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2026-08-02

柴田千晶〔俳句の沃土〕分身 佐藤りえ第一句集『景色』

〔俳句の沃土〕
分身
佐藤りえ第一句集『景色

柴田千晶

『みらいらん』第6号(2020年夏)より転載

みづうみにきれいなはうを置いていく  佐藤りえ

湖に置いてきたものは何か? 人なのか動物なのか物なのか? きれいな方ときたない方があって、置いてきたのは、何故きれいな方だったのか? そもそも湖に置いていったのは誰なのか……この句はとてもミステリアスだ。

置いてゆかれた方と、連れて行かれた方。どちらも心もとなくて、どちらも寂しい。もしかしたら一つのからだ。自分の中に在るきれいな方ときたない方なのかもしれない。

佐藤りえの第一句集『景色』(六花書林)には謎めいた句が並んでいる。一句に仕組まれた謎を解いてゆこうとすると、見知らぬ風景の中にぽんと放り出されて、途方に暮れる。醒めない夢の中をさ迷っているかのような気分になる。

かぎろひに拾ふ人魚の瓦版

風死んで吾の乗るバスを見送りぬ

瓦版は江戸時代、事件の急報に用いたもの。「かぎろひ」は、強い日差しのために物の形がゆらいで見える現象をいう。瓦版に描かれた人魚も、それを拾った手も、時代も、すべてがゆらゆら不確かだ。

「風死す」は、夏の盛りにぴたりと風が止むこと。「吾の乗るバス」は、私が乗るはずだったバスなのか? それとも私が乗っているバスなのか……。後者ならばドッペルゲンガーを見たことになる。

もう一人の私の存在。句に登場するものたちは、佐藤の分身のように思える。

かはほりに歌をおしへる女(め)のありき

道の辺に燃え尽きてゐる雪女郎

「かはほり」は蝙蝠のこと。蝙蝠に歌を教えている女も、道の辺で燃え尽きている雪女郎も異端。この世界に栖を持つことが叶わなかったものたちだ。

佐藤の分身たちは、様々なものに姿を変えて現れる。

船幽霊夜釣りの竿に触れて来し

犬憑きと狐憑きとの舟遊び

幽霊となって夜釣りの客に近づいたり、犬や狐の顔付きで舟に揺られていたり。

やがて分身はこの世界を捨てて、無機質なものに生まれ変わる。

西方のあれは非破壊検査光

夏痩せて肘からのぞくベアリング

冬山に人工知能凍ててをる

無機質なものに「夏痩せて」「凍てて」という肉体を感じさせる季語を取り合わせたところが面白い。「非破壊検査光」「ベアリング」「人工知能」という素材から新鮮な詩情が生まれた。西方には浄土がある。非破壊検査の光は何を照らし、何を調べているのだろう。それもまた謎だ。

2026-07-19

柴田千晶〔俳句の沃土〕獄に灯る 舟として地獄に灯る夏布団 竹岡一郎

〔俳句の沃土〕
地獄に灯る
舟として地獄に灯る夏布団 竹岡一郎

柴田千晶
『みらいらん』第4号(2019年夏)より転載

シナリオの師、馬場当はよく地獄の話をした。終わりの見えない階段をずっと降りてゆくと、死んだ母親が電信柱に生まれ変わっていたとか。先生が話す地獄の景色は、現実の景色とそう変わりがなくて、ただ死んだ人が、郵便ポストになっていたり、バス停や自転車、切り株なんかになって、日常に紛れていた。先生は、もう人に生まれ変わりたくないと思っていたのかもしれない。

竹岡一郎けものの苗』の世界は、馬場先生が話していた地獄と少し似ている。冒頭の句、ただ夏布団に寝ていたはずなのに、いつの間にか地獄を漂う舟に乗っている。竹岡の俳句には、夢と現の境、この世とあの世の境がない。

句集に登場する動物や虫や草たちは、かつては人であったのかもしれない。

蛇となる途中の廊下拭き磨く

雑巾がけをしているうちに、廊下が蛇に変わる。いや、廊下の途中で人の方が蛇になるのかも。もうすぐ蛇になると思いながら廊下を拭いているほうがいい。ぴかぴかに磨いた廊下には、蛇になりかけている自分の顔が映っていて、もう人ではいられない悲しみがこみあげてくる。

でも蛇になってしまえば、人であった記憶はきっと消えている。

竹岡はその消えた記憶を手繰り、懐かしんでいる。「狐わらし」の章の扉には〈十三歳の私を迎えに来た母は狐であった〉という詞書がある。母と子の再会の場面を描いた十六句は童話のよう。

狐詫ぶ人の世に吾を置きしこと

白き尾に夜をくるみけり狐の母

狐跳び月嚙み取って呉れにけり

町の灯がみんな狐火住む人も

人に還り狐の言葉もうわからぬ

子を人の世に置き去りにし、十三年後に迎えに来た母狐。人目を避けるために夜を白い尾でくるんだり、月を嚙み散って子にやったり。母狐は離ればなれでいた時間を必死で埋めようとしているよう。けれど、子狐は人の世に戻ってしまい、もう母の言葉がわからない。

どうしようもない淋しさ。存在の不安のようなものが、俳句として立ち上がる。

紅蓮なす世の突端は尺蠖立つ

蟒蛇の舌に東京熔けても綺麗

蛸だらけなる廃園を逃げ惑ふ

朧より生れし巨艦が東京へ

ミサイルの光と知らず草ひばり

陥落の町の真中に撮られ家族

紅蓮なす世も、熔けた東京も、蛸だらけの廃園も異様な景色だ。東京は壊滅し、きっともう人は生きていない。

ではこの記憶は、だれのものなのか。

地獄に灯る夏布団に何かが乗っている。


竹岡一郎『けものの苗』2018年/ふらんす堂

2026-07-12

中山奈々【句集を読む】 静かな距離 岡田由季『中くらゐの町』評

【句集を読む】
静かな距離
岡田由季中くらゐの町』評

中山奈々
『豆の木』第28号(2024年6月)より転載

由季さんを思い出すとき、現れてくるのは山科駅のホームだ。いや京都駅のホームかもしれない。午前中に開催された句会が果てて、電車を待っている。どの季節もそうやっていたはずなのに、浮かぶのはどれも早春で、空はほうきで掃いたような薄曇り。ときには分厚めの、でも雨を降らせない湿りのない曇り。寒いとか暑いとかは記憶からすり抜けている。ああ、そうだ。放送がかかっていたり、ほかに並ぶひとがいたりしているはずなのに、音もない。ないというか、わたしたちからは遠くに放り出されている。

ひつそりと靴擦れをして鳥曇り

乾燥していて、紙で指が切れてしまうこと。遠近法がうまく摑めず、どこかにぶつけてしまい、青たんが出来ること。内臓の弱り、あるいはストレスから口内炎が現れてしまうこと。不可抗力のなかにある自分の注意不足を思えば、それぞれ痛いけれど、自分のなかで折り合いがつけられる。しかし靴擦れはそうはいかない。新しい靴でなったら、楽しい気持ちを挫かれた気分になる。慣れた靴なら、なぜ今更と途方に暮れる。なかなか治らない上に、地味に痛い。みんなに見えないから同情してもらえない。してもらえないというか、こちらから靴擦れであることを告げるのも変だ。だって靴擦れってやっぱりケガのなかでも情けない。ひっそりなったものなら、こちらもひっそりと黙って受け入れよう。

しかしあと五分、十分と一緒にホームで電車を待つなら、ひとり黙って靴擦れと向き合っているわけにはいかない。

駅舎にて見せあつてゐる茸かな

茸狩りに一緒に行ったひとか。はたまた、この駅でこの時間に電車を待っているなら茸狩りに行ったひとにちがいないと踏んで話しかけたか。いずれにしても楽しそうに茸を見せ合っている。ベンチに広げずに、袋から一株出して、見せては戻し、まあ一株出す。電車の待ち時間が長いから、それが出来るのであるが、このまどろっこしさをも愛せる時間である。欠けた一本だけをうやうやしく取り出して、笑かしてくれる。

しかしわたしは茸を持っていない。代わりにさっきの句会の清記用紙を取り出してみようか。いや、きちんと畳んで入れただろうか。知らないうちにリュックのなかでくしゃくしゃになってはいないか。皺の寄った紙を見て、きちんとしていないと思われたらどうしよう。すでに思われている可能性もあるけれど、恥の上塗りはやめておこう。

市ヶ谷のホームから見る残る鴨

残念ながらここは市ヶ谷出駅ではない。もし市ヶ谷駅だったとしても、土地勘のないわたしは、あれは神田川ですかねと皇居の外堀を指さしていってしまいそうだ。そうなると到底、残る鴨を見つめて楽しむまでにいかない。しかし市ヶ谷という大きくて、電車の行き交いが多そうな駅からも残る鴨が見えるのかと考えて、由季さんだから見えるんだなとひとり納得する。

残る鴨はいないけれど、とりあえず鳥を、鳥の話を、と思って、山科駅か京都駅かの薄曇りの空に鳥を見つける。あれ、あれは鴉ですかね。鳶ですかね。と調子の狂った声で話しかけてみる。雀や鳩といわなかった自分を褒めたいし、そうですねとしか返事出来ない質問に、この前見た野鳥の話を交えてくれた由季さんに拍手を送るしかない。

加減して禽舎飛ぶ鳥蔦若葉

話を合わせてくれえいるということはあるかもしれない。こちらが気を遣っている以上に由季さんが(こんなにわたしにさえ)神経をすり減らしてくれている可能性もある。何故なら、

水鳥に会ふときいつも同じ靴

本当に素直に読むと、履き心地のよい靴で、水のぬかるみややや足に絡まりそうな枯草をも気にせずに進んで行けるのだ。それに普段使いにしてはシックな色合いと形なのである。水鳥のいる湖や池に対して、靴で歩く大地。水鳥ではあるけれど、鳥という空(上)に対しての靴という足元(下)。ふたつもの対比構造を配している。それなのに、さりげなく温かい句なのである。これはすごい。

ときて、「いつも同じ靴」というのを、単純に発見、気づきの句として扱っていいのだろうか。何故なら、これは気づきではなく、意識ではないだろうか。意識して靴を履いている。水鳥を警戒させないように、同じ靴にしている。水鳥がそこまで見ているかどうかわからないけれど、こちらが配慮する。靴だけでなく、服装も水鳥の警戒を解くように毎回同じ(ような)ものにする。もちろん、防寒対策バッチリの服である。いや、〈裸木となりても鳥を匿へり〉のように、寒くても鳥を優先するのかもしれない。

集まらぬ日の椋鳥の楽しさう

集団でわあわあ鳴き、飛び、一木では収まらずに何本もの街路樹を占拠する。それはそれで楽しいのかもしれないが、一羽だけで過ごす椋鳥が楽しそうに見えたのである。自分もそうかもしれない。〈犬とのみ行く場所のあり草紅葉〉のように、集団ではなく、ひとり(と一頭)だけの楽しみを知っている。いや、ひとりで過ごす時間をきちんと持っているから、集団で時間を過ごすことが出来るのだ。

歌仙巻く女たちみな素足かな

これは集団で過ごす楽しい時間である。歌仙を巻きながら、夢中になってほかの話をする。だから、歌仙はなかなか巻き終わらない。それでも焦りはなく、むしろ巻き終わらないことを楽しんでいる。そういうときに、だれもがみな素足であるという事実を冷静に見ている。その瞬間、その輪にいる/いたはずなのに、一定の距離が出来る。距離が置かれる。映画館でふと我に返るようなあの瞬間である。自分と空間とに区切りがあるのだ。

中くらゐの町の大きな秋祭

内側に座つてみたき夜店かな

食堂に死角の席やぼたん雪

夏の海から区切られて漁港かな

自宅から土筆の範囲にて暮らす

自分の住む町を「中くらゐ」といえるのは、大きい町も小さい町も知っているからである。それぞれの町には住んでいたのかもしれないし、訪ねただけかもしれない。ただ今を「中くらゐ」の町で過ごしている。その規模からすれば、大きな秋祭なのだ。町総出で、ここにこれだけのひとがいたのか、収まっていたのかと驚くほどである。ほかからも見物に来ているかもしれない。その秋祭に町ごと飲み込まれているはずなのだが、町を「中くらいゐ」と把握し、それに比べたら秋祭を大きいと冷静に判断している。秋祭には参加している。しているのだが、一瞬、距離が生まれるのだ。生まれてしまうのか。生み出されてしまうのか。それはこちらでは分からないけれど、ただ、生まれた距離をしっかりと描きとめているのが、由季さんの俳句である。

夜店に対して内と外とを見出し、静かな内側のほうに座りたいという。

見通しのよい、だだっ広い食堂に死角を見つける。そこに座って静かに過ごすのであろうか。

海あっての漁港であるが、海からは「区切られて」いると捉える。夏の海といえば、海水浴もある。だからこそ余計に海そのもの、海水浴場、漁港との区切りが見えるのだ。しかしそれを今まで描きとめたひとはいただろうか。見過ごされがちな景色である。

自分の生活を範囲で区切る。自宅と土筆以外の姿かたちをはっきりとは描かない。だからこそ、何があるか想像して楽しめる。

一〇〇〇トンの水槽の前西行忌

空間との区切りの俳句を読んできたが、そのなかでこの句が一番である。一〇〇〇トンの水槽は、もちろん水族館にある水槽であろう。水族館のなかに入り、圧倒的迫力の水槽を前にする。自分が魚になったような気分になる必要はないが、空間に浸ることは出来る。出来るというか、浸っているのだ。いるのだけれど、ある瞬間、あのある瞬間がやってくるのである。一〇〇〇トンの水槽の「前」と距離を生み出す。たしかに前ではある。中ではないのだから。その上で西行忌と持ってくる。これは突き放し以外の何物でもない。一〇〇〇トンもの水槽だから、イワシかアジかのぴかぴかに光った群れがいつまでも途切れずに回って泳ぐ。底にへばりついたままの魚や硝子を舐めるように泳ぐエイもいる。何より怖いものなしのジンベイザメが水上からの光を遮りながら遊泳する。海の縮図である。対して西行忌を意識するわたし。西行は今も慕われる才能ある僧侶である。若くして(家庭を捨て)出家している。西行は今も慕われる才能ある僧侶であるが、若くして(家庭を捨て)出家している。世俗と距離をとり、ひとりで修行する。内面に向き合いすぎても業となる。一切は無なのだが、そうそう無にはなれない。死ぬときは桜の時期がいいなんて言っちゃうあたり、無ではない。しかし世俗と距離を置く僧侶なのである。その道に自ら飛び込んだ。そんな西行の命日が頭にある。目の前には一〇〇〇トンの水槽。周りにはその水槽を楽しむひとびと。水槽と周りのひとびとと、そして水族館から出たあとの(おそらく桜が咲いている)外とも距離がある。頭のなかの西行とだって親しくはない。その一瞬の静かな距離を描きとめる。描きとめたあと、怒濤のように愛おしさが溢れてくるかもしれない。水槽に飲み込まれてしまうかもしれない。ただ今、距離があるのだ。水槽の青い光を受けながら。嫌な距離ではない。冷静で静かな距離である。

ひと粒のなかの栄養冬の星

グリコのことだろうか。三〇〇メートル走るのに必要な栄養がひと粒にぎゅっとなっているらしい。冷静で静かな距離を生むとき、由季さんのなかで、由季さんがぎゅっとなってすごい栄養を蓄える。と思っている。

こんなに話したけど、駅のホームの由季さんにはどう話しかけよう。いやそのまま話しかけずに空を見ていようか。

太陽を見ぬやう鷹を見てをりぬ

(了)

