ラベル 佐藤りえ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 佐藤りえ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026-08-02

柴田千晶〔俳句の沃土〕分身 佐藤りえ第一句集『景色』

〔俳句の沃土〕
分身
佐藤りえ第一句集『景色

柴田千晶

『みらいらん』第6号(2020年夏)より転載

みづうみにきれいなはうを置いていく  佐藤りえ

湖に置いてきたものは何か? 人なのか動物なのか物なのか? きれいな方ときたない方があって、置いてきたのは、何故きれいな方だったのか? そもそも湖に置いていったのは誰なのか……この句はとてもミステリアスだ。

置いてゆかれた方と、連れて行かれた方。どちらも心もとなくて、どちらも寂しい。もしかしたら一つのからだ。自分の中に在るきれいな方ときたない方なのかもしれない。

佐藤りえの第一句集『景色』(六花書林)には謎めいた句が並んでいる。一句に仕組まれた謎を解いてゆこうとすると、見知らぬ風景の中にぽんと放り出されて、途方に暮れる。醒めない夢の中をさ迷っているかのような気分になる。

かぎろひに拾ふ人魚の瓦版

風死んで吾の乗るバスを見送りぬ

瓦版は江戸時代、事件の急報に用いたもの。「かぎろひ」は、強い日差しのために物の形がゆらいで見える現象をいう。瓦版に描かれた人魚も、それを拾った手も、時代も、すべてがゆらゆら不確かだ。

「風死す」は、夏の盛りにぴたりと風が止むこと。「吾の乗るバス」は、私が乗るはずだったバスなのか? それとも私が乗っているバスなのか……。後者ならばドッペルゲンガーを見たことになる。

もう一人の私の存在。句に登場するものたちは、佐藤の分身のように思える。

かはほりに歌をおしへる女(め)のありき

道の辺に燃え尽きてゐる雪女郎

「かはほり」は蝙蝠のこと。蝙蝠に歌を教えている女も、道の辺で燃え尽きている雪女郎も異端。この世界に栖を持つことが叶わなかったものたちだ。

佐藤の分身たちは、様々なものに姿を変えて現れる。

船幽霊夜釣りの竿に触れて来し

犬憑きと狐憑きとの舟遊び

幽霊となって夜釣りの客に近づいたり、犬や狐の顔付きで舟に揺られていたり。

やがて分身はこの世界を捨てて、無機質なものに生まれ変わる。

西方のあれは非破壊検査光

夏痩せて肘からのぞくベアリング

冬山に人工知能凍ててをる

無機質なものに「夏痩せて」「凍てて」という肉体を感じさせる季語を取り合わせたところが面白い。「非破壊検査光」「ベアリング」「人工知能」という素材から新鮮な詩情が生まれた。西方には浄土がある。非破壊検査の光は何を照らし、何を調べているのだろう。それもまた謎だ。

2026-06-07

『九重』佐藤りえさんへの「10の質問」〔俳誌の中の人に訊く〕

〔俳誌の中の人に訊く〕
佐藤りえさんへの「10の質問」


Q1 関わっていらっしゃる俳誌の名前と概要、そしてご自分の役割を教えてください。

『九重(ここのえ)』。個人誌です。俳句、短歌、エッセイ、セリフのない漫画、評論などが書かれています。おもな役割は執筆者・デザイナー・イラストレーター・編集者・発行者。

Q2 『九重』の特徴・アピールポイントを教えてください。

書きたいものを書きたい時に書き、書いて欲しいヒトにゲストをお願いして作る本です。厚かったり薄かったりします。成分も号ごとに変わります。

Q3 『九重』を発行/維持していくうえで、苦労することを教えてください。

長文のための資料を読む時間の確保と、ページ合わせのために長文を刈り込むのにいつも苦悶しています。

Q4 『九重』をつくっていくうえで、だいじにしていること・たいせつに思っていることを教えてください。

作りたいものを作る。外的な目的に目を奪われないようにする。無理をしない。

Q5 『九重』を動物に譬えてください。その理由を教えてください(理由がなければ、言いたくなければ無回答でかまいません)

近くの公園にカワセミが時々来ます。めったに見られない、というほど稀少な鳥ではないけれど、そうだ、見に行こうと思って足を運びます。遭遇できないことも多いですが会えるとちょっとうれしい。そのために出かけるのも楽しい。そんな感じでしょうか。

Q6 ご自分のことに質問が移ります。理想的な休日の過ごし方を教えてください。

二時間ぐらいの娯楽映画を観た後、ダベりながらスパゲティなどを食す。デザートはプリン。

Q7 現在お住まいの町は、どんなところですか?

