつの表情が、くりかえし書かれていることに気づかされる。

 こゑ消えてプールに映る誰かの家
 足元のみづの揺らいでリラの花
 水底を覗き青葉に囲まるる
 とんぼうの水面に鳥居さざなみの
 雪やみし水面に映る赤ん坊
 潦の木々雉よあらはれよ

映すとはっきり書いてある場合も、そうでない場合もあるけれども、水は、くりかえし、そのつど異なる何かを映してみせる。平らでない、たったひとしずくの水さえもが、外界を映しだす――《一滴の水に映つてゐる九月》。とりわけ目を惹いたのは《朝焼のもうすぐ終はる水たまり》という句だ。空の刻一刻の色合いの移りかわりが水に映りこむさまを、この句は情感をこめて指し示す。

水の表面への関心は、水のうえに現れるさまざまのものへの関心とも結びつくだろう。

 あたたかに鳥の流るる夜の川
 鴨流れ笛の音流れ遅き日を
 水のうへのこゑすれちがふ桜かな

この句集の主体にとって、水面という場は、ものがただ浮かぶところではない。水面にあるものはたえず移ろっていく。くりかえしのうちにさえ、そのつど生まれなおすものがある――《繰り返し繰りかへし海月となりぬ》。そして、この移ろいは、もちろん、水そのものが流れ、湧き、動いていくということに由来する。

 雪原の真下をとほる水の音
 タンバリン鳴らす造り滝の前
 石を生む体の睡り泉湧く
 湧水の小石の力花菖蒲
 犬抱いて降りゆく春の川音へ
 つばくらめ川を下つてゆけば夜
 金色の川越ゆ受験生の頰

雪原の句が示すとおり、流れは潜伏することもある。だから、《ストローを上る果肉や成人の日》という句なども、やはり水にのって流れるものを描いた句と捉えることができる。海月の句から思われるとおり、この流れは、去るばかりではなく、巡るものだ。雨や雪が、この水の流転のうちに組みこまれている。ほんとうに、ほんとうにくりかえし、水が降りそそぐ。ときには、雨はじかに見えていないかもしれない――《地上は雨誰彼のこゑ秋灯》。地上の音や声によって、見えていない雨を知ることがある。雨は、ほんとうにかすかなこともある――《赤い羽根濡れないほどの雨の降る》。そうかと思えば、ひどく降ることもある――《カンナから土砂降りの橋見えてゐる》。急なこともある――《驟雨来る猫の背骨を撫でながら》。広く降ることもある――《藤の花見下ろす雨のひろびろと》。もちろん、雨を感じるのは外ばかりではない――《秋の蚊と入り来し雨の男かな》。ときには、雨という名で呼ばれないこともある――《蟋蟀のこゑの空より崖に水》。せつなく感じられることがある――《雨音のつたはる手擦星まつり》。懐かしく感じられることがある――《大根を煮てこの町に雨の降る》。甘やかに感じられることがある――《枇杷を剝く男の指の甘え雨》。そして、ぬくもりを感じさせてくれることもある――《しろき根のあらはに雨のあたたかし》。雨はそうして、やがて止む――《蟋蟀の木のまつすぐに雨上がる》。

冬や春には、雪のこともある。さまざまの場所に、さまざまのものに雪は降る。

 デパートを出て宝くじ売場の雪
 鉄橋の向うは母の春の雪
 透明な洗濯ばさみ雪降るなか
 子供服売場こどものゐない雪
 傘越しに階段見ゆる春の雪
 雪柳に雪積もる日や客ひとり

もちろん、積もった雪は、やがては融けて水となって流れはじめるだろう――《雪解けの鴉の瞳深く塗る》。雨として、また雪として、降りようはほんとうにさまざまだけれども、地上に降りそそぐ水が、やがて地を伝わり、泉となり、川となって、流れていく。