2026-07-05

西原天気【句集を読む】Around Edo River 依光陽子『ふ、は鳥に』を片手に

【句集を読む】
Around Edo River
依光陽子ふ、は鳥に』を片手に

西原天気

江戸川は、東京都の東端。埼玉県や千葉県との境界を流れる。篠崎あたりで本流は千葉県を、旧江戸川が江戸川区、江東区と千葉県浦安市の境を流れる。地下鉄東西線葛西駅で降りて、西へ。浦安橋を渡って妙見島、23区内で唯一の自然島へ。さらに西へ、もう一度橋を渡れば、浦安。つまり千葉県。

江戸川や金魚もかかる仕掛網  依光陽子(以下同)

江戸川区は金魚の三大生産地のひとつ。金魚田から江戸川に迷い込む金魚もいるだろう。

この句集が出るずいぶん前から、この句が大好きですが、なぜこんなに好きなのか、説明はしにくい。《金魚》がキュートで、江戸川という地名には独特の情趣がある。《仕掛網》で意図せず偶然に《金魚》と出会う。それはたしかに劇的なのですが、誰か(例えば網を仕掛けた人)にとっては、ごくごく日常的な出来事で……と、こんなことを考えていると、ますます好きの度合いが増していく。不思議なものです。説明できない句ほど、自分の中で古びない、衰えない。ぴちぴちと輝きながら跳ねる金魚のように、いつまでも魅了しつづけてくれる。

ああ、そうそう。葛西駅からの散歩に話を戻しましょう。橋からは川の流れが見え、私が散歩したときには浚渫船が見えました。

浚渫船見てゐる昼のビールかな

だから、この句、飲食店ではなくて、缶ビール片手に橋の欄干から。そう想像してしまう。

あのあたり。というのは、妙見島と限定せず、江戸川の存在が色濃く漂うあのあたり。私は詳しいわけでも親しくしている土地でもないのですが、はじめに挙げた金魚の句のせいなのか、そればかりではないのか、『ふ、は鳥を』を読んでいるあいだ、頭から「あのあたり」が離れないのです。

もちろんそこを離れて愉しめる句、愉しむべき句はたくさんあります。《雛あれば雛の間と呼ぶ枕かな》の下五《枕かな》のほれぼれするような手際。《音と見やれば夕立の中に町》の展開のあざやかさ、構成のたしかさ。《あをき空映して黝き冬の水》の《あを》と《黝》。表記への細心の気配り。

集中に美徳は数多い。そのことは、たくさんの読者が感じ、ことばにしていくでしょう。優秀な書き手が的確な評言を重ねてくれることでしょう。だから、私は、好き勝手に、あのあたりを、この句集とともに、気持ちよく散歩することにします。

かの夏に未だとどまる喫茶かな

もっと繁華街、浅草や上野にたくさんありそうな喫茶店ですが、江戸川区、江東区なら、正味とどまっていそうな店が見つかりそうです。

ちょっと野暮に技法的・文芸的なことをいえば、喫茶店でも純喫茶でもなく、《喫茶かな》。ぞんざいになり過ぎず、抑制の効いた語り口です、この《喫茶かな》。作家の品質が出てしまう部分です。

仏壇と電話の黒き簾かな

仕舞(しもた)屋の奥が透けてみえるのか。家屋でこのような景を味わう機会はめっきり少なくなりました。

わりあい歩きました。ひと休みしたい。

氷菓食ふ店の硝子に背をつけて

硝子戸はひんやりするのか、外気の暑さを伝えるのか。いずれにしても、この句の瞬間ほど気持ちのいい瞬間はないと言っていいほどです。すくなくとも私にとっては。


依光陽子『ふ、は鳥に』2026年3月/左右社

2026-06-14

中内火星と現代俳句 中内火星句集『シュルレアリスム』を読む 広瀬ちえみ【句集を読む】

【句集を読む】
中内火星と現代俳句
中内火星句集『シュルレアリスム』を読む

広瀬ちえみ
『垂人』第46号(2024年9月)より転載

中内火星の句はそう難解ではない。社会で起きている不都合なことや、この世の男や女が(男でも女でもない人がいるかもしれないが)起こす取るに足らぬ出来事が題材だからである。しかしながら機知に富んでおり、読者がふむふむと気楽に読んでいると、大外刈りで転がされる。そんな愉快があちこちに潜んでいる句集『シュルレアリスム』。火星の言葉は少しひねくれていて、それがまた的を射ているので楽しく読んだ。

句の中の火星を絵に描いたら決して具象画にはならないだろう。ピカソやマチスのような線で変顔に描かれるに違いない。

季語の使い方がありふれていない。雅が俳句なら火星の俳句は美しくない。季語というより言葉という感じがして、季語の歴史とかその世界を壊してもいるようだ。それが成功しているものもあれば成功していないものもある、というのが私の感想である。あくまでも川柳人の私の感想である。

  紅葉がいよいよ危険になります

  病名は枝垂桜だった

  薫風を飛ばしてしまうほどの風

  親に見放されるくらい花吹雪

  曼珠沙華それでいて血圧正常

  高きに登ったまま降りてこない人

紅葉の赤を単なる景として詠むのではなく、火星はこの世の、例えば現在起きている戦争、温暖化などを憂えており、紅葉の赤にさえ火星は恐怖心をおぼえるのだ。季語の紅葉は不穏で、全山紅葉が今にも爆発しそうである。

破調の句の「病名」と「枝垂桜」はどういうことで結びつくのか意表を突かれる。病名は「枝垂桜」と告げられうなだれる人間まで見えてくる。 

薫風という美しい季語が、欽ちゃんに飛ばされるコント55号のギャグのようだ、と感心してしまう。

連句での「花」は位の高い位置におかれるが、子どもの反抗が、言い聞かせても言い聞かせても収まらない花吹雪として描かれる。こんな無礼をへとも思わない火星に拍手を送ろう。

曼珠沙華は「死人花」ともいわれる。若いときは、低血圧でふらふらしていたが、最近少しずつ上がってきて先日は124と言われる。100くらいしかなかったのだから怖くなり医者に問うと「正常です。低血圧がいいのではないですよ」と。いつ死んでもおかしくない年齢なのだが、血圧はひとつの安心材料だ。 

「高きに登る」は秋の季語で、中国の古俗で重陽の日に茱萸を入れた袋を持って高い丘などに登ることだそうだ。その人が戻ってこない、と火星は季語の本意本情をひっくり返してみせる。人生はそんなものさというように。句会などで本意本情と俳人の口から出るとき、私は身構える。

  ここんとこ頭の中の霞草

  爪切と爪のカーブやリラの花

この二句は私にはつまらない。先に引用した句とちがって「霞草」「リラの花」には読み手として心を動かされない。脳が衰えてきた実感をこのように表現するのは、川柳にもたくさんある。オンパレードと言っても過言ではない。「リラの花」でいわゆる切れている、ということなのだろうが、意味を見いだせない。意味などというと否定されるが、私はつかず離れず、その微妙な関係を読みたいと思う。

  靴屋きてわが体内に棲むという  石部明

そう、頭の中にも何かを棲ませたいと思ったのだ。

  団栗という独立      

     どうりで冬至

句集は十句前後の数に題がつけられて26もある。これもめずらしい。こんなに題がある句集は見たことがない。その中の「簡潔」という題がつけられた15句のうちの二句である。題のとおりそれは短い。しかし、世界が物語のようにあるいは詩のように成り立っている。短いゆえに読み手の心に浮かぶさまざまな事象を呼び起こす。垂人の作品は三行にわたり極端に長い(たぶん火星はこれも俳句だと言うだろう)が、火星の句の定義は規定がないということなのだろう。

団栗と独立、「ど」の韻を踏んでいるこの句は、あの小さな木の実でさえ、一粒ずつ土に埋もれ芽を出し自分の国を作る。それにくらべて我々は、他国に侵攻し、人を殺す。大昔迫害されたユダヤ人が今度は迫害する側となっている。人間の愚かさは死んでも治らない。

「どうりで」が世界を拡げてくれる。柚子風呂だったり、小豆南瓜が出てきたり、外は真っ暗だし、どうりでどうりで冬至だった。そして「冬至」でなければならない、寒くなければならない、とその必然があり、暖かかったら詩にも物語にもならないだろう。

  言語化したときに滝は凍りつく

場所によっては冬には凍て滝になるところもあるが、本来、滝はゴーゴーと轟きながら滝壺に向かって落ちるのが一番滝が滝である姿だろう。そこに変な言葉は不要である。私たちも他者から「あなたって○○ね」と言語化されることがある。思いも寄らぬ言葉で語られることも。

何かを言語化することはとても難しい。それでも私たちは表現の世界を持った。見たことあったことを日々言語化する。もしかしたら他者を傷つけたり罪作りをしているかもしれない。言葉は武器でもある。   

あとがきで火星は、「こんな輩を受け入れてくれる世界がわたしにとって現代俳句の世界に他ならない。」と書いている。「俳句」ではなく「現代俳句」と述べるその〝現代〟とは何を指しているのだろう。

私はいつもこの〝現代〟が気になる。現代○○、というフレーズがあちこちに見られる。現代って歴史的にいえばどこからなのか、あるいはどんなことに対しての現代なのかあいまいで落ち着かない。

たとえば〝前衛〟という言葉がある。あらゆる芸術でこう呼ばれているジャンルは、対するものがあるから〝前衛〟というのだろう。あちらとは違っている〝前衛〟という意識である。〝現代〟という言葉も確かに同じニュアンスがあるというのが私見だ。俳句にも川柳にも〝現代〟がある。何に対しての〝現代〟なのか、境界はあいまいだ。

  現代俳句協会はチューインガム

  白妙の現代雪女協会に春

火星は現代俳句協会に所属し重要な仕事をされている。協会には属しているが、作品はどこにも属さない意思があることを表明した。俳句界の協会の詳しいことは知らないが、現代俳句協会というからにはそれぞれの協会に意識の中で違いがあるのだろう。味がなくなるまで噛み続けなければなるまい。

火星にとっての〝現代〟とは、季語からも定型からも自由になり、つまりはおもむくままの表現(シュルレアリスム)をすることなのだろう。

ある川柳人はやりたい放題のことをしている句集だと評した。季語や切れの後ろ盾もない本来自由なはずの川柳から見ても、火星の句の奔放な世界は刺激的だ。

  誰かが死んだそして蚯蚓が鳴いた

  花吹雪途方もないほどの孤独

この年齢になるとどんどんさびしくなるものだという実感がある。友人が亡くなる。先日はCDプレイヤーが壊れ、今度はビデオデッキが壊れ、物置の扉がおかしくなった。これから壊れるものもまだまだある。物が壊れるのは当然だけどさびしいと娘に言ったら笑われ、「さびしくなったら遊びにおいで~」との返事。それはありがたいことだがそれでも解決不能のさびしさがある。自分という孤独そのものを突き付けられて。

  山河越えどこでもないところに出る

私たちの年代には最後の大仕事が待っている。


中内火星句集『シュルレアリスム』(2024年/文學の森)

星vs星 大友逸星と中内火星のいんぴん度 広瀬ちえみ【句集を読む】

【句集を読む】
星vs星
大友逸星と中内火星のいんぴん度

広瀬ちえみ
『晴』第8号(2025年2月)より転載

中内火星の俳句集『シュルレアリスム』を読んだとき、川柳同人誌「杜人(とじん)」(戦後すぐ一九四七年創刊、二〇二〇年まで七三年間続いた)に生涯にわたり同人として川柳作品を発表してきた大友逸星(一九二四~二〇一一年)の作品のありように似ていることに衝撃を受けた。二人の作品の根源には同じものが流れていると思った。

大まかに言えば、社会や世界への異議申し立て、権力に対する反骨精神に貫かれている。それとともに自分も含めて人間が為出かすことに憐憫の情をもって俯瞰していることだろう。そしてそれに相反するかのように作品はひねくれている。これが大変な曲者なのである。ひねくれ度が半端じゃない。けれども底辺にはやさしさがあるのだ。いつしか苦笑、あろうことかすがすがしい気分にさえさせられ術中にはまってしまう。

性格はコスモスもらっても捨てる  火星

ほら、こんなにひねくれているのである。でも知っている。秋桜を摘んでラッピングしてあげたら、鼻の下をのばすことを。照れかもしれないが、こんな自己紹介があるだろうか。可愛くない……けど……可愛い……。

時間通りに来る男には水やらぬ  逸星

眼鏡屋が死んで一・五に戻る  逸星

男を、眼鏡屋を見る目は意地悪ばあさんであるが、可笑しさに真実を認識させられる。七三の髪型の涼しい顔で来る男より、汗だくで走って来る男の方が絶対に可愛い。

大友逸星を語る「いんぴん論」がある。仙台に住む俳人が「大友逸星はいんぴんだ!」と述べた、その「いんぴん」とは仙台弁でむんつん(ひねくれている)ということだ。

単に気難しく臍曲がりという意味でもなく「いんぴん」の微妙さを正確に説明できないのがもどかしいけれど、この仙台弁の「いんぴん」は逸星にいちばんふさわしい言葉だ。逸星の「いんぴん」は人間観察によってそれが人間愛となって表現されている。鳥の目で見ており汚いところをすべて受け入れているようなやさしい眼差しがある。

五百羅漢数えて五百一になる  逸星

四百九十九体までが羅漢像  火星

この二句を発見したとき、ここまで同じか! と思った。いんぴん度で言えば火星句の方が座布団一枚プラスだろうか。逸星句はこっそり五百の中に紛れ込む。どうせ五百も五百一も誰にもわかりゃあしない。ところが火星句の方は五百のうちの一つをどこかにほかし知らん振りで並ぶのだ。何ということをするのか! どちらにせよ、目のいい人は生臭い奴が一人いるぞと気づくはずだ。

火事ですね四、五人風を集めましょう  逸星

薫風を飛ばしてしまうほどの風  火星

こんな無茶苦茶な句はあるだろうか。ロサンゼルスの山火事を見るがいい。風薫るこのひとときをよくも台無しにしてくれたわね。だけど面白いと思ってしまうのは痛烈なひねくれには確固たる観察眼があるからだ。ちょっとした火種が大事になることが今世界中で起きている。戦争の火種はいつでもちろちろしている。トランプの演説を聞いただろうか。憲法まで変えられると思っている大統領だ。SNSの誹謗中傷はとどまる所知らず。そこに四、五人集まればすぐに炎上、死人まで出てしまう。風にはブーフーウーのウーのように強く賢くならなければならない。

大久保で口説いていた頃の春の月  火星

人に見られぬよう蛞蝓さわる  火星

手袋をしたまま触っていいか訊く  火星

うっかりと握り返してしまったが  逸星

雲さんは女でしたか手を入れて  逸星

踊り子の痒いところが解らない  逸星

人(男や女)の心の機微を男目線で詠んだこれらに少しうらやましくなる。私には決して詠めない世界だから(だけどこういうことは昔あった笑)。男って得だなと思う(ハラスメントになっていたらごめんなさい)。べたべたしていないけど〝どきどき〟がある物語になっている。〝ほのぼの感〟もある。しみじみと懐かしくなる思い出もある。そしてバカだなと思うところもある。

蛞蝓の句はただ単純に蛞蝓にさわっているのかもしれないが、人の目を気にしているその姿を想像するとやはり怪しい。そしてこの句群に入れると「さわる」はさらに意味深になる。

「雲さん」は私が杜人を編集しているときの作品で「雲さん」のところは実在する名前になっていたので、クレームをつけた。たった一度直させた逸星作品で思い出深い。「雲ではどうだ」「うん良くなったじゃない」。