まあまあのどかであっちい小さな町です。関東平野がこんなにじめじめしているとは思いませんでした。

Q8 好きな自然現象について、教えてください。

雨と雪全般。

Q9 10年後、『九重』はどうなっていると思いますか。「こうなっていたい」という野望・願望でもかまいせん。

今より小さく薄くなりつつ、細々と続いていたらいいなと思います。

Q10 最後に、ご自分の最近作を5句教えてください。ベスト・オヴでも、単に直近の5句でも、どちらでもかまいません。

  はこべらがはびこるはこびはこぶねに
  花疲れ好きなブローチからはづす
  別荘に雨漉してゐるハンモック
  楽しかつた日 西日に駅のドアひかる
  夢の書に砂冠の蔵書印
   (第二句集『兎森縁起』より)

『九重』問い合わせ先 info@poppen-do.net
オンライン購入先 https://poppen-do.booth.pm/


2021-06-20

【週俳4月の俳句を読む】健康的で、今日的な 佐藤りえ

【週俳4月の俳句を読む】
健康的で、今日的な

佐藤りえ


しばらくを地にくつついて石鹸玉  姫子松一樹

人間が地にくっついている、のでもいいのかもしれないが、「地にくつついて」いるのは石鹸玉そのものだと読んだ。

「○○老人会」というミームがある。たとえばインターネットについて、現在は大容量通信が常時接続可能だが、20年前はダイヤルアップでテレホタイムに…などと言い出すのは「インターネット老人会」なんだそうだ。

石鹸玉についてこどもあそび老人会として思うのは、石鹸玉、丈夫になったよな、である。昭和のママレモンを薄めた液でできた石鹸玉はすぐ割れた。大きくつくるのも難しかった。だからこの「地にくつついて」ちょっとの間割れない石鹸玉は、きわめて今日的なものの感じがした。


諸子釣る婚姻色のひかりかな  姫子松一樹

モロコのおおもとは琵琶湖の固有種らしいが、歳時記的にはそうでもなく、野川や田溝にもいるとされている(合本俳句歳時記新版/角川書店)。釣り上げたモロコが婚姻色のものだった。婚姻色とは繁殖期にのみ変化する体色のことだが、モロコの場合は雄の全身が金色に変化する。なんだかめでたい色、聖なる色といってもいい。モロコそのものが本来地味ないでたちのちいさな魚だから、その驚きはささやかでありながら、妙なるものとして仰ぎ見ることになったのだろう。


眠りかたを毎夜忘れてしまふよ菫  横井来季

不眠のころは本当にきつかった。眠ろうとする思惟が邪魔で眠れず、しかし「眠ろう」以外のことを考えたひには心中穏やかならざるのでかえって眠れず、精神衛生にもよくない。野比のび太のように枕に頭をつけて3秒で眠れたらどんなにいいか、と、わりと真剣にそう思った(最近はそれはそれで医学的には「昏倒」の部類に入ると言われているようですが)。

考えなくてもできること、は考えるとできないこと、である可能性がある。毎夜眠りかたを忘れては思い出し、なんとか生きつないでいるのだろう。それは毎夜生き直している、と言い換えてもいいんじゃないか。かような悩み(愚痴?)の打ち明け先として、菫は至極まっとうな斡旋先と思われる。