姿を変えながら句集をゆく水とともに、水のうえを流れるもの、その象徴として、舟という語が姿をあらわす。

 舟は花つめたい顔の揺れながら

舟として立ちあらわれる花とは、つまり花筏のことだろう。顔は、花びらが流れていく水面に映って、つめたく揺れている。

ところで、花といえば、こんな句もある。

 紙の花飾り雨水の一日暮れ

二十四節季の雨水は、二月の半ば過ぎ、降るものが雪から雨に変わり、地上でも雪解けがはじまるころだ。まさしく水にまつわる季の移ろいのなかに紙の花飾りがある。もちろん、花飾りという言葉が呼びおこす花の姿は桜とは限らない。けれども、水の動きはじめる早春において、紙の花飾りは、まことの春の花を待つ気分とともにある。

一方で紙は花の姿をとることができ、さらにまた、花は舟の姿をとることができる。それなら、紙は舟の材料にもなりうるはずだ。そういえば、丈夫な紙は水に浮く。

もちろん、ただ言葉遊びだけでこうした評を書いているわけではない。舟という語は、この句集に二度、ただし、見立てとしてのみ姿をあらわす。二度目は《毛布かけ尖れる耳の舟となり》で、眠るひとの片耳を、毛布のうえに浮かんだ一艘の舟に見立てる。見立てのくりかえしと実物の不在は、舟を憧れのものとして浮かびあがらせる。この憧れは、海という広がりが、眺める先にありながら踏みこみがたい場として描かれていることにも関わるだろう。

 液晶の眩しき海へ秋の蚊は
 凩に振るポラロイド写真の海
 金網に冬の音あり海のあり

水に耐えうる紙は、望みを文字として載せもする――《欲しきもの書くサイダーに濡れし紙》。紙は言葉を運ぶ舟にもなる。そして、書くことは、象徴的に、水のうえをゆくことへの憧れと結びつけられてもいる――《文字を書く速さ海鵜の飛ぶ迅さ》。このとき、『丈夫な紙』という書名は、句集を即物的に紙の束へと還元するイロニーを超えて、それを舟に見立てるユーモアとして働くことになる。書物=舟は、やはり夢のように、かなた先にその場を占める――《蒲団からとほき本棚とほき川》。

舟への憧れは、届くことへの願いでもある。だから、数枚の硬貨さえもが、手から手へ渡るとき、この句集ではあんなにもうつくしい。

 手から手へ硬貨ながるる蛍の夜

そう、流れていく。


2024-07-21

山岸由佳【週俳6月の俳句を読む】交錯する世界

【週俳6月の俳句を読む】
交錯する世界

山岸由佳


たった十七音の中で、見えるもの、見えないもの、現在、未来、記憶、意識、無意識が交錯し世界が立ちあらわれてくる。

自己の内面と外界の間でさまざまなものが交錯しながらも、作者の立つ位置がどこに寄っているのか、そんなことを考えながら読みました。

いうれいの鍵穴ほどの小ささよ  犬星星人

一読して、なぜかルネ・マグリットの絵が浮かんできた。

マグリットはシュルレアリスムを代表するベルギーの画家であり、「イメージの魔術師」の異名を持つことで知られているが、掲句も読み手のイメージを膨らませるような句だ。
現実における鍵穴は覗けるようなものではないが、鍵穴の向こう側に広がる景色の中で幽霊が佇んでいるようでもある。