でもどうなのだろう。こういう句群は俳句では受け入れられるのだろうか。いやもっとすごい単語が並ぶ俳句を見たこともあるしなあ。まあいいか、少しも問題じゃない。

パジャマでは戦えないが逃げられる  火星

軍服の下はパジャマですみません  ちえみ

伸び縮みする軍服を着て歩く  逸星

ずうずうしく私の句も仲間に入れてもらった。逸星の軍服はジャージーだろうか。いずれも戦意まるで無しの情けない句だが、戦意などない方がいい。これら情けない句によって、今、戦車に乗り銃を持つ兵士たちのリアルな姿が逆に思い起こされる。パジャマで眠れる日が彼らにはいつ来るのだろう。北朝鮮人がロシア軍にかりだされているという。他の国の兵士もいるだろう(日本人も?)。世界戦争になりかねないこの現況は深刻だ。
ではもう少し二人の異議申し立てを見ていこう。

と述べるにとどまりました原爆忌  火星

アメリカのパンツを穿いて動けない  逸星

戦争を知らない国に成り果てる  逸星

戦後はいずれ戦前黒揚羽  火星

日記買いにいく戦前はこれから  火星

戦死者に国旗を着せて終わるのか  逸星

国のため床屋に行って来たところ  逸星

私は平和記念式典で述べられる言葉が嫌いだ。子どもたちに誓わせることも。「と述べる」にとどまる言葉は誰の胸にも届かない。昨年、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したが、これで今年の式典はどう変わるだろう。「アメリカのパンツ」は言い得ているなと思う。

「美しい国」を掲げて安倍政権が誕生したとき、戦争経験者の伯母は、「戦前は今のようだったわよ」と言ったことがある。スローガンの言葉に国民が向かわせられることを言ったのだろう。戦後はいつも戦前であることを感じさせられる昨今、「黒揚羽」という季語が心情にぴたりと嵌まっていると私は感じたが、イメージがつきすぎという意見もあると考えられる。火星の季語の扱い方の多くは、フツーの俳句から逸脱して使われているように思え、このように姿正しく着地している作品は少ないというのが私の感想だ。

髪の毛が薄くなったせいか、息子が短く刈り坊主頭に近い姿で来たとき思わず「何だか出征するような感じだね」と言ってしまった。彼には母の気持ちが解るだろうか。バンザイで送り出した母たちがいたこと、その気持ちを……。

股間から憲法九条そそり立つ  逸星

「憲法九条」をこのように端的に表す句を私は見たことがない。この九条に守られて戦後八十年があるのだ。「戦争はしません、ただあなたを愛したいのです」という。九条は愛だと知らされる。見よ! この愛を!(汗・笑)

鰻食う役所に何も届けない  火星

議事堂じゃない食堂に用がある  逸星

鳥の巣やぎょうせいしえんなどない  火星

鰻を食べることぐらい役所に届ける必要なし。議事堂の食堂はおいしんだよ。何か国会もめてるぞ。「楽しい日本」だって。僕には関係なし。でも食べるのは楽しいぞ。

先日、十四年使ったエコキュートを取り替えた。「ぎょうせいしえん」があったのだ! ある日チラシでエコキュートを取り替える人に補助金が出るということを知った。エコを広めるためらしい。あとで銀行に補助金十万円が振り込まれた。補助金をもらっておきながら何だか腹が立ってきた。こんなふうに国の金をばらまき、「だから原発が必要だ」というところにもっていきたいのか。陰謀では? 使わなければならないところにこそ使うべきだと思った。

僕死んでみんな鼾をかいている  逸星

誰かが死んだそして蚯蚓が鳴いた  火星

私が死んでも残された者は鼾をかいているし、誰も泣かず鳴くはずのない蚯蚓が鳴いている。世の中や他者はこういうものだと多少の皮肉があるが、それでいいのだ、みんな元気でいろよというメッセージがある。私も拍手で見送ってほしいと思うが、そういう生き方をしているかと問われれば自信がない。明日からいや今日から心を変えて一所懸命生きようと思う。その日は必ず来るのだから。

人生の主要なところが痒い  火星

おめおめと帰ってきて冷蔵庫を開ける  火星

海を見ていた帰り道はもうない  火星

山河越えどこでもないところに出る  火星

火星が俳句だというから俳句だ。ごちゃごちゃ言うのをやめよう。人生の節目にあった痒い出来事は恥とも言えるだろう。負け戦をしてきてのこのこ帰るしかない日々の繰り返し。ドラマでも必ず冷蔵庫を開ける。ビールの缶をプシュッとすれば明日は来る。明日は来るけど、明日行く道を戻ることはない。靄っている前があるだけだ。変なことをいっぱい書いているけれど火星作品の本質はこの諦念にあるのかもしれない。

パンデミック見て神は言う「のどかじゃのう」  火星

目に余る事を神様してくれる  逸星

階段を落ちる神さま痛いじゃないの  ちえみ

失った四年間と言われるコロナ禍。特に子どもたちは経験しなければならないことを経験せずに大きくなった。会社に行かなくても、人と対面で話さなくても画面と画面で仕事が出来ることがわかった。でも神様、それでほんとうにいいのですか? 神はいないと思うような出来事に何度も遭遇した。そのたび自分を見失わないで生きようと思った。背中の骨折はほんとうに痛かったわ、神さま。逸星は二〇一一・三・一一 東日本大震災の揺れを病院でしっかり体験して四月十六日に逝った。

少年とひとつ違いのかぶと虫  逸星

蟬と少年の続柄を問うている  火星

幼子に向ける愛と憐憫の視線にやさしさがある作品だ。何の技巧もないように見えるが「ひとつ違い」「続柄」の言葉の見つけが効いている。世代が違うのに、この二人はなぜ句に流れているものが似ているのだろう。

虫の言葉がわかる少年という時期はほんとに短い。虫と少年は兄弟なのだ。虫は弟だろうか。

と、やさしさに油断していると、

人間でなければいいが夜の鋸  逸星

蠅はとても元気で裏山にある秘密  火星

何と恐ろしい句だろう。蠅が群がっているところに埋められている(あるいは転がされている)ものとは? サイコスリラー映画を観ているような気味悪さだが、現実でもある。二人の句にはいつも現実の出来事が貼り付いている。

紅葉がいよいよ危険になります  火星

病名は枝垂桜だった  火星

富士山頂で爪切り借りて爪を切る  火星

「紅葉」と「枝垂桜」はその言葉だけを考えるなら季語である。しかし、この二句は季語ではあるが、火星はそれに別の働きを加えているように思えてならない。歳時記にある美しい紅葉は日ごと色濃くなりやがて危険を感じるという。常日頃火星は、温暖化など地球環境に問題意識を持っている。そんなことが加味されているのではなかろうか。全山紅葉は今にも爆発しそう、みなさんご注意あそばせ。「きれいね」とみていると今に……。

「病名」が「枝垂桜」とはいったいどういうことか。「しだれる」桜の様を読み手に別の意味で読むよう誘導している。何かが垂れる病気とは何だろうと考えてみるといろいろ想像できる。年齢的に内臓や泌尿器、鼻水、腰、首等々。しかし、そんなことを具体的に言ってしまったらつまらない句になるところを「枝垂桜」にそれらすべての代表にさせて非常に面白い句になっている。七七ではないが十四音でまとめているところがまた技巧的だ。

富士山という大きな景に爪を切るという日常の些末な行為を組み合わせることで可笑しさが生まれた。山は何が起きるか分からないので爪切りを持っている人もいるだろう。伸びていた爪が何かの拍子に割れることも。手ではなく足の爪かもしれない。「ああ俺、爪切りあるよ」「貸してよ」。達成感を満喫せずに何やら爪を切っている変な人がいる。それを見て笑いながら、そんなことを富士山でする⁈ って少しでも思わせたら作者の勝ちである。私は負けた。

では、逸星の作品を読みながらまとめに進もう。

どんぶりが嫌と言わないから入れる  逸星

バス停をずらす誰も居ないので  逸星

猫たちは犬が笑ったのでわらう  逸星

どこにも難しい言葉はないのにどうしてこんな可笑しいことを書けるのだろう。ノーと言えない私たち。どっしりと立っているバス停(別の物でも)に対してふと湧く出来心。面白くもないのに同調せざるを得ない場面。人の心の動きへの観察眼が鋭く、逸星の前に立つのが怖くなる。

しばらくはあなたの季語を考える  逸星

逸星は極力、季語になる言葉を使わなかった。もし、あったとしてもそれは季節を重視していない。「俳句になるのが嫌だから季語は使わない」と逸星はきっぱり言った。

渡り遅れる 凄まじい二羽  逸星

「鳥渡る」や「渡り鳥」を使ったら俳句になる。それを堪えた一句ではないだろうか。確かに季節は秋だと誰しも思うだろうが、逸星の書きたかったことは、あわてふためく形相の「凄まじい二羽」なのだ。

逸星は俳句にならないよう言葉を選んだ。かたや火星はあらゆる文芸の技法を駆使して俳句たらんとしている。

二人の句集を読み合わせることは楽しい時間だった。

戦争と地震のどちらかに○を  逸星



大友逸星(おおとも・いっせい)1924-2011
合同句集『杜』(川柳杜人社1978年)、句集『なまけもののうた』(私家版1990年)、句集『寝待ちの月』(私家版1993年)、共著『新世紀の現代川柳20人集』(北宋社2001年)。
〔参考文献〕
『川柳人生60年 大友逸星 高田寄生木 記念句集』川柳触光舎・野沢省悟編/2009年)『大友逸星遺句集 逸』(川柳杜人社・広瀬ちえみ編/2012年)

中内火星(なかうち・かせい)1949-
句集『シュルレアリスム』(文學の森/2024年)。東京都区現代俳句協会副会長、現代俳句オープンカレッジ講師、『瓏玲』編集長、「つどい句会」「新業平句会」「垂人」「豆の木」「ロマネコンティ」「What’s」「ぶらり句会」参加。



ホンジツモテイネンヲシキネムルナリ 中内火星句集『シュルレアリスム』評 広瀬ちえみ【句集を読む】

【句集を読む】
ホンジツモテイネンヲシキネムルナリ
中内火星句集『シュルレアリスム』評

広瀬ちえみ
『豆の木』第29号(2025年6月)より転載

中内火星句集『シュルレアリスム』について鑑賞文を書くのは三度目である。一つの句集に三回も書くということは初めてだ。こんなことはよそでもあることだろうか。

一回目は『垂人46』(中西ひろ美・広瀬ちえみ編集発行)に「火星と現代俳句」のタイトルで普通に句集を読み、火星が自作を俳句ではなく現代俳句と強調していることに視点をおいて読んだつもりだ。

二回目は『晴』vol.8(樋口由紀子編集発行)に「星vs星 大友逸星と中内火星のいんぴん度」と題して川柳人の大友逸星と中内火星の発想の根源にあるものが似ているという私の印象批評をたどった。

「いんぴん」とは仙台弁で「へそ曲がり」「ひねくれ」のことだが、その微妙なニュアンスを伝えるのが難しく、「いんぴん」としか言いようがない。ふたりとも似たようにひねくれている。「ひねくれ」は「穿ち」と言ってもいいのかもしれないが私は「穿ち」ということばを使いたくなかった。

火星は鳥の目で人間を見ており、人間の為出かすことを憐憫の情を持って空から覗く。その表現には俳句だけではなくあらゆる文芸の技法を使っている。

句集を読み三回も書くことで辿り着いた私の感想は、火星のひねくれを支えているのはやさしさであり、そして諦念であるということだ。この稿はそのことについて書こうと思う。

性格はコスモスもらっても捨てる

素直になれぬアスパラガスを見ている

自分のことか他者のことか定かではないが、このようにひねくれていることをちゃんと認めて挨拶しているところがおかしい。まるで三歳児のようなごね方である。許しがたいひねくれではなく許してしまうひねくれである。

メールで時折、作品の評をすると驚くことに「そうやってボクは広瀬ちえみに作られる」という返事がきたことがある。私はその言葉にほんとうに驚愕してしまった。普通「へえ、そんなふうに読んだのだね。ありがとう」だろう。ところが「作られる」である。まるで作られることを嫌っているようではないか。私はそのことにおどおどしてしまった。でもひねくれているからなあと反対のことを考えた。

「瓏玲22号」に、第六十一回現代俳句全国大会で秀逸賞・久保純夫特選

つくられたわたしをセーターごと脱ぐ

が載っている。

作品を鑑賞するということはある意味、一つの「中内火星像」を作ることである。しかし作者像は一つでは片をつけられないものであり、複雑怪奇で、それがおもしろさにつながっている。そしてなお深いところに読者の手の届かないものを持っており、知られてたまるか、とほくそ笑んでいるような気がする。句集とはそういうものではないだろうか。

全共斗で損したがやさしくなれた

と述べるにとどまりました原爆忌

叶わぬことのコップ一杯の水

戦後はいずれ戦前黒揚羽

日記買いにいく戦前はこれから

パジャマでは戦えないが逃げられる

鳥の巣やぎょうせいしえんなどない

全共斗世代(火星は斗を使っている)の火星はゲバ棒を持ち、石を投げたのだろうか。私は怖くて入れなかったけれど、それはそれで出来なかったという挫折感がある。それぞれの大学への異議申し立てを発端に、熱いマグマになりセクト間の争いもあった。やがては高校にまで波及していく。バリケードを築き授業もなくあれは何だったのだろうと今でもときどき思い出す。自己表現の一つだったと言ったら怒られるだろうか。なぜなら卒業するとみな企業へ就職していき、挫折感と折合いをつけ企業戦士になっていったのだから。そしてなかにはうまく立ち回れず損をした人もいる。この世代の人々にとって全共斗と書かれたヘルメットは挫折を味わった青春のシンボリックな意味をもっているのではなかろうか。

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻もあり、火星は日本(世界)の今は戦前だという。いつ戦争に巻き込まれるか分からない世界情勢を憂えている。

『晴』には(私は平和記念式典で述べられる言葉が嫌いだ。子どもたちに誓わせることも。世界唯一戦争被爆国でありながら「と述べる」にとどまる言葉は誰の胸にも届かない。昨年、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したが、これで今年の式典はどう変わるだろう。)と書いた。アメリカの核の傘から出られない日本である。

黒揚羽は不吉な未来を感じさせ、新しい日記にも火星の憂いが書かれるだろう。戦争に行く年齢ではないし、戦闘態勢になればせいぜいパジャマ姿で逃げるしかない。今のウクライナやガザの人々はそういう状況に置かれているが、手を差し伸べる術を持たない。たぶんウクライナやガザでも鳥たちはそれでも営々と巣作りをし雛を育てているだろう。何の支援も受けず鳥は賢く生きている。鳥の姿を借りて火星は人間の愚かさを痛烈に批判するのではなくあくまでも飄々と言う。かと思うと次のような句が軽く書かれている。

大久保で口説いていた頃の春の月

人に見られぬよう蛞蝓さわる

手袋をしたまま触っていいか訊く

私は、学生運動と恋愛は連動していたと思う。これは私のストリーによって作られる世界であり、火星がそうだったということではない。見ている方向が同じということに若者が燃えた時代、友人たちのいくつもの恋愛を見た。実った人もいれば実らなかった人もいる。誤解を恐れずに言えば現代の若者の恋愛とは確実に違っていたように思える。このような鑑賞こそ「作られる」ということだろう。だから大久保での出来事も、蛞蝓も全く別物で詠まれたものかもしれない。ただ、恥ずかしそうな済まなさそうな情けない姿がおかしく、私はそこに青春を感じたのだ。

祭から黄泉まで立ちっぱなしなんだよ

月曜が休みの人の飼う金魚

丸つけた人から順に桃食べる

着ぶくれて如何様師という経歴

ちょっと距離感おこうぜみたいな冬の犬

私は川柳人なので、季語について述べる見識は全くもって有していない。けれども俳人との交流によって少しは読めるようになってきたと思う。川柳人はそれが季語だとは知らずに言葉として使っていることが多い。だから意識せずに季重なりになったり、たとえばあるはずのない「冬陽炎」などに詩を感じて使ったりする。だからこれは季語かな? と思ったら辞書をひくようになった。