火酒叩くなづきの部屋を一つづつ  横井来季

中島らも「今夜、すべてのバーで」は日本のアル中小説の嚆矢(中堅かな)であるが、文中で主人公・小島容は絶てない酒を求め、アル中治療のための入院中だというのに、いきがかり上とはいえ、ついに霊安室の清拭用メチルアルコールにまで手を出してしまう。そこまでして酒を恋う者の飲酒の表現は詩的でさえある。「電熱コイルにスイッチがはいった感じで、胃の腑と食道に、ぽっと灯が点る」(中島らも「今夜、すべてのバーで」)
掲句のほうはウォッカやテキーラなどの火酒(蒸留酒)が脳内の部屋をご丁寧に一室づつ叩いてまわる、というもの。「酔い」とは何か、前述の陶酔めいた惹句などよりきわめて健康的に描写されている。二日酔いの念の入った容赦ない衝撃が、レスラーが繰り返すストンピングのように執拗に続くのがよくわかる。


姫子松一樹 上顎にまんぢゆう 10句 ≫読む 
横井来季 吐き気 10句 ≫読む

2019-05-12

【句集を読む】異形の傾(かぶ)きと軋み  佐藤りえ『景色』を読む 西原天気

【句集を読む】
異形の傾(かぶ)きと軋み
佐藤りえ景色』を読む

西原天気


いわゆる俳句らしい俳句、メインストリーム的な俳句と、措定っぽく、オーソドキシーを仮想することにあまり意味がなく、また危ういことは承知の上で、そうした「俳句」があるとして、いや、まあ、あるだろう、カジュアルにいえば、よく目にする俳句、優劣好悪は別にして、俳句と聞いて世間一般が思い浮かべるような俳句。

一方、そこから遠い位置にある句群はたしかあって、佐藤りえ句集『景色』も、そのひとつ。

一読、この句集は、俳句と思わないほうがいい、といった感想を軽はずみにも抱いてしまったそこに、価値判断の意味合いはない(つまり「これは俳句ではない」といった排他でもなく「俳句を超えたもの」といった礼賛でもない)。

反=俳句、非=俳句とまでは言わないにしても、冒頭に述べた「俳句らしい俳句」からは距離を置いた句群との感想をもったのは、ひとつには、無季の句を少なからず含み、かつ、それらが有季の句に増して秀逸であること。

あるいは、「科学的」な素材。

アストロノート蒟蒻を食ふ訓練  佐藤りえ(以下同)

西方のあれは非破壊検査光

あるいは、マボロシのような美しいシーン。

バスに乗るイソギンチャクのよい睡り

またバスに乗る透明な火を抱いて

あるいは、批評的/メタ俳句的な一句。

ここへ来て滝と呼ばれてゐる水よ

さらには、異形的な事物。

人工を恥ぢて人工知能泣く

人間に書けない文字や未草

かはほりに歌ををしへる女のありき

いずれも、人間の範疇と非=人間の範疇のはざま/境界/閾を思わせる。

人の道すれすれに行く傾(かぶ)きの覚悟は情事の最中にも発揮される。

望月に小便かかる体位かな

雅な季語「望月」へのこの態度・この所業にはちょっとにんまりしてしまう(悪いって素敵ですね)。

つらつらと挙げてきた句群、「俳句の国」から逃亡/脱出するかのような句群を、私自身、たいそう楽しんだのですが、きっと、この句集は、たくさんの善良な俳句(俳句のオーソドキシー)とは、遠い関係でいる、というより、それらとの関係において摩擦や軋みを生じ続けるのだろうな、と思います。

露霜や此の世はよその家ばかり

作者にはこれからもストレンジャーであり続けてほしいと、読者の身勝手として思ったことですよ。


佐藤りえ『景色』2018年11月/六花書林

2019-04-28

佐藤りえ #春 10句

クリックすると大きくなります。


#春  佐藤りえ

#春[ハッシュタグはる]来にけらし人界に
二ン月のボディビルダー割れて来し
眠る猫ひろごり給ふうららかさ
浮島に三角ベース流行りけり
春すごく吠える犬ゐる金剛寺
くびられて泡吹く赫いコカコーラ
をとうとも四十路でありぬチューリップ
百代の過客うつそり朝寝して
春や百尋に乳酸菌をどる
花過ぎて此方の樹下のきほひけり