「鍵穴ほどの小ささ」と書かれているものの、一茶の「うつくしや障子の穴の天の川」のように幽霊が大きく広がっていくような錯覚にも陥る。

それは、鍵穴の向こうの見えない空間と鍵穴をすりぬけるような幽霊の実態のなさによって作り出されているのかもしれない。


どこにも戻れない冷蔵庫にシールの跡  牧野 冴

冷蔵庫は、毎日の生活と関わるので、その家庭あるいはその人があらわれやすい家電のように思う。

冷蔵庫の中身の食品はもちろん、保存の仕方から、整理の仕方、冷蔵庫の扉にもメモを貼ったり写真を貼ったりと様々だ。

掲句の冷蔵庫にはシールの跡が残っている。その人固有の記憶の断片として。

そして、冷蔵庫をひらけば仄かな灯りにひんやりと照らされ、別の空間があらわれる。その空間は、今でありながらどこかなつかしさに繋がっているようにも思う。

シールの跡は消えないまま時間は経過し、環境も自分も変わっていく。

どこにも戻れない冷蔵庫に現在の自分が重なり、少しの歯がゆさが感じられる。


目を凝らす庭に日照雨や祭鱧  桐山太志

日照雨は、天気雨ともきつねの嫁入りとも呼ばれているが、日が差して降る雨はきらきらしててつい見惚れてしまう。

祭鱧は、京都の祇園祭り、大阪の天神祭りに欠かせない祭膳。

梅雨の雨をのんで美味しくなるといわれている鱧は祇園祭りの頃に旬を迎えるそうだ。

旬の鱧料理を前に、突然日照雨が降り出した。

豊かな水が循環し、祭という非日常の中で、すぐに止んでしまう 日照雨 は幻想的であり、祝祭性を帯びている。

目を凝らして見える現実の不思議さ、うつくしさが描かれている。


■桐山太志 祭鱧 10句 ≫読む  第894号

■犬星星人 鍵穴 10句 ≫読む  第895号

■牧野 冴 戻れない 10句 ≫読む  第897号

2023-02-11

山岸由佳 おのづと 10句


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おのづと 山岸由佳

一枚の布覆ひたる冬の川
ジャケットの釦おのづとはづれ月
秒針や襖のしろき野のひかり
岸暗くなり水鳥の一羽づつ
階段を上る恋猫時間のやう
髪はねてゐるよ春の鳥来てゐるよ
ふりかけの酸つぱい春の夜のラジオ
猫の名を呼ぶ淡雪の扉かな
風が歯に当たるバレンタインデー
太陽と目玉ふたつの凧

2020-05-17

【週俳4月の俳句を読む】目が覚めれば 山岸由佳

【週俳4月の俳句を読む】
目が覚めれば

山岸由佳



朝、目が覚めてから、まだ完全に現実のものともならない意識の中でいつも見る窓の風景がある。音のない風が微かに生垣の葉を戦がせ、その向こうには、誰のものとも分からない生活の窓があり、いつもと何も変わらない朝だなと思う。しかし、次の瞬間には、現在の私たちの生活は新型コロナウイルスによって変化せざる得ない状況化にあることに愕然とする。

人と距離を取らなければならないのである。

人と距離をとるという行為は、俳句を読む上で、少なからずとも影響があるように思う。

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さて、安里琉太の「追憶と鉈」は形式による世界の断絶が印象的であった。

俳句は十七音という形式がもともとあるわけだが、「追憶と鉈」は表記の形式にまず眼が奪われ、その形式自体に美しさがあるように思われた。重層的な表現形式は、言葉が頭に入ってくる前に、自ずと一呼吸置くこととなり、日常からのかすかな断絶が生まれ、作者が意図している世界に誘われていくことになる。

そして、その一句目は、やや冗長的ではあるものの、その形式にふさわしい静謐な世界から始まっている。

海灼くる無風を蝶のひた歩く  安里琉太

蝶が歩いている様というのはなかなか見ることがないように思う。飛んでいるか、止まっているか花や葉の上を少し歩くか。しかしここには、花の蜜も草もない。「ひた歩く」という言葉からは途方もなく歩きつづけている様を思う。もしかしたらもう弱っている蝶なのだろうか。もちろん、作者自身が蝶に投影されているとも考えらえれる。無風、蝶という音のない世界に海という大きな自然。富沢赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」と季節は違えど、どこか通じるものがあるように思われた。