ここに季語のある火星句を並べてみる。そうすると季語の世界を優先するのではなく、その前後の言葉が火星のおかしく哀切な物語の世界を作っているように思える。

「立ちっぱなしなんだよ」という話し口調。「月曜が休みの人」、「丸つけた人」、「如何様師」の特別に選ばれた感のある人の動作。「距離感おこうぜ」の現代語感覚。読み手はそちらの方に意識を持っていかれるのである。

祭が楽しくてならなかった子どもの頃からずっと立ちっぱなし。なんとご愁傷様な句だろう。私たちはやはり最後にはご愁傷様と言われるために生きているのだと、切なくなる。図書館や美術館等の仕事をしている人が飼う金魚。普通は土日が家族団らんの日だろうが月曜日という見つけが効いている。金魚という季語ではなく犬猫なども考えられるが、べったり感があり、つれない金魚とのつかず離れずの距離感がいい。距離感でいえばやはり冬の犬である。あちらのうらぶれた犬に重ねてしまうこちらの犬。できるなら見なかったことにしたい。昔の如何様師は今や歳をとり着ぶくれており、背中の丸くなった姿を自嘲する。桃を食べられる順番は今もまだ回ってこない。それでも並んでいる。

このように哀切極まりない火星物語を無理なく読める。ところが、次の三句はどうだろう。

薫風を飛ばしてしまうほどの風

紅葉がいよいよ危険になります

病名は枝垂桜だった

季語を大切にしない俳人はいないだろうし、もちろん俳人・火星にとっても季語は宝物のはずだ。

優雅な季語を優雅には使わないこともあるのだよという火星の意思をここに見た気がする。初夏のおだやかな「薫風」を蹴飛ばすプロレスのヒール役のような風が主役にしている。日に日に色濃くなっていく紅葉は危険物扱いで爆発寸前。やがて全山紅葉の上にドカーンと破裂音が劇画タッチで描かれるだろう。また、桜というこの上もない季語を病名にしてしまう。その病気とは体から何かが垂れる病であろうか。俳句界ではどのように受け取られるのか知らないが、大いに笑わせてもらった。

人生の主要なところが痒い

軍手するのは戦っているつもり

誰かが死んだそして蚯蚓が鳴いた

おめおめと帰ってきて冷蔵庫を開ける

海を見ていた帰り道はもうない

山河越えどこでもないところに出る

パンデミック見て神は言う「のどかじゃのう」

富士山頂で爪切り借りて爪を切る

どこでもないところ(たぶん黄泉の国)に出るまでの、来し方をふり返れば、ずいぶんとおかしなことを為出かして来たものだという感慨。誰かに何かに勝ったことなどなく(ときどきは入賞するらしい)、おめおめと帰るしかない自分の人生を達観する。富士山で爪を切るという変な出来事にも遭遇し、驚くことに爪切りを貸してくれる人にも出会った。これを僥倖というのではなかろうか。あとは靄っている前があるのみだ。どれくらい残っているかはおまかせするしかない。

さきに、火星のひねくれを支えているのはやさしさと諦念だと述べた。いまここに選んだ作品はすべて諦念であると言っても過言ではない。

火星の本質は諦念にあり、だからこそ好き勝手にできるのだ。誰のためにでもない俳句だから、大口も軽口もたたく。書きたいことを自由に書いているそれを批判する人がいたら、たぶん火星は「そうやってボクを作らないでよ」と言うだろう。

西原天気【句集を読む】正気と邪気のアマルガム・正統と異端のキメラ 上野葉月『enjoy』を読む

【句集を読む】
正気と邪気のアマルガム・正統と異端のキメラ
上野葉月『enjoy』を読む

西原天気


冒頭は、この句。

オリーヴを息子の妻となる人へ 上野葉月

なんて素敵なオトナだろう。

ページをめくりはじめてまずこの句を目にした人は、穏健で円満な壮年の作者を想像するだろう。人生の節目や日常の風景を過不足なくきらめかせてくれるような句が並ぶと期待を大きくするかもしれない。

だが、それは、ちがう。

いや、もちろん、作者は素敵なのですよ。この句集に立ち現れる作者は(リアルの作者の話はしない。句集レビューの場なので)、素敵なのです。穏健で円満かどうかは知らないけれど、素敵なのです(三回言った)。でも、みなさんが思うような素敵さとは、ちがう。

ここで、すこしの迂遠を許してください。作者・上野葉月氏がリアルな俳句世間の交流の場で(ここはリアルの話です)「保守系無所属」を自称するのを、筆者はいくたびか目に耳にしている。ながらく『豆の木』同人である作者を「無所属」と呼んでいいのかどうか。ま、それはさておき、「保守系」? 「保守系」とは?

政治的脈絡ではないのだろうし、一方、「伝統」という俳句の世界においてある種パテント化した範疇(ホトトギス系)への帰属を宣言して彼らを刺激するつもりもないのだと思う。きっと、ファッション用語としての「コンサバ」くらいのふわっとした用法なのだろう。

「保守系無所属」という肩書/キャッチフレーズを忖度すれば、つまり、俳句の歴史的堆積・レガシーを尊重した作句手法に則って、いわゆる「俳句らしい俳句」をつくる、それでいて大結社に所属してコツコツやってるわけじゃないですよ、ということだろう。それはしかし、俳句世間の巨大マジョリティのひとりだと言っているに過ぎないのだが、それもまあいい。問題は、あとで見るように、言ってることは本当なのだろうか、ということだ。

ところで、多数派とは、しばしば無辜の民、善良なる民衆といった概念と関連する。俳句業界において、無辜とは、善良とは、例えば季節の移ろいを定型に書きとめ、日常の些事をこのましくかいつまむ、のに悪い人はいない、といった思いに包まれながら平穏な詩的世界を生きる住人である。一般市民と乱暴に短く言ってしまってもいい(いいのか?)。

「保守系」を自称するこの人・上野葉月は、自分が一般市民であると言いたいのか?(あくまで作品の話です。人としての話じゃないです。ときどき作品に引き戻さねばならない。めんどくせえなあ)

もう結論を言っちゃおう。

この句集、「保守系」とは程遠いのだ。

随所にヘンで(いい意味です)、随所にふざけていて(いい意味です)、随所に異常だ(いい意味です)。

例えば、集中、この作者は、四度にもわたって、葱を振っている/振らせている。

秋深し追憶の葱振りにけり 上野葉月(以下同)

葱刻む前に戸口で葱を振る

木の下でセーラー服が葱を振る

新年の後ろ姿へ葱を振る

もちろんを葱を振って悪いことはない。その姿を想像すると、なにかこう、懐かしい、昔の日本映画の一シーンを思い出す……わけがなかろう。異常行動でしょ、これは。

もちろん、いわゆるフツーの句も、あるにはある。

春浅し交番にきく登山口

などは、じゅうぶんに感じがよく、公民館などでやっている善男善女の句会に出てくるような句だ。フツーの句集にも、きちんと行儀よく収まるだろう。

だが、こうした穏当な句は、句群として目立つわけではない。かき消されて見えないほどに、ヘンな句、穏やかではない句だらけなのだ。

例えば、このような怪異な句。

烏山肛門科クリニックああ俳句のやうだ

叙述対象を俳句に定めて「メタ俳句」的と言えなくもないが、それだからいいとわけではない。

固有名詞とか肛門とかカタカナ語とか。ほんと、なんなんだよ、これ。怒り出す俳人がいっぱいいると思うよ、葉月さん。一生かけて俳句に取り組もうという若者には絶対見せられない(私はきらいじゃないけど、この句)。

ところで、この句、元ネタが《蟻が蝶の羽をひいて行くああヨットのやうだ 三好達治》であることを、作者自身が「あとがき」でを明示しているから、そっちのほうに話を進めることにしますと。

「先行句」へのオマージュとして、次の3句が併せて挙げられている。《パトカーをぐるぐる巻きにして素敵 上野葉月》←《マフラーをぐるぐる巻きにして無敵 近恵》、《新妻を並べておけばわかるなり 上野葉月》←《人参を並べておけばわかるなり 鴇田智哉》、《一月の女医一月の風邪の中 上野葉月》←《一月の川一月の谷の中 飯田龍太》。

パロディ化されるたびに、その句は名句の地位を確固たるものにしていくという側面はたしかにある。龍太句《一月の~》はすでに多くのパロディが生産されているはず。

智哉句《人参を~》は、「四音を並べておけばわかるなり」と言いたくなるほど、無限に置換/パロディが可能だ。候補は無数にある。そんななか、この作者は《新妻》を選んだ。リビドーと直結せざるを得ない語を選んだ。《女医》もそうだが、「保守系」俳人がやることではないですよ。私は怒らないけど、伝統俳句自警団や文芸倫理協会の人には、確実に叱られる。

こう書いていて、穏当で善良な俳人諸氏に白い目で見られるという悲惨を味わうのは、作者だけでなく、私も、かもしれない、と気づいた。巻き添えを喰うのもイヤなので、「先行句→パロディ化は、語/モチーフの置換/代入によって、参照元の叙情/理知/措辞の妥当性をたやすく破壊することができる、というシンプルな俳句的事実を示したのが、これらの葉月句である」と指摘するにとどめたい。

と、ここで終わってもいいのだが、こうした怪物的に奇妙な句作、この作者にとって、昨日今日のことではない。年季が入っている。それを指摘おきたい。

『週刊俳句』第296号(2012年12月23日)に掲載されたこの10句作品。


酢漿草の葉が苦いぜよボブ》は句集『enjoy』においては《求人の誤植が寒いぜよボブ》に、《殲滅の凍土おつかさん部隊》は《極月のポスターおつかさん部隊》に換えられてはいるものの、《ボブ》やら《おつかさん部隊》という奇妙なモチーフは、すでに充分な時間の経過を生き延びて、作者の中にひつこく存在しているらしい。ついでにいえば《女医》も歴史が長そうだ。

(これらは一種マクガフィンといえるかもしれない。脈絡とは別に気になってしかたがない。作者は、これらに嗜好としてのこだわりがありそうだが、別物への代替は可能だ。)

だが、私が注目するのは、こうしたヘンな事物を前面に押し出した、一見してヘンな句よりもむしろ、「保守系」を名乗るに充分な、とてもりっぱな句のほうだ。

瀧蒼く氷爪の鷹放ちけり 上野葉月「オペレーション」

かっこいい。

《氷爪(ひょうそう》の語が文字どおり鋭利にこの句を屹立させて、すごくいい。と思う。だが、今回の句集『enjoy』からは洩れた。

おそらくだが、作者は、「保守系」の名に恥じぬ手堅い句群と、そして、そんことはぜんぜんない(すなわちおおいに恥ずべき)奇妙で怪物的、あるいは善良とは程遠く邪悪な句群を同居させたいのではなかろうか。一般市民を装いながら、奇行(いい意味です)を繰り返す。ちょっとした悪戯なのかもしれない。それが「オペレーション」10句と句集『enjoy』に共通する素振りだ。

でもね、ぜんぜん装えていないのだ。(俳句的)変態性を隠せていない。言い換えれば、保守系と破壊系は同居するものの、圧倒的に後者が目につく。

ただし、そのような、正気と邪気のアマルガム、正統と異端のキメラ、本流と外道の併走、本道と外連の混淆、規範と逸脱の往還的ダイナミズムといった二項対立は、読者にとってそれほど重要ではない。批評のための腑分けであり、なんちゃって分析に過ぎない。

私は(悪い癖だとつくづく思うが)ヘンテコリンな俳句が好きです。どこかが壊れてしまったような句が大好物です(もちろん、そうじゃない、ちゃんとした句も好き)。

作者本人がどういうつもりで句をつくっているのかわからないが、手を替え品を替え、ヘンなことをしてくれるのは大歓迎だ。そのなかから、たまに「怪物的」と称賛しうるような句が出現するだろう。これからも、そこをエンジョイさせてもらう。

もうこのへんでいいだろう。さっきも言ったが、私までヘンな人と思われちゃいそうだ。

作者は、これらも御健吟を。じゃなかった、もっともっと不健全に、俳句に関わり続けてください。

俳句愛好家諸氏は、どうぞ、怖いもの見たさでもなんでもいいから、電子書籍のみでの頒布、500円と安価なこの句集、ちょっと覗いてみることをオススメします。きっと読者それぞれに、すばらしく奇妙な句が見つかります(と、ここは断崖を飛び降りるつもりで断言しておこう)。

本当の葉月はあなたの心に 上野葉月

怖いよ、葉月さん。

サイコホラーか。


2026-06-07

【句集を読む】舟への憧れ 山岸由佳『丈夫な紙』評 福田若之

【句集を読む】

舟への憧れ
山岸由佳丈夫な紙』評

福田若之

『豆の木』第27号(2023年6月)より転載


『丈夫な紙』という書名は、見たところ、なんとなく無骨な感じがする。その感じは、たとえば、本書のなかに収められた八つの章の表題――「スピーカー」、「見えない硝子」、「ボクシングジム」、「歩行者天国」、「幻の羽子板」、「一輪草の夜」、「十一月の木」、「鳩のゆめ」そして「手から手へ」――と比べてみても、明らかだろう。さて、この書名が無骨に感じられるのはどうしてか。それは、おそらく、丈夫な紙という言葉が、多くの場合、何かの素材として紙を扱うひとのものだということによる。この言葉は、次のとおり句に書きこまれている。

 黄のカンナ丈夫な紙を探してゐる

何かのために、丈夫な紙が探しもとめられている。要するに、この書名は本来何かの素材を指し示すはずのもので、ただし、その素材が何をかたちづくるかについては、さしあたり読み手には知るよしもない。だから、この書名は読み手に無骨な印象を与えるとともに、何のための紙なのか、何のために丈夫でなければならないのか、という問いをもたらす。句集などというのは、どんな句を載せようと、畢竟、丈夫な紙の束にすぎない、というイロニーだろうか。しかし、集められたくさぐさの句は、そうした皮肉な自己言及の文脈を帯びてはいない。

問いは宙づりのまま、しだいに、ひとつの象徴的なイメージが、くりかえしのうちに際立ちはじめる。水だ。

まず、季題としての水を書いた句がある。

 草に風ロープ張られてゐる泉
 春水の揺れゐし奥の歯にちから
 水温む誰も死なない陽だまりの
 噴水をはなれぬ人の長き髪

読み手は、これらの句に、それぞれの季の水の表情を思い描くだろう。とくに表情がはっきりしているのは、三句目にあげた水温むの句だと思う。誰も死なない陽だまりという言葉に、目のくらむようなまばゆさとあたたかさを感じる。そのまばゆさ、そのあたたかさが、ふっと死ということを呼びおこす。誰も死なないという言葉は、死を思うときにしか湧いてこない。

つぎに、季題とは別に水を書いた句がある。

 満月の浅瀬は砂を吐きつづけ
 炎天の水を跨ぎて人に会ふ
 水音の氷を渡り城の跡
 躑躅ほろほろ命日の階段にみづ
 雉鳴いて腐りたる水地に馴染む
 藻の花のひらいて水の忘れゆく