2015-12-20

【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】佐藤りえ 舌、人魚、鮫の震える世界

【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
舌、人魚、鮫の震える世界

佐藤りえ


竹岡一郎さんの『進メ非時悲ノ霊ダ』三部作を興味深く読んだ。言わずもがなのことではあると思うが、タイトルは第二次世界大戦中に大政翼賛会が掲げたスローガン「進め一億火の玉だ」の捩りである。重ねて言えば前後編のタイトル直後の詞書も、第二次世界大戦中のプロパガンダを捩り、こてんぱんに無意味化したような惹句となっている(パアマネントはやめませう→パアマネントは褒めませう、石油の一滴、血の一滴→接吻一擲無智一擲、贅沢は敵だ!→洗濯は素敵だ!など)。

一連を順に読んでいくと、「爆破」「デモ隊」「議事堂裏」「開戦日」「国会」といった語彙がどんどん出てくる。作品の発表された時期と現実の時間軸を重ね合わせると、これは2015年9月19日未明に参議院本会議で可決された安全保障関連法と、法案の成立前後に繰り広げられたデモンストレーションに係る連作なのだろう、と類推される(「嗚咽し爆撃し墜つるイワンの馬鹿へ聖夜」ではトルコ空軍によるロシア空軍戦闘機撃墜事件頭を過ぎった)が寓意的な表現も多く、この連作は事件・事象「そのもの」を詠んでいるのではなく、それら事象によって「契機を得て書かれたもの」というふうに読んだ。

作品世界においての時系列としては、前篇では議事堂まわり(二度出てくる)で揉め事がありデモが繰り広げられ、後篇では開戦日を迎え戦闘が始まった、というフィクショナルな経過をたどっている。前篇・後篇では話者は国内にいて国内のことを詠んでおり、番外篇では話者がより広い場所へと、国も星も、時空をも飛び越えていってしまったようである。

禁野の鹿夜ごとの月に舌挿し入れ
善人が黙えらぶ世の鵙日和
千代ちやんの舌吸ふ秋の蛸断片
砲兵工廠勢ふ舌より紅葉づらん
末枯や喘ぐ拍子に舌失くす
わが舌は長夜の獄を舐め熔かす

前篇には「舌」のモチーフが頻出する。「善人が黙えらぶ世の鵙日和」には、沈黙するひとの頭上をかまびすしく鵙が鳴き叫ぶ=参加せず沈黙を守る善男善女をよそにデモのコールが続く、などという深読みを誘われる。「俺とならび飛ぶ雁すでに唖なるが」も声の有無を含む点で「舌」のモチーフに連なるものである。

禁野の鹿夜ごとの月に舌挿し入れ
けふ牡鹿かの巫を突きに突く
鹿よりも瘦せ爛爛と法学者
瞋り光り巨塔へなだれ込む鹿たち

「鹿」もたびたびいる。どうやら数が多く、さらにやりたい放題である。

開戦日不眠不休のハッカーら
開戦日死の商人が美男子だ
開戦日全霊で猫抱いて坐す
海底は人魚鳴きあふ開戦日
開戦日発電所から鮫!鮫!鮫!

後篇には「開戦日」の句が五つもあった。30句中に5句、しかし前半に集中しているので駄目押しというほどに印象が濃い。「開戦日全霊で猫抱いて坐す」は多様な開戦日の一コマとしてどさくさにまぎれて差し込まれていて、しかしそれはギャグ漫画でミサイルが着弾する家の、何にも気づいていない座敷の風景のようでもある。

極細の鮫が毎日首都へ降る
不死の鮫なみだの海に鰭磨き
鮫の背骨が折れてることは言はないで
島の遺骨の上の無恥なる我等へ鮫
開戦日発電所から鮫!鮫!鮫!
鮫の群より零戦が離脱せり
霊として鮫は獲物を選ばない
鮫食つて鮫の気持ちの黙示録
ねぢれ燃え地核へ進む鮫一塊
思春期の喉は斉しく鮫の歯痕
産めよ呪へよ鮫よ造兵廠すてき
まつろはず鮫の穿てる舌なれば