掲句はアスタリスクで1句だけ区切られており、次に世界が続くことを拒んでいる。広い世界の中で孤独が永遠につづくように。

次に置かれている三句は、現代というよりは誰もが持っている原風景に還っていくような懐かしさと、長閑さの中にある退廃的な風景が広がっている。

日をおいて夜汽車のとほる田螺桶  同

暮春の母屋あぶらゑのぐの饐えてゐし  同

卯の花や天金の書の束ね売り  同

どの風景も春の気怠さの中で、印象主義の絵画を眺めているような心持になる。作者の美意識の方向性が伺える。

そして次に、アスタリスクで区切られている三句では、生の作者の世界に近づいているものの、やはり壮大な自然と時間の中に置かれている。

鳥沼の玉葱畑に寝てしまふ  同

鳥沼は北海道の富良野にある湧水の沼である。旅の途中に、玉葱畑が広がっていたのだろうか。長閑な句のようにも思われるが、異界に連れてかれるような不気味さは、鳥沼という言葉の持つ力だろうか。自然に抗うことができずに広い玉葱畑に図らずとも眠ってしまった。人が眠っている姿、特に父親が眠っている姿を見るのを、小さい頃から私は嫌った。それは本能的に死を畏れていたのだと思う。

先生や牡丹痩せて月痩せて  同

溢れんばかりの牡丹でもなく、満月の光でもない、華やかさの過ぎたあとの美しさ。先生と過ごした時間は過去になり年月を経て老いてゆくことは避けられない。先生やと上五で大きく切ったことで、先生に対する想いの大きさが伺われ、その後につづく牡丹と月の時間には肯定感があるように思われた。

最後は、アスタリスクでは区切らずに、一行空けたのちに三句が並べられている。記号で区切ることを拒否したように、意味から逃れ、境界というものを曖昧にした句の作りになっているようだ。

ひらかれへ馬上の風雲倦む耕  同

意味や像を結ぶことができなかったが、ひらかれという言葉のイメージや馬上、風、雲という言葉からは天空の光が感じられた。一方で倦む、耕には地上における単調につづく労働を想起させられたが、何か一筋の希望を掴もうとしているような印象を持った。
「みしはせを奇想の蒜へふり分ける」も

掲句も、解釈を書けば書くほど、句が遠ざかっていくように思われる。ひらがなや音、漢字の美しさを味わいたい。

吊るし倦む百丈雛の黄の総体  同

吊るされている状態というのは安定感が損なわれている状態であるが、百丈という空間に雛が吊るされているのは圧巻である。その空間自体が黄の総体ということであるのか。黄色は明るさもあるが同時に、神経を逆なでるような危うさもある色である。異様な空間であることは間違いない。

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黒岩徳将「半券」は、日常の中の微かな違和感を等身大の作者の感覚で詠み込んでいる。もっとも、新型コロナウイルスにより、今まで日常と信じていたものが揺らぎつつあるわけではあるが。

花屑が手羽先用の紙皿へ  黒岩徳将

お花見の光景だろうか。しずかな空虚感が漂うのは花屑は土に還り、紙皿は一度使われたら捨てられ、いまこの瞬間の風景ははすぐに消えていくということ。刹那的ではあるが、お花見とはそういうものである。まだ使われていない真っ白な紙皿とも、手羽先を食べた後の紙皿ともとれるが、紙皿の先には確かな人の気配が感じられ、賑わいの中の一抹の寂しさがあるようにも思われた。

手羽先の羽という字が、桜の花びらの軽さに重なりあいながらも、骨や肉の重さも同時に想起させられ、句に確かな重量感が生まれたように思う。

水に茶に蕎麦の半券濡れて春  同

蕎麦の半券が濡れることは、たいしたことではないが、何故かどうしようもなく情けない気持ちになる。しかし同時にこのどうしようもなさを愛おしいと感じるのは、お茶の色に染まりふやけた半券を前にしながらも、かつて信じていたささやかな日常がこの句の中にあるからだ。それは今も変わらず続いている日常なのかもしれないが、なにかひどく遠くのことに感じられる。半券という半分失われた状態で、かろうじて残っている券の有り様は、春の不安定な心持が仄かに表れているようにも思う。水だけでなく茶にも濡らしてしまったのが、作者の持ち味なのかもしれない。

百千鳥ウインドブレーカーの張り  同

ウインドブレーカーを着て、走っていいるのか何か運動をしているのだろうか、最後の張りで作者のかすかな高揚感のような息遣いが感じられる。ウインドブレーカーの軽さとこすれ合う音が百千鳥と交響しているようだ。生命感と躍動感に溢れている。