これらの句は、水そのものを指し示す言葉が、はっきりと書かれている。取りあわせによって、水がそれぞれの表情を浮かびあがらせている。

さらにまた、水そのものが名指されなくとも、書かれた景のうちに、水のあることが感じられる句もある。

 排水溝ひゆうと告げたる檸檬かな
 雪の果肥りつづける魚の棲み
 ひかる雲あり蟷螂の濡れてをり
 さくらんぼ洗ふ時計のあかるさを

これらの句において、水は、排水溝を鳴らしたり、魚が息づいたり、かまきりを濡らしたり、さくらんぼの実をきれいにしたりすることで、その存在を示している。

この句集にみられる水の表情は、このとおりさまざまだ。けれども、読みかえすにつれて、とりわけひとつの表情が、くりかえし書かれていることに気づかされる。

 こゑ消えてプールに映る誰かの家
 足元のみづの揺らいでリラの花
 水底を覗き青葉に囲まるる
 とんぼうの水面に鳥居さざなみの
 雪やみし水面に映る赤ん坊
 潦の木々雉よあらはれよ

映すとはっきり書いてある場合も、そうでない場合もあるけれども、水は、くりかえし、そのつど異なる何かを映してみせる。平らでない、たったひとしずくの水さえもが、外界を映しだす――《一滴の水に映つてゐる九月》。とりわけ目を惹いたのは《朝焼のもうすぐ終はる水たまり》という句だ。空の刻一刻の色合いの移りかわりが水に映りこむさまを、この句は情感をこめて指し示す。

水の表面への関心は、水のうえに現れるさまざまのものへの関心とも結びつくだろう。

 あたたかに鳥の流るる夜の川
 鴨流れ笛の音流れ遅き日を
 水のうへのこゑすれちがふ桜かな

この句集の主体にとって、水面という場は、ものがただ浮かぶところではない。水面にあるものはたえず移ろっていく。くりかえしのうちにさえ、そのつど生まれなおすものがある――《繰り返し繰りかへし海月となりぬ》。そして、この移ろいは、もちろん、水そのものが流れ、湧き、動いていくということに由来する。

 雪原の真下をとほる水の音
 タンバリン鳴らす造り滝の前
 石を生む体の睡り泉湧く
 湧水の小石の力花菖蒲
 犬抱いて降りゆく春の川音へ
 つばくらめ川を下つてゆけば夜
 金色の川越ゆ受験生の頰

雪原の句が示すとおり、流れは潜伏することもある。だから、《ストローを上る果肉や成人の日》という句なども、やはり水にのって流れるものを描いた句と捉えることができる。海月の句から思われるとおり、この流れは、去るばかりではなく、巡るものだ。雨や雪が、この水の流転のうちに組みこまれている。ほんとうに、ほんとうにくりかえし、水が降りそそぐ。ときには、雨はじかに見えていないかもしれない――《地上は雨誰彼のこゑ秋灯》。地上の音や声によって、見えていない雨を知ることがある。雨は、ほんとうにかすかなこともある――《赤い羽根濡れないほどの雨の降る》。そうかと思えば、ひどく降ることもある――《カンナから土砂降りの橋見えてゐる》。急なこともある――《驟雨来る猫の背骨を撫でながら》。広く降ることもある――《藤の花見下ろす雨のひろびろと》。もちろん、雨を感じるのは外ばかりではない――《秋の蚊と入り来し雨の男かな》。ときには、雨という名で呼ばれないこともある――《蟋蟀のこゑの空より崖に水》。せつなく感じられることがある――《雨音のつたはる手擦星まつり》。懐かしく感じられることがある――《大根を煮てこの町に雨の降る》。甘やかに感じられることがある――《枇杷を剝く男の指の甘え雨》。そして、ぬくもりを感じさせてくれることもある――《しろき根のあらはに雨のあたたかし》。雨はそうして、やがて止む――《蟋蟀の木のまつすぐに雨上がる》。

冬や春には、雪のこともある。さまざまの場所に、さまざまのものに雪は降る。

 デパートを出て宝くじ売場の雪
 鉄橋の向うは母の春の雪
 透明な洗濯ばさみ雪降るなか
 子供服売場こどものゐない雪
 傘越しに階段見ゆる春の雪
 雪柳に雪積もる日や客ひとり

もちろん、積もった雪は、やがては融けて水となって流れはじめるだろう――《雪解けの鴉の瞳深く塗る》。雨として、また雪として、降りようはほんとうにさまざまだけれども、地上に降りそそぐ水が、やがて地を伝わり、泉となり、川となって、流れていく。

姿を変えながら句集をゆく水とともに、水のうえを流れるもの、その象徴として、舟という語が姿をあらわす。

 舟は花つめたい顔の揺れながら

舟として立ちあらわれる花とは、つまり花筏のことだろう。顔は、花びらが流れていく水面に映って、つめたく揺れている。

ところで、花といえば、こんな句もある。

 紙の花飾り雨水の一日暮れ

二十四節季の雨水は、二月の半ば過ぎ、降るものが雪から雨に変わり、地上でも雪解けがはじまるころだ。まさしく水にまつわる季の移ろいのなかに紙の花飾りがある。もちろん、花飾りという言葉が呼びおこす花の姿は桜とは限らない。けれども、水の動きはじめる早春において、紙の花飾りは、まことの春の花を待つ気分とともにある。

一方で紙は花の姿をとることができ、さらにまた、花は舟の姿をとることができる。それなら、紙は舟の材料にもなりうるはずだ。そういえば、丈夫な紙は水に浮く。

もちろん、ただ言葉遊びだけでこうした評を書いているわけではない。舟という語は、この句集に二度、ただし、見立てとしてのみ姿をあらわす。二度目は《毛布かけ尖れる耳の舟となり》で、眠るひとの片耳を、毛布のうえに浮かんだ一艘の舟に見立てる。見立てのくりかえしと実物の不在は、舟を憧れのものとして浮かびあがらせる。この憧れは、海という広がりが、眺める先にありながら踏みこみがたい場として描かれていることにも関わるだろう。

 液晶の眩しき海へ秋の蚊は
 凩に振るポラロイド写真の海
 金網に冬の音あり海のあり

水に耐えうる紙は、望みを文字として載せもする――《欲しきもの書くサイダーに濡れし紙》。紙は言葉を運ぶ舟にもなる。そして、書くことは、象徴的に、水のうえをゆくことへの憧れと結びつけられてもいる――《文字を書く速さ海鵜の飛ぶ迅さ》。このとき、『丈夫な紙』という書名は、句集を即物的に紙の束へと還元するイロニーを超えて、それを舟に見立てるユーモアとして働くことになる。書物=舟は、やはり夢のように、かなた先にその場を占める――《蒲団からとほき本棚とほき川》。

舟への憧れは、届くことへの願いでもある。だから、数枚の硬貨さえもが、手から手へ渡るとき、この句集ではあんなにもうつくしい。

 手から手へ硬貨ながるる蛍の夜

そう、流れていく。


2026-05-31

田中目八 わがままなるままに 有瀬こうこの独断帖

わがままなるままに
有瀬こうこの独断帖

田中目八

『豆の木』第28号(2024年6月)より転載
 

第13回百年俳句賞最優秀賞の受賞、及び句集『磁石』の上梓おめでとうございます。と、挨拶と前置は短いほうがよい、早速読んでゆこうと思う。

1 こうこさんは倦んでいる

囀りや右回転で遊びませう

薬局の白梅を嗅ぎすぐ帰る

雨音と暮らす金魚に飽きるまで

タピオカに飽きて八月十五日

たけなはと言ふ退屈を踊りけり

いつまでも好きと思ふな胡桃割る

一句目。巻頭句である。右回転は時計回り。ごく一般的な回転と言えようか。「遊びませう」と優しく提案しているが、以下の句を見ていけばきっとすぐに飽きるだろうと思うこと間違いなし。

二句目。薬局を出て「お、咲いてる」と気づいて鼻を近づける。が、しばし心を遊ばせる、なんてことはない。

三句目。「雨音と暮らす」なんて素敵なことを言ってはいるが、金魚に飽きるのを待つまでもなくすぐに飽きそうだ。

四句目。タピオカブームに飽きたとも取れるが、おそらくタピオカドリンクを飲み切る前に飽きた。ふと八月十五日、終戦の日だと気づく。気づくが特に興味もなくまた飲んでぼんやりしてそう。

五句目。たけなは(闌)は物事の一番の盛りだが、盛り上がるまでが愉しいわけだ。闌を過ぎたことをみんな感じてるけれど誰も言わず、変わってないように振る舞う。それこそ退屈だということかもしれない。

六句目。この章では一物として読む。殻胡桃という拘り、割ることも儀式めいて愉しそうだが、たぶんすぐに面倒になって剥き胡桃を買うようになる。そもそも健康やダイエットによいとかで食べはじめ、そんな好きでもなかったな、と飽きてしまいそうなのである。

2 こうこさんは否定する

こうこ俳句の特色として否定的、批判的、消極的などネガティヴな措辞の多さがあると思われる。

伊予柑や丸い眼鏡が似合はない

糸屑と言へぬ長さや春の風邪

春昼の万年筆が太すぎる

いつまでも好きと思ふな胡桃割る

鳩の首嫌ひ毛糸のパンツ履く

ねだるならもらったことのない狐火

カトレアはどの星座にも属さない

一句目。伊予柑の丸さと丸い眼鏡が近い。しかし丸い眼鏡が似合わないことで伊予柑をも否定しお前のせいだと責めているようにも思えてくる。

二句目。回りくどい言い方ではあるが、糸屑より短いものをなんと言うのか、言えばよいのか、春の風邪と相まって少し苛立っているように感じる。

三句目。万年筆の太さは変わらないものだが、原稿の捗りそうな春昼故に手に合わない万年筆の太さが気になってくる。お下がりか貰い物だろう。よいものらしいのに何故私の手に合わないのかと不満そうである。

四句目。前章では一物として読んだがここでは取合せで読む。物事、交友、恋愛、としても読めるだろう。自分の好きかもしれないし相手の好きかもしれない。感情なんてそんなもんでしょ、とクールに言っているように思えるがほんとは固い胡桃の殻を割って欲しいのだ。

五句目。鳩そのものではなく首が嫌いだという。しかし「だから鳩は嫌い」なのだろう。首の色が嫌なのか歩くときに前後するのが嫌なのか。生理的なもので想像するだけでも鳥肌が立つのだろうか鳩だけに。

六句目。もらったことのないのは狐火そのものなのか、それとも狐火の中で、ということだろうか。素直に読めば前者、しかし素直ではないのがこうこ俳句だ。ねだるなら狐火、で済むことを「もらったことのない」と回りくどい言い方をしてしまう。しかも狐火という無茶振り。かぐや姫か。

七句目。意外なことに植物で星座になっているものはない(かつてはあったらしい)。カトレアは恒星ではなくて植物なのだから星座に属さないのは当然だ。別にカトレアでなくても薔薇でもなんでも植物なら星座には属していない。つまりここでは属していないのではなくあくまでも属さない、言い換えれば与しないと宣言しているのではないか。何故ならカトレアは花の女王だからである。

3 こうこさんはぶっ飛ばす

最後にこうこ俳句におけるイメージの飛躍を見てゆく。章題にぶっ飛ばすと書いたがこの『磁石』は読者投票によって選ばれているだけあってか比較的におとなしいようには思える。

イオン行く日は佐保姫のオーガンジー

大魔王にさらはれさうな兜虫

宛先を書けば水母の生まれけり

タピオカに飽きて八月十五日

とんぼうのブラック企業めく正面

梟や奇数はさらに怖くなる

遺伝子は半透明の冬林檎

一句目。佐保姫とオーガンジーはあり得るがイオンと佐保姫は出てこないだろう。そもそもイオン行くのにそんなお洒落をすると誰が思うだろう。

二句目。普通(?)大魔王に攫われるのはお姫様のような存在で、兜虫はどちらかといえば勇者のイメージではないだろうか。その納得のゆかなさ、イメージの裏切りにイメージが膨らむわけだ。虫が嫌いだから攫われて欲しいのかも。

三句目。水母に驚く。宛先を書かなければ郵便物、荷物は届かない。例えば懸賞ハガキや賞に応募する原稿だったりをイメージするのがわかりやすい。結果が出るまでは波に身を委ねる水母のようだと。しかしこういう理屈で読むよりも言葉そのままのイメージを味わうほうが愉しい。宛先を書いたのに届きそうにない。

四句目。一章でも取り上げたが取合せとして八月十五日、終戦記念日とタピオカはすごい。

五句目。書き方は一物仕立てだが内容はトンボの正面とブラック企業の取合せと言ってもよいだろう。切字を用いないこと、力業の「めく」の働きによって心地よい混乱を感じないか。

六句目。梟と怖いは近いが、怖いのが奇数というよくわからなさ、そこに「さらに」の主観、「怖くなる」の言い切りを重ねることによって意味の伝達ではないイメージの形成への発展がある。下五から上五に循環してさらに怖くなるさらに怖くなるさらにさらに…と何処かへ連れてゆかれる。

七句目。蜜林檎だろうか。イメージとしては遺伝子そのものより細胞核が近いかもしれないが、すべての遺伝子が半透明の冬林檎に置き換わってる景をイメージしたい。禁断の果実を連想してイヴの遺伝子、原罪の遺伝子と読むのもありだがトリビアルに読むよりもイメージに身を重ねたい。

以上、拙いながらも私なりに好き勝手に書かせてもらった。ご指摘、批判大いに請うところであるが、少しでもこうこ俳句の魅力が伝わったのなら嬉しい。

最後に作者へ。この句集はほんの小さな半歩に過ぎず、ここからだろうと思う。私は満足しない。独断を飼い馴らさず、わがままに乗りこなし、口語俳句という荒地の生態系をこそ遊べと願い筆を擱く。

2026-04-05

西原天気【句集を読む】この世の不思議をのほほんと 西生ゆかり『パブリック』

【句集を読む】
この世の不思議をのほほんと
西生ゆかりパブリック

西原天気


のびのびと、ときにのほほんと、ときに臆面もなくしゃあしゃあと、ときに少しくアイロニー、ときにこの世の不思議を醸す。これで、句集『パブリック』のぜんぶ、ではないし、あくまで読者たる私の趣味嗜好がかいつまんだ要素ではあるけれど、列挙した味わいがこの句集の美徳・魅力の一部であることはまちがいない。

冷やし中華変なところにある柱  西生ゆかり(以下同)

チェーンではない、おそらく場末の、ひょっとしたら居抜きで、それ用に改築・改装する手間と費用を省略して回転した中華屋さん。注文をしてから店内を見渡して気づいた柱。あるいは、常連で通っていつも目にする、目にしすぎて親近感さえ湧いてしまったかもしれない。いずれにせよ、食欲や味覚とは別の方向から迫ってくる、圧倒的な(とあえて言う)存在感の柱は、本来的に未整理な世界(そこに私たちは暮らしている)の確実な一要素。

暮らしていれば、変なもの/変なことに遭遇する。これはいわゆる感動ではないけれど、感慨では、あります。こく深い感慨。

ジャージ着て近所を生きて昭和の日

アイドルは脱いで吾らは着膨れて

ジャージーなり厚着なり、カジュアルに、ラクな恰好、ラクな生き方。

永き日や買はぬベッドに身を広げ

高級家具店/舶来家具店ではなく、ニトリとかイケア(歩き疲れて休みたいという意味では後者が候補として有力)。4月に始まる新生活の準備か、ただ単に買い物の途中か。寝心地を確かめるという大義名分を自分の中に拵えて、寝そべる。この種の弛緩は、俳句の領分。ついでに言えば、「身を広げ」は何気なく巧い。