後篇では「鮫」大活躍である。前半の「舌」「鹿」は人間そのもののメタファであろうか、と唸りながら考えたが「鮫」はどうもそうではないようだ。不死の「鮫」と、発電所からの「鮫」と、地核へ進む「鮫」はそれぞれ別の状態・役割を持つ(のであろうと思われる)ものだからだ。位相は異なるが、これら「鮫」は人間を侵しうるもののことだろう、と思って読んでいくと、番外篇にこんな句が登場する。

歪む螺旋の路這ふ僕もいつか鮫

「螺旋の路」がDNAのことを指しているのだとして、進化の果てに「僕」もいつか「鮫」になるだろう、といっているのだとしたら、「鮫」は人間以外の、人間を侵しうるものという位置づけではなくなってしまう。

私の目には、「鮫」はずっと一連の中で(無機物有機物を問わず)デストロイヤー的なものをマスクする存在に見えた。それぞれの「何か」を直接見せない(塗りつぶしで不適切な語句を隠すように)処置として、あれやこれが「鮫」に置き換えられているのだろうか。「鮫」は一つの統一された象徴的意味合いの存在ではなく、「隠すもの」としての役割が一貫している、そうした用いられ方なのではないか。では、「人魚」はどうか。

海底は人魚鳴きあふ開戦日
軍払下品として人魚冷ゆ
主権即ち人魚に在れば吹雪く国会

アンデルセンの「人魚姫」では人魚の声はついに王子に届かず、人魚は自分の延命のために王子を傷つけることもできず、泡となって死んでいく。人魚は地上において無声の存在なのだ。「舌」が、肥大した「舌」そのものが、人間のメタファとして捉えられるとしたら、無声の存在である「人魚」は誰なのか。

モチーフを手がかりに読み進めつつ、だんだん頭の中に描かれていったのは、古賀春江やマグリットら、明快な色合いとフォルムで不可解な風景を繰り広げる、シュルレアリスムの絵画の風景だった。そういえばマグリット『集合的発明』の人魚は上半身が魚だ。海底で鳴きあっているのは、人魚姫の眷属ではなく、魚頭人足の、立ち泳ぎの集団なのかもしれない。

最後に一連のなかで最も好きな一句を引く。この「鮫」がとてつもなく大切なものの喩でないことを祈りたい。

鮫の背骨が折れてることは言はないで




榊 陽子 ふるえるわかめ 10句 ≫読む 

第448号 2015年11月22日
千倉由穂 器のかたち 10句 ≫読む

竹岡一郎
進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ
前篇舌もてどくどくする水平線を幾度なぞつてもふやけず諦めず舌が鳥になるまでパアマネントは褒めませう 30句 ≫読む

第447号 2015年11月15日
竹岡一郎
(スス)メ非時(トキジク)(ヒ)ノ霊(タマ)
後篇接吻一擲無智一擲惜しむべからず抱くまでは木琴聴いても正気が足りぬ億兆の新たなる終末に洗濯は素敵だ! 30句 ≫読む

第449号 2015年11月29日
竹岡一郎 進メ非時悲ノ霊ダ(ススメトキジクヒノタマダ)
番外篇:正義は詩じゃないなら自らの悪を詠い造兵廠の株価鰻上りに指咥えてる君へまつろう者を俳人と称えるが百年の計にせよ季無き空爆を超える為まつろわぬゆえ祀られ得ぬ季語へはじめてのうっちゃり 17句 ≫読む

2013-08-11

【週俳7月の俳句を読む】佐藤りえ どうしたでせうね、僕のあの帽子

【週俳7月の俳句を読む】
どうしたでせうね、僕のあの帽子

佐藤りえ



諸々により忙殺、塩漬けじみた日々を送るなか、合間を縫って清里高原に行ってみた。清里駅周辺の寂れっぷりに驚く。鉄道駅に最も近い民芸風の飲食店からして空き店舗なのだ。目抜き通りだったと思しき駅前の道も閑散として、営業している店も、買い物客もほとんど見かけなかった。夏休み前の平日とはいえ、予想を超える静けさだった。涼を求めてやってはきたがこれではいささか気分が涼しくなりすぎる。

遠い記憶の中で清里高原といえば木で出来たとんがり屋根の貯金箱にクッキー文字で「KIYOSATO」とか入っていた気がする。二等身のカップルが描かれたペナント、木工製品のキーホルダー、とかとか。