犬よりも丸まつて寝る朧かな  同

気象的な現象である朧であるが、今年の春の夜は長く、そして精神的にも世の中が朧に感じられた。丸まって寝ることで自分の体温がより近くなり、何か殻に閉じこもっていくような、自分の中に還っていくような眠りである。上五に「犬よりも」と置いたことで自分の存在の小さを自嘲しているようでもある。

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二人の異なる世界の作品を読みながら、非日常と日常というものが、いかに曖昧なものであるのか思い知らされている。言葉という意味では、どちらも同じなのかもしれないとも思う。

人と距離を置かなければならない世界の中で、俳句における切れの断絶の在り方は、俳句がより遠くにも近くにもあるように思われた。非日常が日常になりつつあるように。

さて、もう夏が来ている。


第676号 2020年4月5日
■黒岩徳将 半券 10句 ≫読む
■安里琉太 追憶と鉈 10句 ≫読む

2019-09-22

【週俳8月の俳句を読む】言葉からの距離 山岸由佳

【週俳8月の俳句を読む】
言葉からの距離

山岸由佳


祭鱧産科医院の消えてをり  玉貴らら

祭鱧を食しながら、かつてあったはずの産科医院のことを思い出したのだろうか。産科医院が消えると書かれると、まるで命が産まれる場所、命そのものが消えてしまったようにさえも思われてくる。

さて、祭鱧とは、京都の祇園祭の頃の鱧のことであるが、祇園祭の起源を遡ると、平安時代前期に、京で疫病が流行した際、神泉苑(中京区)に、66本の鉾を立て、祇園の神を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされるそうだ。祭りには日常とは異なる華やかさがあるが、生きるための祈りや鎮魂の儀式であり、死の世界とは切り離せない。

また、自然のエネルギーと祭の荘厳さが一つとなり、幻想的な世界をつくりあげている一句目の「真白き豪雨宵山の四条」と合わせて読むと、祭の最中に建物自体がふっと消えてしまったような感覚に陥る。


百舌鳥鳴いて鳴いて単焦点レンズ 倉田有希

百舌がしきりに鳴いているなか、レンズを覗いている作者。単焦点レンズとは焦点距離の決まったレンズのこと。ズームがついていないため、構図を決めるのに、自分の足で近づいたり遠くはなれたりと撮影の対象までの立ち位置を決めることになる。聴覚と視覚に加え、距離というものがこの句から自ずと浮かんでくる訳であるが、作者がどこに居て、何にレンズを向けているのかは定かではない。

百舌鳥鳴いての「鳴いて」が二回繰り返されることで、百舌鳥の世界にぐんと引き込まれるのだが、次に「単焦点レンズ」と軽く突き放されることで、読み手もまた、この句の中で立ち尽くすことになる。必死に鳴いている百舌鳥のあはれさがそこはかとなく漂う中、ファインダーを一人覗いているまっすぐな眼差しと、また眼前にある言葉と一定の距離をとりながら。


■菅原はなめ しなやかぱちん 10句 ≫読む
第642号 2019年8月11日
■倉田有希 単焦点レンズ 10句 ≫読む
■玉貴らら 断層 10句 ≫読む

2018-03-11

【週俳2月の俳句を読む】じっと見ている 山岸由佳

【週俳2月の俳句を読む】
じっと見ている

山岸由佳



一月の大雪で思い切り滑って転んだ。長野県生まれなので雪には慣れており、テレビで雪で滑っている映像や怪我について報道されるたびに、「転びすぎだろ!」と内心思っていた。しかし、転ぶのである。
一週間ほど松葉杖で暮らしたが思った以上に歩くのは大変だった。当事者であることと当事者ではないことの溝は埋められないと思う。しかし想像することをやめてはならない。