メロン来るあまり可愛くない箱で

はじめにアイロニーと申し上げたのは、このあたりの句。

とまあ、いろいろと、こちらとしても肩肘張らずリラックスして愉しめる、同時に俳句というジャンルのいちばん美味しいところを伝えてくれる句がたくさん。

これ一本吸つたら花見でもしよう

ああ、どこまでものびのびと明るく、のほほんと弛緩。この句集のように暮らしていけたらいいな、と思ったことですよ。


なお、《世界はいつもここからひらけており、ここは「私」と呼ばれている》から始まる11行の短い「あとがき」が、とても素敵。


西生ゆかり『パブリック』2025年9月/左右社

2026-03-29

此処は何処?私は誰? 樋󠄀口由紀子『容顔』論 川合大祐

此処は何処?私は誰?
樋󠄀口由紀子『容顔』論

川合大祐


ある文芸、それも一ジャンルについて語るとき、その特殊性をことさらに言い募り、世に対してみずからの〈愛〉のかたちを強調することは、あまり訴求力があることとも思えないし、愛の言葉とは所詮愛なきことの反動でしかないことをわれわれは実人生において知っている。すなわち自閉者の虚勢。

だが自閉者には自閉することによってしか守れない何事かがあるのであり、外部の世界を遮断するというその行為そのものが、ひとつの表現手段として〈それ〉を成り立たせる自我同一性のあらわれに他ならない。

われわれがこれから見てゆく〈それ〉は「川柳」である。

川柳がいかに外部に対してみずからを閉ざしているものか、あるいはそれは〈世間の誤解〉ということへの防衛反応かもしれないが、〈川柳外部へのルサンチマン〉という点についてわれわれはもっと語るべきであろう。外への敵意はいっけん内への充実を呼ぶ。だがその充実は真の意味で内部たり得るか。外部への虚勢は内部の疎かさでもあるのではないか。

そう考えたとき、〈真に内部が充実している〉言説、もしくは作品こそ、外部への架橋としてネットワークのいとぐちをつなげているのではないかと気づく。〈内部の充実〉ということを手がかりに、作品が作品として屹立している=外部への接続をなしている、と言うことができるだろう。

「川柳」を語る上で所謂「サラリーマン川柳」との距離感は批評のひとつのメルクマールとならざるを得ない。「サラ川」において広大な世界に句が投げ入れられる、のではない。あの〈クスリという笑い〉は読者を作者と同質のかたまりに安易な同化をなすことであり、そこに外部というものはない。圧倒的な〈内輪受け〉であり、そこに外部への接続が存在しない以上、内部の充実もまたあろう筈がない。「サラ川」の句がひどく痩せた自画像しか持たないのは(あるいは自画像そのものを持っていないのは)、これを所以とする。

われわれがこれから見ようとするのは、外部への接続を為すがゆえに、内部を充実させてしまった、あるはこの因果は逆に辿って、内部の充実ゆえに外部に接続されたと言ってもよいかもしれないが、外部と内部に徹底的な深化を為した、そんな一連のテクストである。樋󠄀口由紀子の川柳句集『容顔』という。

『容顔』についてわれわれは別のところで書こうとしている。

そこでは、大きく分けて、『容顔』は三つの要素を主たるものにしている、ということをあきらかにすることになるだろう。

要素a:ここではないどこかから/ここではないどこかへ
要素b:肉としての身体/肉としての近親
要素c:暗い部屋/鏡

以下に論じてゆくのは、この要素とは結局どういうことだったのか、そして要素はどのように〈句〉のなかでみずからを発露させているか、という具体例になろう。


要素a:ここではないどこかから/ここではないどこかへ

石段に座れば見える白いバス
(樋口由紀子『容顔』、詩遊社、尚以下句の引用は同書より)

〈ここ〉とは内部であるのか。

その問いに答えるのは少し後にして、『容顔』のなかで〈ここ〉がどのように位置付けられているか、例句の構造から見てゆこう。

「石段に」の句。まずおおまかな構造として、「白いバス」は〈ここ〉にやって来るのか、〈ここ〉を去ってゆくのか、という二通りの読みが可能となる。

可能性としてどのように読めるのか。最初に「石段に座」るという行為がある。この石段に座るというミニマルな行為は、作中主体が営んでいるということの指標であり、逆に作中主体を確定させるしるしでもある。

作中主体は「石段に座」るということをしているものである、という限定がまずなされている。石段に座る、という行動がまず句の起点であり、作中主体の作品との相関関係をあらわす。作品のひろい世界の中で、石段に座ることによって、主体は主体として位置をつけられる。無限定な、渾沌とした世界はここで分節されることになる。「石段に座」るということはある秩序の発生であった。「石段」という秩序を持ったヒエラルキーがガジェットとして選択されていることは偶然ではない。

いや、おそらくは事態は逆なのだ。ヒエラルキーをもたらすために「石段」が選ばれたのではなく、「石段に」と発話された時に、必然的に句の世界秩序ができあがってしまったのだ。これは創作者がどのように創ったか?という正解を出そうというのではない。寧ろ読み手としてのわれわれが〈読む〉ときにどのような句の世界を構成していったか、そのプロセスを可視化することに他ならない。いずれせよ「石段に座れば」によって句ははじまる。「れば」という条件に注意したい。条件を付されるということは、数かぎりない可能世界のなかから、以降の世界が選択されたことを明示されているということになる。
「石段に座れば」を起点として可能性が示され、「見える」というまたしてもひとつの行為が導かれる。

見える。短詩作家は「見る」「見える」という言葉を通常書かない。情景が見えていることは前提であるから、わざわざその前提を説明することはない、これは普遍的な基礎として誰しもが持っている。だが、ここで「見える」と書かれた。これはどうしても必要なものとして意識されていたことの証左である。

「見える」と書かれたことによって浮かび上がるのは〈位置〉だ。見ているものと見られているものの関係、と言い換えてもよい。何かが何かに対して「見える」と言う時、前者から後者に向けてなんらかの力が及ぼされている。この句の場合は、「石段」という位置から「見える」という力関係が対象に向けて発揮されているとしてよい。「見える」ことによる位置エネルギーは、「石段に座れば見える」主体の位置を保証するものとして消費されることになる。

「白いバス」。主体の位置が確定された後にあって、「白いバス」というものがあらわれた格好になる。ここで、主体の位置が確としたものとして特定されているなら、「白いバス」という異物は主体に対して侵入してくるなにものかとしての異物、ということになる。「白いバス」という「白」さの異形性に意を留められたい。

ここまで見てきたことによって、「白いバス」というものは作中主体の「見える」世界に次第に姿を現してくるもの、と捉えることが可能になる。すなわち、「白いバス」は〈ここ〉にやって来るもの、と読むことがまずは妥当だ。
だが重要なことはこの先にある。〈位置〉というものが句を支える背骨であるとして、それならば句にまざまざと存在するのは〈ここ〉の〈ここ性〉のつよさではないのか。

「白いバス」という異物が侵入することによって、それが「見える」「石段」という起点は、動かしようのない〈ここ〉であろう。そして〈ここ〉というものが強調されると言うことは、〈ここ〉に何らかの刺戟を与えるなにものか異物は、〈ここではないどこかから来たるもの〉として認識されるという構図に収まることになる。

〈ここ〉というものの特権性。

だが、〈ここ〉というものはそれひとつが独立して存在するものではない。例句をみてきたとおり、「石段に座」る作中主体の〈ここ〉は「白いバス」が「見える」という連関運動の中に成立するものだった。〈ここ〉は〈ここではないどこかから〉の異物との関係によってはじめて〈ここ〉たりうる。

やっと、〈ここ〉は内部であるのか?という問いを考えることができる。もはや一目瞭然ではあるが、〈内部〉は内部だけで存在することができない。〈内部〉と〈外部〉が接するところ、関係するその接点においてしか〈内部〉とは存在することができない。〈ここ〉の〈内部性〉とは〈内部と外部の接するところ〉においてはじめて在るものだった。

正座して筍の皮はいでいく

この句においては〈ここ〉は「正座して」いる地点になる。言うまでもなく「正座」という不動性のつよい姿勢は起点だ。「筍の皮はいでいく」が〈ここ〉から移動しないとしても、方向性は「いく」という言葉が示すように、〈ここではないどこかへ〉を指し向かうものとしてある。

こうした〈ここ〉へのオブセッションは、帰結として〈肉体〉への言及に至らざるをえない。次節でみてゆこう。


要素b:肉としての身体/肉としての近親

先において、「〈内部〉と〈外部〉が接するところ、関係するその接点においてしか〈内部〉とは存在することができない」と述べた。

ここで話を逆から辿ってみよう。〈内部〉が存在できる、〈内部〉と〈外部〉が接するところ、とは端的に言ってどこか。まずわれわれに思い至るのは、われわれの肉体である。

肉体は内部である。そして同時に外部と接する接点である。肉体というものがセンサーであり、外部に介入する機械であることに、なんら論を要することはないだろう。センサーとしての視聴覚のほかに、たとえば〈皮膚〉を考えてみることも可能だ。

人間は、外に出ている、その否定すべくもないありようから出発するほかない、というのが実存主義の根本である。これはまことに倫理主義的な思想なのだが、この思想を人間の肉体に類比的に重ね合わせれば、実存とはとりもなおさず皮膚であるということになる。(谷川渥『鏡と皮膚』、ポーラ文化研究所)

〈ここ〉という内部/外部のあわいこそ、肉体が肉体として存在している事態に他ならない。

であれば、肉をもった〈わたし〉或いは〈わたくし〉とは〈ここ〉性によって導かれると言えるのではないか。

短詩において——いや、ここは川柳において、と言っておこう——〈わたくし〉性をめぐる種々は、創作・読解においてひとを惑わせるアポリアだ。だがこの『容顔』において、はじめからその難問は答えこそ提示されないにせよ、脱臼されたものとしてある。

右腕を伸ばしていくと保線夫の家

「保線夫の家」については〈ここではないどこか〉でもあるし、要素cの〈要素c:暗い部屋/鏡〉とも関連づけて読むことが可能だが、要素cについては次節で述べる。

いまは「右腕を伸ばしていくと保線夫の家」という〈句〉について考えよう。

まず、この「右腕」が内部/外部にわたって存在するものと捉えることができる。「右腕」だけなら〈わたくし〉のいちパーツとして在るが、「伸ばしていくと保線夫の家」に辿りつく器官としても在る。これは内部が外部に介入してゆく動態であるし、同時に外部によって在らしめられる内部の形相である。

ここにあって内部/外部の接点とは、すなわち〈わたくし〉と〈わたくしでないもの〉の接点であった。その接点においてしか、〈わたくし〉というものはあり得ない。みずからが信じている自分、というものは言葉通り自ら分かつものであった。外部の渾沌にある分節をきざむ、それが〈わたくし〉でなくてなんであろう。裏を返せば〈わたくし〉は外部によってかろうじて保証されていることになる。

『容顔』において〈わたくし〉が脱臼されているということは、この辺のメカニズムが意識化されて立ち上がっている点に拠る。

「右腕を伸ばしていくと保線夫の家」と言うとき、「右腕」は〈ここではないどこか〉へ伸びる。〈ここ〉が内部/外部を含むものとしてあるならば、〈わたくし〉というものもまた、ある境界線上にぎりぎり立つものであり、それが齎すナンセンスさが、笑いを喚起させる。

例句がいかに〈笑い〉を引き出すか、言うまでもない。「右腕を伸ば」すというナンセンスは、そして「保線夫の家」という届かないものへの希求は残酷だ。残酷であるがゆえにひとは恐怖するし、恐怖ゆえに笑うしかない。じつにあやうい境界線上に、句は成り立っている。外部のある笑い。これはすなわちテクストが脱臼されていることである。

そしてこの脱臼が行われる場所こそ、肉としての身体であった。さらに言うならば、肉としての身体は肉親に拡張される。それは血肉がつながっているという共同幻想である。幻想ではあるが、みずからが肉を持ったと認識する際、体液糞尿にまみれつつ壮絶なたたかいの果てに獲得した幻想である現実に、なにもフロイトなど引くまでもない。たとえばその肉親が、幻想上の、架空の近親であったとしても、それゆえにいっそうのことみずからの肉として確かに存在する。

ねばねばしているおとうとの楽器

たとえばこの句に近親への憎悪=愛を見てとるのは容易い。

だがここで「ねばねばしている」のは「楽器」というモノであり、「おとうと」はそれに付帯したまたひとつのモノに過ぎない。なぜそのことが、ここまで粘質を持った詩として提示されるのか。

「楽器」というモノは「おとうと」とそれを取り巻く世界との接点である。「ねばねば」という粘着は、世界に貼り付く意思と言ってもよい。「楽器」が「おとうと」の内部/外部の接点とも言い換えられる。そして「おとうと」というモノ自体が、句の記録者、あるいは〈わたくし〉にとっての内部/外部の接点たるモノであった。

読解のプロセスを多少操作してみよう。まず「おとうと」と提示されることにより、弟を弟と認識する自分、〈わたくし〉としての記録者が想定される(これを作者と同一視できるかは甚だ怪しい)。〈わたくし〉と「おとうと」は〈ここという肉〉と〈ここではないどこか〉の接点によって結び付けられている。同時に「おとうと」が〈わたくし〉と世界との接点とも言える。そしてその弟自体が、「おとうと」として、「楽器」に粘した内部/外部の接点と関係をなす。

この多重な接点のからみあいこそが、例句にある淫靡な——淫靡という内面性——重複性を齎している。「ねばねば」とは本来分離すべきものが接着しかけている事態であった。ために句そのものを重複させ、多重にすることで、近親という〈肉〉を表現している。こうした多重性からわかることは、この作者はモティーフに拠るのではなく、むしろ構造に拠って句を作っていると言うことだ。

構造に拠って句を作るということは、言葉の一個一個に最適の場所がつねにえらばれているということである。言葉の表現は、言葉の位置によって絶え間なく保証されている。それはモティーフに拠って句を作る作り方とは決定的にちがうものだ。モティーフに拠った場合、たとえばこの句であれば楽器=性器となされるだろうところであるように、言葉の表現と、位置——それは内容と置き換えることもできるが、このふたつはどこかでずれを顕す。

どちらがよいという問題ではない。表現と位置がつよく確定されたものと、ずれを顕にするもの。どちらにも秀でた句はある。ただ、いまわれわれが読んでいる句を書いたのは前者に属する作者であり、それも確実な方法論によって奇蹟的な成功にたどり着いた作者だと言うだけの話だ。

では、そもそも、何に成功したというのだろうか?最後にみてゆこう。


要素c:暗い部屋/鏡

たとえば次のような句がある。

写真屋の奥には鮫の頭あり

この句に対して、われわれはべつのところで以下のような文章を書いている。

……〈写真〉という〈光〉をあつめる、しかし暗闇がなければ成立しないモノの結実としての「写真屋」(ロラン・バルト『明るい部屋』を通奏させることも可能だ)。その「奥には」「鮫の頭あり」という。
おそらく何があってもよかったのだ。ここで「鮫の頭」という必然性はない。ないが必然性がないということは宿命的ということである。いまここには、どう足掻いても「鮫の頭」が在ってしまったのだ。そこに在ってしまった以上痛切なまでに仕方がない。「あり」と言う。在ること。消えること。川柳が〈句〉であることのこれ以上の自己証明があろうか。
〈鏡〉の要素については後に述べるが、ここでやや先回りすれば、〈暗い部屋〉は必然的に〈鏡〉を呼び出す。〈写真機=カメラ・オブスキュラ〉の喩は先ほど見た通りであるし、光なき密室が窓を外界に晒せば、それは自然のものとして鏡となる。われわれはアナロジーを実体化させる読みをしているのだ。
(略)
鏡はみずからを映す。ジャック・ラカンの鏡像理論を持ち出すまでもなく、〈わたし〉の認識こそ鏡であった。〈わたし〉或いは〈わたくし〉性の脱臼、とは先に述べた。この脱臼をもたらすものとして、〈鏡〉の要素は剔抉されるのだろうし、〈暗い部屋/鏡〉の〈ここ〉性を強調することによって〈ここではないどこか〉を呼び出し、〈わたし〉が貼り付くゆえに〈わたし〉たる〈肉〉と通奏する所以もある。
(川合大祐「『容顔』試論」、未発表)

