2021-06-20
【週俳4月の俳句を読む】健康的で、今日的な 佐藤りえ
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2019-05-12
【句集を読む】異形の傾(かぶ)きと軋み 佐藤りえ『景色』を読む 西原天気
【句集を読む】
異形の傾(かぶ)きと軋み
佐藤りえ『景色』を読む
西原天気
いわゆる俳句らしい俳句、メインストリーム的な俳句と、措定っぽく、オーソドキシーを仮想することにあまり意味がなく、また危ういことは承知の上で、そうした「俳句」があるとして、いや、まあ、あるだろう、カジュアルにいえば、よく目にする俳句、優劣好悪は別にして、俳句と聞いて世間一般が思い浮かべるような俳句。
一方、そこから遠い位置にある句群はたしかあって、佐藤りえ句集『景色』も、そのひとつ。
一読、この句集は、俳句と思わないほうがいい、といった感想を軽はずみにも抱いてしまったそこに、価値判断の意味合いはない(つまり「これは俳句ではない」といった排他でもなく「俳句を超えたもの」といった礼賛でもない)。
反=俳句、非=俳句とまでは言わないにしても、冒頭に述べた「俳句らしい俳句」からは距離を置いた句群との感想をもったのは、ひとつには、無季の句を少なからず含み、かつ、それらが有季の句に増して秀逸であること。
あるいは、「科学的」な素材。
アストロノート蒟蒻を食ふ訓練 佐藤りえ(以下同)
西方のあれは非破壊検査光
あるいは、マボロシのような美しいシーン。
バスに乗るイソギンチャクのよい睡り
またバスに乗る透明な火を抱いて
あるいは、批評的/メタ俳句的な一句。
ここへ来て滝と呼ばれてゐる水よ
さらには、異形的な事物。
人工を恥ぢて人工知能泣く
人間に書けない文字や未草
かはほりに歌ををしへる女のありき
いずれも、人間の範疇と非=人間の範疇のはざま/境界/閾を思わせる。
人の道すれすれに行く傾(かぶ)きの覚悟は情事の最中にも発揮される。
望月に小便かかる体位かな
雅な季語「望月」へのこの態度・この所業にはちょっとにんまりしてしまう(悪いって素敵ですね)。
つらつらと挙げてきた句群、「俳句の国」から逃亡/脱出するかのような句群を、私自身、たいそう楽しんだのですが、きっと、この句集は、たくさんの善良な俳句(俳句のオーソドキシー)とは、遠い関係でいる、というより、それらとの関係において摩擦や軋みを生じ続けるのだろうな、と思います。
露霜や此の世はよその家ばかり
作者にはこれからもストレンジャーであり続けてほしいと、読者の身勝手として思ったことですよ。
佐藤りえ『景色』2018年11月/六花書林
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2019-04-28
10句作品 佐藤りえ #春
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#春 佐藤りえ
#春[ハッシュタグはる]来にけらし人界に
二ン月のボディビルダー割れて来し
眠る猫ひろごり給ふうららかさ
浮島に三角ベース流行りけり
春すごく吠える犬ゐる金剛寺
くびられて泡吹く赫いコカコーラ
をとうとも四十路でありぬチューリップ
百代の過客うつそり朝寝して
春や百尋に乳酸菌をどる
花過ぎて此方の樹下のきほひけり
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2015-12-20