東日本大震災から七年経とうとしている。


燃えるゴミ隠れてゐたり雪の宿
 黄土眠兎

菜屑捨てしそこより春の雪腐る  寺田京子

どちらの句も刹那的な雪に対して、日常とは切り離すことができない屑を詠み込んでいる。
寺田は、人間の営みによって雪が汚れる様を、瞬
時に腐るという鋭い切り口で詠んでいるが、菜屑
はやがて土に帰ってゆく。
一方、黄土の句はまた別の視点であり、時間の長さとともに、美しい雪はゴミまでも隠してしまったということか。淡々と詠んでいるが、どちらの句に不穏さを感じるかといえば後者である。

雪靴の試し履きなり雪を踏む
  黄土眠兎

普段は、雪に接することのない作者なのだろう。買ったばかりの雪靴を履いて、子どものように履き心地を試している。試し履きだったはずが、いつの間にか、雪の上をどこまでも歩いていってしまいそうな無邪気さだ。
そういえば、子供の頃ブーツの裏のいろいろな模様が雪にくっきりと残っているのを見て歩くのが好きだった。


のど飴を温めている紙懐炉
   野口 裕

「酒量逓減」というタイトルからも伺えるように少し体が疲れているのかもしれないなと思う。
本当は体を温めるための懐炉だが、のど飴も一緒に温まっていることに気がついた。飴の甘さとぬくもりが口中にじわじわと沁み込んでくる。疲れている時はななおさらだ。自分の内側へ向かっていく感覚はどこか孤独を感じさせる。

まじり合わぬ空気のかたまり春の雪
  野口 裕

意味を考えだすと正直どう解釈してよいのか迷う
句である。まじり合わない空気?空気のかたまり?どちらも頭の中に上手く描くことが出来ないからだ。伝わってくるのは春の雪の浮遊感と静かさ。春の雪そのものの感覚を言葉で掴もうとしたのだろうか。あまり理屈を考えるのではなく、春の雪を見るように、ただこの句をじっと見ていればいいのかもしれない。


日脚伸ぶ赤子のおなら逞しく  堀切克洋

人はいつから羞恥心も持つようになるのだろう。おならをしたら恥ずかしいという感情は、赤子にはまだない。ただ純粋に存在しているだけだ。
この句のおならは生きていることそのものであり、どこか神々しさまで感じる。健やかさと開放感が魅力的だ。赤子の未来を祈るように、外はまだ明るいことに気がつく。

羽の国の熱燗よろし冷も良し  堀切克洋

羽の国とはどこだろう。羽という言葉は当然、鳥を連想させる。ふわふわとした羽はお酒を飲んでいる時の気分とつながるものがあるのかもしれない。お伽噺のなかに入り込んでしまったようでもある。熱燗も冷もどちらも良しというおおらかさも心地よい。私はお酒が飲めないのだが、とても美味しそうで少し羨ましくなった。


冬空の下に今上天皇と香香と  川嶋健佑

「天皇は日本国の象徴である」と学校で教えられた時、とても不可思議な気持ちになった。象徴という言葉が上手く飲み込めなかったのと、何か特別な存在であることへの素朴な疑問からだったように思う。
さて、冬空の下の香香は上野に生まれたパンダの
シャンシャンだろうか。上野のパンダは長い間、日中国交正常化としてのシンボルでもあった。生まれたばかりのシャンシャンも国民的なものになりつつある。
冬の空の下に象徴としての存在が二つ。



■堀切克洋 きつかけは 10句 ≫読む
第564号 2018年2月11日
■野口 裕 酒量逓減 10句 ≫読む
第565号 2018年2月18日
■黄土眠兎 靴 10句 ≫読む
第566号 2018年2月25日
■川嶋健佑 ビー玉 10句 ≫読む

2017-10-08

山岸由佳 拡大鏡 10句


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拡大鏡  山岸由佳

野分あと歩行者天国にこども
カンナから土砂降りの橋みえてゐる
小鳥来るまひるを眠らないやうに
蟋蟀のこゑ十字路を嗚呼と風
花野から戻り拡大鏡に瞳
指で書く文字木犀の香るなか
残る蚊と雪の図鑑へ日のあたる
百坪のゑのころ草の売られをり
電柱の影踏み或る日の秋暑し
あたらしい記憶きつと鶫だらう