こういった文章の当否はともかくとして、なぜ〈暗い部屋/鏡〉の要素を剔出したのか、われわれのその動機はご理解いただけたと思う。

あながち捨て去るべき視点ではないと言う証拠に、句集からいくつか拾ってみる。

三十六色のクレヨンで描く棺の中

シベリア産の森を育てる母の部屋

黒揚羽がずっととまっている鏡

アフリカの王ならくよくよはしない

姉に生まれて午後の鏡は海の彩

整然とビニールハウス闇に立つ

いつからか奥の部屋からくる手紙

婚礼布団のすみっこにあるふくらし粉

おとうとが知っていたのは肉屋の倉庫

だんだんと簞笥の上が乾いていく

これらは引用すべき句群の一握りでしかない。ひとつずつ解説を加えることはしないが、「アフリカの王ならくよくよはしない」を取り上げてみよう。

ここに部屋も鏡もない。だが、「くよくよはしない」というのはあきらかにみずからの内部の発露である。内面の吐露、ということが「アフリカの王」と対比されることにより、いかに内部に沈鬱させられたものか、明確に閉じた内部としてあらわされている。閉ざされた内部としての部屋。これがすなわち〈暗い部屋〉の部屋性である。

尚、付記するなら「アフリカ」とは〈ここではないどこか〉であり、「王」が神の受肉であるならば〈肉〉である。a、b、c、と挙げた三つの要素が絡み合っていることになる。

三つの要素が絡み合うことによって何が顕されていると言うのか。

つい先に触れたが、ここであらわされているのは〈内部〉ではなかったか。三つの要素の絡み合いとして、その場所としての〈暗い部屋〉ではなかったか。この論の最初のあたりで、テクスト『容顔』を「外部への接続を為すがゆえに、内部を充実させてしまった、あるはこの因果は逆に辿って、内部の充実ゆえに外部に接続された」ものと定義づけた。そのような内部と外部の接続こそが、テクスト『容顔』を運動体としての命あるものにしているのであると、とりあえずは言っておこう。

われわれはまず〈ここ〉を見てきた。〈こことしての肉〉を見てきた。そして〈こことしての暗い部屋〉を見ている。

すべては〈ここ〉に還りつく。一ジャンルの特異性を殊更にあげつらおうとは思わない。だが、本質的なところで、川柳は〈ここ〉に固着するのだ。

いやむしろ、固着するがゆえに川柳は〈ここ〉を呼び出すのだと言い換えることもできる。なにかに固着すること。それは自他の一体化を痛切にねがいながら、絶対的な境界線に阻まれ、それでも絶望的にこいねがうことである。

この段階に至って、川柳の発生に遡り〈前句付〉を経ての自他の発生、という思考を巡らせることも、あるいは川柳というものが(短詩というものが)〈わたくし〉というアポリアを抱えているものである、と思いを馳せることも、またはその他のさまざまな考察をたどることも可能だ。

だが、今はまだそれらの展開は待っておこう。更なる思考、もしくはわれわれの〈川柳〉の創作の涯てに、いつかは答えの輪郭がうっすらと浮かぶことをなかば信仰にも似て予感するからだ。

いま、ここでは次の句、句集『容顔』のいちばん最後に置かれた句をみるにとどめる。

黒板に名前を書いて眠ろうか

「名前」というもの。それは自他をわかつ絶対的な牆壁である。「黒板」という暗い部屋の鏡のようなもの、〈ここ〉に厳然とあるものに、肉あるものが自他をわかちたりようとしている。しかしこの主体は、「眠ろう」ともしている。眠り。自他の牆壁がなくなると同時に、自他すらなくなってしまう地点・時点。主体は主体から剝奪されると同時に、どうやっても主体から逃れられないのだ。

こうしたジレンマの解消として、たとえば〈死〉はあるが、人間にとって〈死〉は不可能である。われわれは生きてゆくしかない、という倫理にここで川柳は触れる。だが倫理とはつねに行為に先立ってあらねばならないものだった。すなわち、われわれは〈ここ〉に在らねばならない、という問題をこれからもずっと抱えもつことになろうし、それは歓ばしいことに違いなかった。

樋󠄀口由紀子という作家が齎した恩寵とはこのようなものであった。論としてはあるまじき振る舞いだが、ご冥福をお祈りする。

(了)

2026-03-08

句集を読む 「その人」性ということ 岩田奎句集『膚』再読 上田信治

句集を読む 

「その人」性ということ 
岩田奎句集『膚』再読

上田信治 

 

岩田奎句集『膚』(2022)を再読した。

この人は、何か過剰で圧倒的でスゴイものを、作りたかったのだ。──と思った。

誰でもそうでしょう、と言う人もいるかも知れないけれど、よく考えればそんなことはない。

いきなり話はそれるけれど、令和ロマンの高比良くるまという人が、女性タレントのMEGUMIとつきあっているという話にはびっくりした。

くるまという人も、岩田奎と同様に、あからさまに優秀なんだけど「何がやりたいんだろうこの人は」と思わせるところがあって(ヤーレンズの楢原という人や、真空ジェシカの川北という人は、ただもう、彼ら自身でありたいわけじゃないですか)そして、岩田奎は、さいきんの角川俳句賞を、M−1グランプリになぞらえるツイートをしていて、だとしたら(決してそうは言わないだろうけれど)自身を高比良くるまに重ねる気持ちもあるのかもな、と思っていたのだ。

で、くるまがMEGUMIとつきあっているという話をきいて、それは「姉御的ポジションの人とつき合う」ということなわけだけれど、そういうことをしたい男性心理を想像するに、ああ、この人は「スゴいと思われる自分」への灼けつくような欲求があるのかも、と思った。

ちょうど『膚』のことを考えていて、見えかけていたのが「スゴさ」に対する志向だったから、その符合には感じるところがあった。

平成11年(1999)生まれの岩田奎の登場は、俳句にとって、かなりの出来事だった。

2020年「赤い夢」50句で、角川俳句賞を最年少(21才)受賞(*1)

自分も「赤い夢」には、少なからず驚き、論じたいと思った(「週刊俳句」で予告もしていた)。なにより、一読、よいと思える句が多かった。

にはとりの歩いてゐたる木賊かな

銀閣のまへを吹かれて氷旗

野分去る万力に錆浮きにけり

巻尺をもつて昼寝のひと跨ぐ

降るもののけはひの中に葦枯るる

ところが、なんとなく書けずにいるうち、彼は、2023年『膚』で、田中裕明賞と俳人協会新人賞を受賞(俳人協会賞は最年少受賞)。メジャーな新人賞を総なめにしてしまった。

当然、この句集についても書きたい、と思いつつ、なんとなく書けずにいた。

書けずにいた理由には心当たりがある。

句集『膚』は、編年体で、巻頭にもっとも初期の作品が並んでいるのだけれど、2017年以前(年齢で言えば18才以前)と記され、巻頭に並んでいる4句が、なにしろ──

千手観音どの手が置きし火事ならむ

鶯やほとけを拭ふ布薄き

何もない鶴の林を飛んでゆく

雨女鶯餅を買うて来し

なのだ。いや、全部いい句なんだけどさあ(笑)

自分がまず反応したのは「何もない」の句だ。

何もない鶴の林を飛んでゆく

何もない」が何に係るでなく、句の全体に係っているようであることが、面白い。つながっているようで、つながっていない意味の脱臼によって、日常語に近い言葉が、俳句になっている。「何もない」は、一つのマニフェストのように働いていて、おお、これはどんな句集が始まるのかと期待させる。

雨女」の句もぬけぬけとただごとを書いているようで、「雨女」と「鶯餅」が、理由なく対句になっていることに読みどころがある。

しかし「千手観音」の審美性、というか審美性の手つきと「何もない」の句を、両取りする作家性とは、いかなるものか。また〈鶯やほとけを拭ふ布薄き〉はあまりに田中裕明レプリカではないか。

しかも、その次の見開きには

天の川バス停どれも対をなし

旅いつも雲に抜かれて大花野

という、いかにも健康な(高校生らしいと言われかねない)二句が並ぶ。

俳句というものを書いてみたら、始めから、達成と呼べそうな句が書けてしまった、彼は、その能力を発揮することを、ただただ楽しんでいる。サムライミ版の「スパイダーマン」のようだ。

形式との幸福な関係ということなのだろうけれど「自分、なんでも書けちゃうんですけど、どうしたらいいでしょう」と言わんばかりの編年体だ──と書いたら、ちょっと意地悪が過ぎるだろうか。

自分が『膚』をまず読んで、すぐれている、好きだと思ったのは次のような句だ。

何もない鶴の林を飛んでゆく

雨女鶯餅を買うて来し

夜のはてのあさがほ市にふたり来し

寒卵良い学校へゆくために

絵がなくて九月海風壁に釘

にはとりの歩いてゐたる木賊かな

愛日の海にあそんで大人たち

枯園にてアーッと怒りはじめたる

棗とは思ふかすかな雨の奥

逃げ水となり我我は急ぐかな

面白い蟷螂生まれつづくなり

いっぽう、俳人協会新人賞の選考においては、複数の委員が「現場に足を運んだ実感」ということを推薦理由に挙げていて、それは、前書に地名を冠した句がひじょうに多いことに寄せられた評価だったと想像される。この賞は、選考経過をつたえる文字数がとても少ないので確言はできないのだけれど

前書のある句というのは(ざっと数えて50句以上ある)たとえば、このような句だ。

能取
残雪に狐の不浄みて過ぐる

甲斐 長坂
秋の蠅丹青なすや甲斐の糞

安房 大山
なにが悲しくて千枚みな春田

奈良二句
冬深くうすらひざまに板膠
冬空やねぢれびかりに握墨

糸取」「夏蚕」など、滅びゆく産業季語も特徴的だし「板膠」「握墨」も古風でありつつ見学とか観光がベースにある言葉だ。

前書を付し「行ってきました」という報告こみで作品とすることは、コミュニティに向けての挨拶として機能する。もともと歌枕を訪ねるという行為がそういうものだし「報告」は俳句の大事な一部なんだけれど、それが自分が上にあげたような句と並ぶと、とまどいが生じないこともない

何もない」にしても「アーっ」にしても、むしろ俳句コミュニティに対する不義理を前提として、生まれるような句だからだ。

田中裕明賞の選考会でも、後半の吟行句についての評価は分かれていて、髙柳克弘は「吟行の一連が読みごたえがあったかというとやや疑問」と述べ、むしろ初期の作品のみずみずしさと抒情性を推し、関悦史は、彼独特の表現で、吟行句の現場性を評価していた。(*2)

作者は、二軸をもって、この句集を編んでいるのかもしれない。

それはたとえば、俳句コミュニティに対する「挨拶」と「不義理」あるいは俳句コンテキストに対する「順接」と「逆接」の二軸だと言える。(*3)

俳人協会の人にも受けるし、自分のような野次馬にも受ける。髙柳克弘や関悦史にも、高田正子にも佐藤郁良にも受ける。

しかし、その全員がきっと、ばらばらの「岩田奎」像を見出している。

だとしたら、じゃあ、この人のいちばんいい部分、可能性はなんなんだっていう話に、どうしたってなる。

本人は、角川俳句賞を受賞したのち「年毎に自分の句風を固定せず」「存分に壊れることができると思った」と語ったそうだけれど(『俳句年鑑』2023年度版)

しかし俳句に限らず表現は、けっきょくその人固有のものしか残らないからなあ、とも思うのだ。

彼の、俳人協会新人賞の受賞のことばを引用する。

いったい句集というのはその人の人生の体現であるのか、作家性の体現であるのか。(…)人生をもって作家性となすのは恰好よいが、案外たやすいのかもしれない。
私は作家性をもって人生となすことをこれからもなるべく試みてゆきたい。と思っている。

「俳句文学館」2024.3.5号「新人賞受賞の言葉」より

ものの言い方から、田中裕明の「夜の形式」(*4)が意識されているのは明らかで、彼は「人生」と「作家性」を、裕明の「昼の形式」「夜の形式」のような、対をなす概念として提示している。

彼は「句風を固定せず」に書きたいとも明言しているので、その対概念は

「作家性」=複数の可能性があって選べるもの

「人生」=選べない(固定された)ただ一つのもの

という対だと見なせる。

そして「人生」という語に託されるようなものを指向しない、軽やかな形式との関係を自分は選ぶ、それを通じて自分の作家性を作り上げていく、と言っているわけだ。

そういえば、田中裕明は、自分の作品は「いわゆるアンソロジーピースが多い」と書いていて、それは自嘲でもあり、個性的であることよりも典型を志向する、という自負でもあったと思う。

裕明がそう書いたのは『花間一壺』のあとがきだから〈ことごとく全集にあり衣被〉のような句のことを指しているのかもしれない。しかし『花間一壺』のほとんど全ての句は、どう見ても、裕明の句以外の何ものでもないのだし、とうていアンソロジーに入りそうもない、わがままに書かれた句も多い。

あるいは。

たとえ一句限りでも、つまりそこに「人生」があってもなくても、「その人」が書かなければ、他の誰も書かなかっただろうと思わせる句はある。

他ならぬ「その人」が書いていると、人に感じさせるのが「作家性」というもので、逆に、少々出来がよくても「その人」性に達していない表現は、悪い意味でのアンソロジーピースになる。

そして「その人」性というのは、案外、選べないただ一つのもので、それを複数もつ作家というのは、自分には想像しにくいのだ。(*5) 

何が言いたいかといえば、自分は、句集『膚』に、その一冊と等号で結べるような「作者」を見出すことができなかった──。

「作者」とは、高浜虚子が、橋本鶏二の句集『年輪』に贈った短い「序」に書いた「一口にて申せば「鶏二は作者である」」という意味で、なのだけれど。

2年半前に出した句集が自分のものであるということがにわかには信じられない。そもそも俳句にかぎらず1年以上前の自分の言動なんて、その年齢なりにがんばってるなと思うが基本的に恥ずかしくて思い出したくもない。なぜみんなあんなに作家性とか自我を保っていられるのか

https://x.com/ii_tawake/status/1923787751406829831

俳句において固有であることが難しいのは、私たち自身がこの世界で自己の固有性を確信することの難しさゆえでもあって、あなたの俳句上の才能とか経験値にはあまり関係がない。

https://note.com/keiiwata/n/nfa375066bba8

句集の題を『アーッ』にする勇気が出なかったことをたまに後悔してます

https://x.com/ii_tawake/status/1772635211244732462

自分が前段で書いたようなことは、彼としては重々承知、わざわざ言われたくもないことかもしれない。だとしたら、すいません、あやまらなければいけない。

ただ、当時の(といっても数年前か)俳壇のあまりの高評価から、その句集には絶対的な価値があると太鼓判が押されたかのように、外野からは見えたので、その評価はバラバラの作者像を見て生まれているかもしれないよ、ということは確認しておきたかった。

では、もうノビノビと、自分が、彼の句に見出した「その人」について書こう。

判断材料は、自分が選んだ11句と、作者自選の30句だけにして、それらの句から、ホログラムのように想像した、この書き手について書きます(当たるも八卦というヤツかもしれない)

上田選11句

何もない鶴の林を飛んでゆく

雨女鶯餅を買うて来し

夜のはてのあさがほ市にふたり来し

寒卵良い学校へゆくために

絵がなくて九月海風壁に釘

にはとりの歩いてゐたる木賊かな

愛日の海にあそんで大人たち

枯園にてアーッと怒りはじめたる

棗とは思ふかすかな雨の奥

逃げ水となり我我は急ぐかな

面白い蟷螂生まれつづくなり

作者自選30句(第十四回田中裕明賞」冊子より)