【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】舌、人魚、鮫の震える世界 佐藤りえ
【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
舌、人魚、鮫の震える世界
佐藤りえ
竹岡一郎さんの『進メ非時悲ノ霊ダ』三部作を興味深く読んだ。言わずもがなのことではあると思うが、タイトルは第二次世界大戦中に大政翼賛会が掲げたスローガン「進め一億火の玉だ」の捩りである。重ねて言えば前後編のタイトル直後の詞書も、第二次世界大戦中のプロパガンダを捩り、こてんぱんに無意味化したような惹句となっている(パアマネントはやめませう→パアマネントは褒めませう、石油の一滴、血の一滴→接吻一擲無智一擲、贅沢は敵だ!→洗濯は素敵だ!など)。
一連を順に読んでいくと、「爆破」「デモ隊」「議事堂裏」「開戦日」「国会」といった語彙がどんどん出てくる。作品の発表された時期と現実の時間軸を重ね合わせると、これは2015年9月19日未明に参議院本会議で可決された安全保障関連法と、法案の成立前後に繰り広げられたデモンストレーションに係る連作なのだろう、と類推される(「嗚咽し爆撃し墜つるイワンの馬鹿へ聖夜」ではトルコ空軍によるロシア空軍戦闘機撃墜事件頭を過ぎった)が寓意的な表現も多く、この連作は事件・事象「そのもの」を詠んでいるのではなく、それら事象によって「契機を得て書かれたもの」というふうに読んだ。
作品世界においての時系列としては、前篇では議事堂まわり(二度出てくる)で揉め事がありデモが繰り広げられ、後篇では開戦日を迎え戦闘が始まった、というフィクショナルな経過をたどっている。前篇・後篇では話者は国内にいて国内のことを詠んでおり、番外篇では話者がより広い場所へと、国も星も、時空をも飛び越えていってしまったようである。
禁野の鹿夜ごとの月に舌挿し入れ
善人が黙えらぶ世の鵙日和
千代ちやんの舌吸ふ秋の蛸断片
砲兵工廠勢ふ舌より紅葉づらん
末枯や喘ぐ拍子に舌失くす
わが舌は長夜の獄を舐め熔かす
前篇には「舌」のモチーフが頻出する。「善人が黙えらぶ世の鵙日和」には、沈黙するひとの頭上をかまびすしく鵙が鳴き叫ぶ=参加せず沈黙を守る善男善女をよそにデモのコールが続く、などという深読みを誘われる。「俺とならび飛ぶ雁すでに唖なるが」も声の有無を含む点で「舌」のモチーフに連なるものである。
禁野の鹿夜ごとの月に舌挿し入れ
けふ牡鹿かの巫を突きに突く
鹿よりも瘦せ爛爛と法学者
瞋り光り巨塔へなだれ込む鹿たち
「鹿」もたびたびいる。どうやら数が多く、さらにやりたい放題である。
開戦日不眠不休のハッカーら
開戦日死の商人が美男子だ
開戦日全霊で猫抱いて坐す
海底は人魚鳴きあふ開戦日
開戦日発電所から鮫!鮫!鮫!
後篇には「開戦日」の句が五つもあった。30句中に5句、しかし前半に集中しているので駄目押しというほどに印象が濃い。「開戦日全霊で猫抱いて坐す」は多様な開戦日の一コマとしてどさくさにまぎれて差し込まれていて、しかしそれはギャグ漫画でミサイルが着弾する家の、何にも気づいていない座敷の風景のようでもある。
極細の鮫が毎日首都へ降る
不死の鮫なみだの海に鰭磨き
鮫の背骨が折れてることは言はないで
島の遺骨の上の無恥なる我等へ鮫
開戦日発電所から鮫!鮫!鮫!