そういうもろもろのものたちはいつの間に、どこへ吸い込まれて消えてしまったのか? それとも長い時間をかけて、だんだんうすれて、見えなくなっていってしまったのだろうか。

ジャージー・ハットのミルクソフトを嘗め、夏富士を遠く眺めながら、なんともいえない気持ちがこみあげてくる。

ああそういえばこんなこと、いつかもあったっけなあ。いつだったっけなぁ、などという具合に。



どんみりと枇杷の実のありうす情け  鳥居真里子

「どんみり」という擬態語を初めて目にした。「どんより」でも「しんみり」でもないし、「鈍重」でも「みりみり」でもない。内側にくるしく(あるいは豊かに)おおきく種子を抱えた果実をどんみりと言われ、ぽってりとした形の、どちらかといえば屈託のありそうな趣にその言葉はふさわしいなと思った。薄情なほどに枇杷をかばい立てする気持ちが湧いてこない。

晴れた日はこわい顔して遠泳へ
  ペペ女

泳ぎの達者なひとはそうでもないかもしれないが、泳いでいる時の人の顔は怖かったり必至だったりすると思う。遠泳、なんという過酷な運動か。掲句の「こわい顔」が必ずしも泳いでいるひとのこと、あるいはこれから泳ぐからそうなるということを指し示しているのではない、とは思っているが、こわい顔→遠泳の流れや勢いは子供の直感っぽく正しいと思った。

我の目に映る鬼灯市を去る  岸本尚毅

一連、鬼灯市をひやかし歩く感じがひたひたと漂う中に、そこだけ異次元めいた一句に目が留まった。景色の中に、我の目に映る鬼灯市を「去ってゆく我」が見える。我の目を「見ている我」と、鬼灯市を映した「目を持つ我」と、三者の「我」がエッシャーのだまし絵的に浮かびあがってくる。

よしんば見ている「我」を召喚しないにしても、目の「我」と去る「我」の登場は捨てがたい。めくるめく「あたま山」の世界だ。

鶯谷のタオル黄色し桜桃忌  藤 幹子

紫陽花は家禽と思ふ撫でやすい  同

鶯谷にひるがえるタオルと言われると、それはああいうタオルだろうなという決めつけがある。美容院や床屋のものかもしれないのに、いややっぱりアレでしょう、と。劇中効果音の「ヒャー!」が寅さんシリーズ冒頭の音とどうしてもかぶって聞こえる「幸せの黄色いハンカチ」、あの映画もそういえばけっこうアレな映画である。桜桃忌にひるがえる黄色いタオルは、幸せを待っているのだろうか。



紫陽花祭りに近年出掛けてみると、紫陽花がどれだけもりもり咲いていても怖くならない。これが千畳敷の彼岸花だとほとんど彼岸だし、丘一面のコスモスや菜の花だと、なんだか「あはあは」(旧かな)してしまうのに。「家禽」に同意してしまうのはそういう下敷きがあるからで、なおかつそれを「撫でやすい」といううす情けぶり。灌木をてなづけるのは猛禽を従えるのとそんなに違うだろうか。違わないだろうし、紫陽花はそうやすやすと従ってはくれないだろう。陰性な緊張感をたたえる一句に「禽」の文字はふさわしい。


第324号 2013年7月7日
マイマイ ハッピーアイスクリーム 10句 ≫読む

第325号 2013年7月14日
小野富美子 亜流 10句 ≫読む
岸本尚毅 ちよび髭 10句 ≫読む

第326号 2013年7月21日
藤 幹子 やまをり線 10句 ≫読む
ぺぺ女 遠 泳 11句 ≫読む

第327号2013年7月28日
鳥居真里子 玉虫色 10句 ≫読む
ことり わが舟 10句 ≫読む

2012-10-14

佐藤りえ 愉快な人 10句

画像をクリックすると大きくなります。



週刊俳句 第286号 2012-10-14
 佐藤りえ 愉快な人
クリックすると大きくなります
テキストはこちら
第286号の表紙に戻る

2012-07-08

【週俳6月の俳句を読む】佐藤りえ 現象、従順、閾

【週俳6月の俳句を読む】
現象、従順、閾

佐藤りえ


自転車も網戸も浚ひ出されけり  佐川盟子

今や水辺という水辺に廃棄物はつきものというか、あらゆるものがうち捨てられている状況で、自転車や網戸が出てきたぐらいでは驚かない。「そんなものが出てきたのか!」という驚きを与えるのが句の本懐ではないだろう。では、本懐は何なのだろう?と考え込んでしまう。「ささやかな日常が泥濘にまみれてしまったことへの嘆き」?