耳打のさうして洗ひ髪と知る

紫木蓮全天曇にして降らず

仔馬開眼ひかりとしてのわれ佇てり

かんばせは簗の光のなかに泣く

水羊羹風の谷中のどこか通夜

葦二本枯れて貫く氷かな

しりとりは生者のあそび霧氷林

鶴帰る悪書追放ポストの地

入学の体から血を採るといふ

壺焼をこぼるる泡のすぐ乾び

柳揺れ次の柳の見えにけり

袋角朦朦と血の満ちてをり

なかぞらに楚の消えて梅雨菌

巻尺をもつて昼寝のひと跨ぐ

運動会再び肉の塔興る

にはとりの歩いてゐたる木賊かな

木の奥をゆくよそさまの七五三

枯園にてアーッと怒りはじめたる

なにが悲しくて千枚みな春田

落椿の気持で踏めよ踏むからは

靴篦の大きな力春の山

蜃気楼はこばれくるはアジフライ

擂りすすむ山葵の向を変へにけり

河骨は鏡をなさぬ水に咲く

土瀝青づかれの祭足袋干され

青柿のころより確と富有柿

立てて来しワイパー二本鏡割

蝌蚪の国鞄の底の薄汚れ

弱さうな新社員来る湊かな

面白い蟷螂生れつづくなり

ね、あんまりかぶってない(笑)。

そして自選30句に、前書きの句は〈薩摩出水 鶴帰る悪書追放ポストの地〉〈安房大山 なにが悲しくて千枚みな春田 〉〈平林寺 落椿の気持で踏めよ踏むからは〉の三句だけで、多くはない。

ここで話は、冒頭の、過剰で圧倒的でスゴいもの、というところに戻るのだけれど。

紫木蓮全天曇にして降らず

鶴帰る悪書追放ポストの地

袋角朦朦と血の満ちてをり

運動会再び肉の塔興る

枯園にてアーッと怒りはじめたる

擂りすすむ山葵の向を変へにけり

土瀝青づかれの祭足袋干され

これらの句には見るからに「力感」があり、それは、モチーフと言葉がぎゅうぎゅうに詰まった圧迫感から生じている。

全天曇」「濛濛と血の満ちて」「肉の塔」「土瀝青」のような力んだ言い方に、一句の重心がある句が多い(土瀝青はアスファルトのことだそうだ)。

その語選択に託された圧力は、世界から強いられた圧迫であると同時に、「彼」が世界にそれを強いる圧迫でもある。〈山葵〉の句も〈野分去る万力に錆浮きにけり〉〈葱を煮るどろりと泡を抱くところ〉といった句も、景に潜在する力を見出そうとして対象に迫る意志から生まれている。

力に満ちて過剰であれ、俳句も世界もと、たぶん「彼」は思っている。

鶴帰る悪書追放ポストの地

この地は、かつて「善」が「悪」と戦った歴史ある場所なのだ。たまたま出水なので、鶴も飛ぶ。

悪書追放ポスト」という「悪」の字が入った句またがりの十音の圧迫感と、それを裏切る全体としての空っぽさ。もう、その土地には、誰もいなかったのだろう。そのアイロニーがとても美しい。

こういう句を自選句に入れる作者を、自分は信用してしまう。(*6)

枯園にてアーッと怒りはじめたる

アーッ」をカタカナで書くぐらいだったら、上五は「で」でもよさそうだ(改作「枯園でアーッと怒りはじめたる」)

でも、それをやると「枯園」という俳句用語を口語文脈に投げ込むという無自覚さを、自分に許すことになる。そこで「枯園にて」と、文語らしい言い方で、後半の口語脈から距離をとった。六音であることのもたつきも含め、この切れはあんがい深い。

「枯園にて(………………なんなんだ、なんなんだ)」という沈黙が「アーッ」の衝動性と純正さを担保している。枯野ではなく、枯園で。そこは広さのない、区切られた、枯れ果てた場所だ。

その怒りは「俳句(≒枯園)をやっている自分」への苛立ちが、フロイド的に表出されたものかもしれない──というのは半ば冗談、半ば本気で思ったことだ。

というか、逆に。

スゴさを希求する「彼」とって、十七音の短詩は、すぐあふれる小さすぎる器として、たぶんうってつけだったのだろう。

そもそも、自分の持つ力への自覚と、環境の貧しさのギャップが、人をして「スゴいもの」を志向させるのではないか。

令和ロマンくるまも、自身について「エゴがめっちゃ大きいんです」と言っていた。(*7)

入学の体から血を採るといふ 岩田奎

巻尺をもつて昼寝のひと跨ぐ 

なにが悲しくて千枚みな春田 

春愁の吾を写真に撮るといふ 波多野爽波

巻尺を伸ばしてゆけば源五郎 〃

夏空や何かなしうてからすうり 田中裕明

爽波、裕明を範としてあおぐことは、現代の俳人にとって当然のアティテュードだと思うけれど、しかし、やっぱりホンモノはすごいね。

爽波、裕明の句は、つねに力に溢れているのだけれど、特に力み返ることもなく、彼らは、ただ俳句に忠実なだけだ。こういうのは、もう本当に「人格の力」とでも言うしかないんじゃないかと、オカルトではなく思う。

表現がつかみ出す世界の様相というものは、その人が「その人」を、ぎゅーっと世界に押しつけることによって、あらわれるものだからだ。

世界に押しつけるそれが弱ければ「返り」が弱いから、句が常識的になる。

その人に、人生がまだなくても、人格とか「その人」性とか、そういうものを元手に書くという泥臭さが、作ることにはついて回る。(*8)

もちろん、いい俳句、面白い俳句を書くために、爽波のような怪人である必要はない。その人が、自分で把握もしていない不定形の自分を、ぎゅーっと俳句に押しつけることをあきらめさえしなければ「その人」性は、言葉という支持体上の痕跡として現れる。

そういう意味で、あんまり初手からなんでも書けてしまった彼には、自分になるための時間が足りなかったのかも知れない。

とはいえ、しかし。

この人が、誰でもない「この人」であることに成功していると思える句もある。それはむしろ、あからさまにスゴかったり、圧倒的だったりしない句に見出される、と自分は思う。

夜のはてのあさがほ市にふたり来し

夜のはて」短い夜が終わって明けていく朝方に、夢のつづきのように「あさがほ市」があらわれる。そこに二人で来た、のか、二人が来たのか。語順によって、まぼろしめいた「」がまず見え、「ふたり」は、まぼろしの中にうっすらと立つような自分たちを自覚している。

これはふつうにカンペキ感のある句で、これまでに書かれた「朝顔市」の句で、たぶん、いちばんいい。

夜の中にいた二人なので、これは恋の句。老人が書いてもそう読めただろうけれど、若い人がこう書くことの、儚い(つまり今だけの)良さがあると思う。入谷は鶯谷のホテル街からほど近いとかは、考えなくてもいいかもしれないけれど、東京でじっさいに暮らしていることの現場感が、下地として見える。

棗とは思ふかすかな雨の奥

軽い雨のむこうに「」らしき実がなっているのが見える。赤くて堅そうにつるつるとした、その果実が棗であることは、名前から納得することしかできない。その疎隔のてざわりが、棗「とは思ふ」なんだろう。

ただ、もう一つ読み筋があって「とは」を「とは、なにかといえば」という意味に取った場合。「」とは、自分にとって実感をともなわない言葉だけの存在であり、それは「かすかな雨の奥」がそうであるように、世界と隔てられた、自分の「思ふ」ことの確かさ、あるいは不確かさのようにあるのだと。〈思ふかすかな雨の奥〉のフレーズが魅力的なので、自分としてはこっちで読みたい。

寒卵良い学校へゆくために

良い学校へゆくために」は良くできたフレーズで、誰がどういう立場から口にしても、そこにアイロニーが生じる、むげに否定することも、手放しで肯定することもできない、悲しいことばだ。

作者が「良い学校」の人だということが、人の心におよぼす効果も図って、このフレーズはここに置かれているだろう。そして「寒卵」これ、受験のために「寒卵」を飲む、っていう話なんだろうか(阪西敦子〈寒卵片手に割つて街小さし〉以来、寒卵はロッキーのイメージだ)。卵のように整列した受験生たちを思えばそれは「完璧感のある壊れもの」というイメージで、つまり、これはどこまでも悲しみに焦点がある句。すごく面白い。

(〈
この感情ずいぶん受験にて作られ〉「群青」2025・12 という極めつけにどうでもいい句もある)

絵がなくて九月海風壁に釘

その部屋に絵のないことが新情報として提示されている、ということは、この人は、ふだん来ない場所に来て「こんな部屋かあ」と思っている。

九月、土用波もたつわクラゲも出るわという時期に、海近くの保養所のようなところに来ている。友人の家かもしれないけど、その家を保養所扱いしていることは間違いない。壁に絵がないことは、ちょっとの時季はずれに似つかわしく、その空間を意識させ、この人は壁に向かいながら、外の全環境を感じて楽しんでいる。

絵があるはずの場所に、釘があるから、ものすごく絵があるはずの場所だとわかる。それは、因果ではなくギャグだ。

中七で名詞を重ねて、歌のような調子を出すのは、新しい書き手がいろいろ試している韻律の試行のひとつ。その新しさが、七五調の俳句の俗謡っぽさにつながっていることが楽しい 

(「風の谷中のどこか通夜」のフレーズも、それ。ただ「どこか通夜」って思うかな……その無責任なフレーズは歌謡曲っぽくもあって、もし、その方向の句が続くのであれば信用できるのだけれど)

これらの句に、自分が「その人」性を感じるというのは、好みでしかないんじゃないか、という心配はもちろんある。

けれど、いま、自分が上にあげた38句に見ているものは「ちょっと悲しい鬱屈した若い人」で、それはスゴさへの志向も含めてそう感じるのだから、その読みにはちょっと手応えがある。

蝙蝠のながれてゆけば犬が吠え

雲を見るほかなく角の伐られけり

冬空のざらついてゐるラジオかな

夕日いま葱のうしろへかたむけり

降るもののけはひの中に葦枯るる

愛鳥週間調律師この木木を来よ

あと一度ねむる夏蚕として戦ぐ

うん、やはり、すごく悲しみがあると思う。そしてそれは、誰にでもあるものではない。

まじめな話、作家性とか「その人性」は、書けて、初めて立ち現れるもので、元々あるものでも、こうと決めて作り上げるものでもない。そして繰り返しになるけれど、人がこの世に持ち込めるものは、じつは一人に一つなんじゃないかと思っている (*9)

つまり、岩田奎という人は、登場が華々しかったので見えにくくなっていたけれど、すでにそういう人として、彼が書く俳句の中にいたのではないかと。

愛日の海にあそんで大人たち

愛日」は、あたたかい冬の日差しが貴重に感じられることを指して言う。「横浜港」と前書がある。海をバックに、きらきらしい光線の中で、大人たちがほほえましく遊んでいるように見える。若者か子どもである自分は、少し離れて、慈しむように大人たちを見ている、そういう視線の逆転があって、それはざっくり「愛」なんだと。ぜんたいが冬の景であることが、やさしさとしてよく響いている。

自分(上田)も、たぶん「大人」の側に入る。だいぶ失礼なことを書いたけれど、大人のすることだと思って許してほしい。

岩田さんが、自分の書いた文章を読んでくれていて、ときどき引用してくれることは知っていた。

https://note.com/keiiwata/n/nfa375066bba8

引用してくれていたのは「通俗性」についての文章で、だとすれば、彼は今、俳句の現在との関係において、かっこ悪くならず、スゴくあることが可能な、サバイバル的な方法論を探っているはずだ。

さっき気がついたのだけれど、彼はリンク先の文中で、こう書いている(しかも原文は太字で)。

言葉を介して、わたしはわたしに出会う。言葉を弄することによって出会えるのは、わたしではない。俳句史とはかならずしも関係ないわたしの幸福追求のためにこそ、わたしには作家性が求められる。世界においてわたし自身の存在がオリジナルであるのとちょうど同じように、わたしの句はオリジナルであるべきだ。

まさにまさに。ほんとうにその通り。

考えてゐるこんにやくの花を過ぎ 「群青」2023・8

こんにゃくの花は、ひどく奇妙な、いわく言いがたい、へんてこな花だ。彼にとって、俳壇からの大アプローズは、こんにゃくの花にも似た、人生の奇妙なイベントだったのかもしれない──と、これもフロイド的な読みだけれど、あんがい当たっているのではないかしら。


(了)

*1 『膚』の田中裕明賞や俳人協会新人賞はぶっちぎりだったけれど、「赤い夢」の角川俳句賞は、選考会で、黒岩徳将さんの「嘴太鴉」とほぼ同等の評価で、黒岩さんが受賞していた可能性もじゅうぶんにあった。

*2 「肌という装置を通して展開してゆくと後半の旅吟になる。つまり肌が持つ表面ならではの深さ、出会いの現場、自他の境界としての肌というものを時間的空間的に外部へ展開してゆくと色んな土地への旅行になるということで(…)こういう出会いがあるということを認識する現場としてこの作者があちこちに遍在し、その現場の事件性をリアライズしている句集ということで、そのインパクトは大変強かったです」(第十四回田中裕明賞 関悦史委員選評)

*3 誰にとっても順接と逆接の二つのベクトルの配合がその人の方向性となるわけだけれど『膚』は、その二つを合算せずにそれぞれを展開しているのではないかという話。 

*4 田中裕明「夜の形式(1982年角川俳句賞「受賞の言葉」)https://weekly-haiku.blogspot.com/2010/01/blog-post_31.html

*5 なんでも描けてしまう漫画家というと、石ノ森章太郎のような人がいたけれど、あの人が作品として何を残したかというと、なかなかむずかしい。

*6 俳人協会新人賞受賞に際しての自選15句と、上記の30句は、よく見たらだいぶ異同がある。俳人協会新人賞のときの自選15句のうち半分の7句〈食べ終へて光の残る暮の秋〉〈もの食べてさびしくなれる扇かな〉〈木の奥をゆくよそさまの七五三〉のような句が、田中裕明賞の冊子の自選30句に入っていない。使い分けているのかとも思うし、自己像が不確かすぎて、てきとうになってしまっているのかとも思う。

*7
くるま そんなことしたらM-1が盛り上がらないじゃないですか!
粗品
 自分らが優勝するために「こいつらスベれ!」って思わんのや。
くるま そうですね。
粗品 ええー……
くるま
 粗品さんからしたら「ええー……」ですよね(笑)。いや、これはこれでよくはないんですよ。
粗品 ええ奴……ええ奴なんかなぁ。なんやろ。変態ってこと? 変態か。いかれてんねや。
くるま そんなざっくりまとめられると(笑)。でもそれは優しさとかじゃなくて僕のエゴなんです。エゴがめっちゃ大きいんです。
(『漫才異常考察』霜降り明星粗品との対談より)

*8
品田 上田さんは、何かになりたいとかあったんですか
上田 漫画家になりたかった! 大学4年のときに「おかしい、漫画家になれていない」と気がついて、あわてて編集部に持ち込みをはじめたんですが、結局描けなくて、編集者になりました。編集の仕事を10年やったころに、あのころの自分には中味がなかったんだ、と気がついた……ダヴィンチさんは、漫画家になるには、漫画が上手ければいいと思うでしょ?
品田 ええ
上田 でもね、なんか、ものを書くには中味が必要だったみたい。若くして代表作が書けるような、早熟な人はあるんだよね、そういうものが
品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)上田信治 2022年12月4日 オンライントークイベントでの発言(AERA.dot 2022に加筆)

*9 一人ですべての役を演じる落語家も、カメレオンと呼ばれる俳優も(つまり桂米朝もロバート・デニーロも)けっきょく、その人は「その人」性を、一つだけ、この世につけ加えるのではないか。