2013-12-22

〔今週号の表紙〕第348号 商店街 山岸由佳

〔今週号の表紙〕
第348号 商店街

山岸由佳




3年前の夏、この街に引っ越して来た。

といっても、前に住んでいた家から歩いて20分くらいしか変わらない距離だ。でも、使う商店街が変わると気分は変わってくる。肩の力が抜けた自由な雰囲気の漂う街。

ヘンテコなマネキンと目があってしまった。


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2013-12-08

〔今週号の表紙〕 第346号 直線 山岸由佳

〔今週号の表紙〕
第346号 直線

山岸由佳




六本木駅近くの交差点。

人ごみの中を歩くのは好きではないけれど、どこかへ向かおうとする人の姿が好きなのか、それとも、あらゆる偶然の重なりに惹かれるのか、立ち止まっている私の傍を、抗うこことのできない直線となり、時間と人が通り過ぎていきます。

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2013-11-10

山岸由佳 よるの鰯雲 10句

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週刊俳句 第342号 2013-11-10
山岸由佳 よるの鰯雲
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10句作品テキスト 山岸由佳 よるの鰯雲

よるの鰯雲   山岸由佳

すこしづつ街乾きをり秋の蝶
くれなゐの花の散らかり鵙の昼
遠くよりコスモス指してゐる水辺
鉄橋を越えて異郷の稲びかり
うしろより口笛よるの鰯雲
星飛んで人の匂ひをなつかしむ
みづうみの傷つきやすき赤蜻蛉
寝袋に入り木の実の音つづく
やすらかな真葛の雨を曳きにけり
銀杏降る夜空へ近き交差点


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〔今週号の表紙〕 第342号 埠頭 山岸由佳

〔今週号の表紙〕 
第342号 埠頭

山岸由佳



昨年の冬、お台場の潮風公園を散歩している時に撮りました。

対岸にはコンテナ埠頭が広がり、巨大なクレーンやコンテナ車、色鮮やかな倉庫が日本の物流を支えています。人の気配を感じさせない無機質な塊を見ていると、少し遠い未来に来てしまったような、同時に懐かしいような不思議な気持ちになります。

もう少し暗くなったら、女体のような真っ黒な海の上に、少し不気味な機械音を立て、妖しい光がいくつも浮かび始めます。

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2013-10-06

〔今週号の表紙〕 第337号 顔 山岸由佳

〔今週号の表紙〕 
第337号 顔

山岸由佳



会社帰りにある写真家の写真展に立ち寄った。

一枚の写真の前に足が止まる。

工事現場で働いている50代ぐらいの男性が5、6人、仕事の休憩中にカメラに向かって微笑んでいるだけの写真だった。陽の下で働いた後の程良い疲れと、仲間とのささやかなほっとした時間が滲んでいるように思われた。もしかしたら、次の瞬間には、全く違う表情に変わっていたのかもしれないが、写真家が切り取ったものは、どの人も欲がなさそうな穏やかな表情であった。

その穏やかさに、かすかな淋しさを感じない訳でもなかったが、写真展の中では比較的地味であったその写真に、ふっと足が止まったのは、その時の私に足りていないものが写っている気がして、ほんの少し羨ましかったのかもしれない。

20年後、あなたは、私は、どんな顔をしていますか。

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2013-09-15

〔今週号の表紙〕 第334号 晴れた日は 山岸由佳

〔今週号の表紙〕 
第334号 晴れた日は

山岸由佳



鞄の中にいつも入っているのがフィルムのコンパクトカメラ。ズームがないので足で画角を決めるしかない。現像する時には何を撮ったのか覚えてないこともある。WEBにアップするにもデータ化しなければならず効率の悪さときたらこの上ない。

でも、仕上がりの写真を見る時の楽しみはフィルムだからこそ。デジタルカメラの画質は本当に綺麗になったけれど、何か失ってしまったものがあると思っている。

一昔前のモノクロの家庭の写真って、かっこよかったなぁ。

フィルムカメラを持って、洗濯物の干された団地をあてもなくぶらぶらするのも悪くない。まだ当分この効率の悪さを楽しむつもりだ。

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