たとえばこれを、震災の状況下のものとして読んでみると、そういう心境をあてはめることもできる。しかし、果たして、そういう読みでいいのだろうか? 前後の句の脈絡を見て、そのように推察することは私にはできなかった。また、そういう「当てはめ」はしたくない。澱みのなかから数珠つなぎで自転車と網戸が出てきた。そこで過不足なく読みを終わらせたい。


幽霊はときをり淡くなりにけり  藤田哲史

ときおり淡くなるのだから、濃厚なときもあるのである。自分、幽霊を見たことはないが、そういうものなのかな、と押しつけがましくなく説得されてしまった。

この句からはクリップボード片手に濃淡を見てとっているような、またはうす暗がりで両手を垂らして、ぼんやりと幽霊の明滅を眺めているような、そんな気配を得る。

「科学は裏切らない」という言辞がある(余談だが「…は裏切らない」「…の力を信じる」という言辞が嫌いである。そもそも裏切るとか裏切らないとかいう問題ではない)が、ここで「幽霊」はひとつの現象として認められ、眺められているのだ。幽霊の成仏が云々とか、その怨念の深さがどうとか、怖い、お寂しいとかいう言及ではない。


炒めると夏の野菜の透きとほる  北川あい沙

夏野菜は色合いの濃い、ビタミン類の含有量が多いもの、といった印象が強い。全期間的に手に入る(とはいっても品種改良や技術革新によりさまざまな野菜が季節を問わず手に入りやすくなっている状況にあるのだが)野菜よりもなにやら性格の強いものなのか、という印象もある。それらに、火がとおってしまうのである。やっつけられてしまうのである。初句の無防備さのせいだろうか、調理中のハイな状態、野菜を「やっつけてやった」感が読後ににじむ。性格の強いものたちが、従順になってしまったかのように。


ビニールの水も金魚もやわらかし  神野紗希

金魚すくいの帰り道。金魚の反応をみたり、愛でる気持ちからついつい巾着状のビニル袋を揉んでしまったりする、記憶のなかにある「あの感じ」が刺激される。揉んで確かめられるのは水の感触だけなのに、触れていない金魚も柔らかい、とすでにわかっている。この「わかっている」感が少々残酷で、なにか哀しい。そも、金魚が水と同じ柔軟さであるわけではない。存在が「やわらかく、たよりない」のだ。感触と存在感がさりげなく混同されている。そのことに認識の閾がゆらぎ、くらくらする。


浴衣着てどの町からもはるかなり  平山雄一

たよりない服装というのがある。たとえば水着とか(水着を「服装」といっていいのかどうかはここでは置く)。身体を被う面積の多少でなく、属性の問題なんじゃないかと思う。それを着ていることで「なに属性」であると表明できるか否か。そう考えて、浴衣はかなりたよりない服装かもしれない、と思う。

祭りや夜涼みといったハレを想定せず、なににも依らず浴衣を身につけてそぞろ歩いたとすれば、どこへ帰ればよいのか。また、たとえばそうした賑やかさを離れたあと、ふと、どうしたらいいのかわからないような心細さや、むやみな自由さにおそわれたりはしないだろうか。そんな時どの町も遠いな、と思うものなのかもしれない。



第267号
佐川盟子 Tシャツ 10句 ≫読む
藤田哲史 緑/R 10句 ≫読む
第268号
北川あい沙 うつ伏せ 10句 ≫読む
第269号
神野紗希 忘れろ 10句 ≫読む
第270号
平山雄一 火事の匂ひ 10句 ≫読む