鮫の群より零戦が離脱せり
霊として鮫は獲物を選ばない
鮫食つて鮫の気持ちの黙示録
ねぢれ燃え地核へ進む鮫一塊
思春期の喉は斉しく鮫の歯痕
産めよ呪へよ鮫よ造兵廠すてき
まつろはず鮫の穿てる舌なれば
後篇では「鮫」大活躍である。前半の「舌」「鹿」は人間そのもののメタファであろうか、と唸りながら考えたが「鮫」はどうもそうではないようだ。不死の「鮫」と、発電所からの「鮫」と、地核へ進む「鮫」はそれぞれ別の状態・役割を持つ(のであろうと思われる)ものだからだ。位相は異なるが、これら「鮫」は人間を侵しうるもののことだろう、と思って読んでいくと、番外篇にこんな句が登場する。
歪む螺旋の路這ふ僕もいつか鮫
「螺旋の路」がDNAのことを指しているのだとして、進化の果てに「僕」もいつか「鮫」になるだろう、といっているのだとしたら、「鮫」は人間以外の、人間を侵しうるものという位置づけではなくなってしまう。
私の目には、「鮫」はずっと一連の中で(無機物有機物を問わず)デストロイヤー的なものをマスクする存在に見えた。それぞれの「何か」を直接見せない(塗りつぶしで不適切な語句を隠すように)処置として、あれやこれが「鮫」に置き換えられているのだろうか。「鮫」は一つの統一された象徴的意味合いの存在ではなく、「隠すもの」としての役割が一貫している、そうした用いられ方なのではないか。では、「人魚」はどうか。
海底は人魚鳴きあふ開戦日
軍払下品として人魚冷ゆ
主権即ち人魚に在れば吹雪く国会
アンデルセンの「人魚姫」では人魚の声はついに王子に届かず、人魚は自分の延命のために王子を傷つけることもできず、泡となって死んでいく。人魚は地上において無声の存在なのだ。「舌」が、肥大した「舌」そのものが、人間のメタファとして捉えられるとしたら、無声の存在である「人魚」は誰なのか。
モチーフを手がかりに読み進めつつ、だんだん頭の中に描かれていったのは、古賀春江やマグリットら、明快な色合いとフォルムで不可解な風景を繰り広げる、シュルレアリスムの絵画の風景だった。そういえばマグリット『集合的発明』の人魚は上半身が魚だ。海底で鳴きあっているのは、人魚姫の眷属ではなく、魚頭人足の、立ち泳ぎの集団なのかもしれない。
最後に一連のなかで最も好きな一句を引く。この「鮫」がとてつもなく大切なものの喩でないことを祈りたい。
鮫の背骨が折れてることは言はないで
後篇:
番外篇:正義は詩じゃないなら自らの悪を詠い造兵廠の株価鰻上り
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2013-08-11
【週俳7月の俳句を読む】どうしたでせうね、僕のあの帽子 佐藤りえ
【週俳7月の俳句を読む】
どうしたでせうね、僕のあの帽子
佐藤りえ
諸々により忙殺、塩漬けじみた日々を送るなか、合間を縫って清里高原に行ってみた。清里駅周辺の寂れっぷりに驚く。鉄道駅に最も近い民芸風の飲食店からして空き店舗なのだ。目抜き通りだったと思しき駅前の道も閑散として、営業している店も、買い物客もほとんど見かけなかった。夏休み前の平日とはいえ、予想を超える静けさだった。涼を求めてやってはきたがこれではいささか気分が涼しくなりすぎる。
遠い記憶の中で清里高原といえば木で出来たとんがり屋根の貯金箱にクッキー文字で「KIYOSATO」とか入っていた気がする。二等身のカップルが描かれたペナント、木工製品のキーホルダー、とかとか。
そういうもろもろのものたちはいつの間に、どこへ吸い込まれて消えてしまったのか? それとも長い時間をかけて、だんだんうすれて、見えなくなっていってしまったのだろうか。
ジャージー・ハットのミルクソフトを嘗め、夏富士を遠く眺めながら、なんともいえない気持ちがこみあげてくる。
ああそういえばこんなこと、いつかもあったっけなあ。いつだったっけなぁ、などという具合に。
◆
どんみりと枇杷の実のありうす情け 鳥居真里子
「どんみり」という擬態語を初めて目にした。「どんより」でも「しんみり」でもないし、「鈍重」でも「みりみり」でもない。内側にくるしく(あるいは豊かに)おおきく種子を抱えた果実をどんみりと言われ、ぽってりとした形の、どちらかといえば屈託のありそうな趣にその言葉はふさわしいなと思った。薄情なほどに枇杷をかばい立てする気持ちが湧いてこない。
晴れた日はこわい顔して遠泳へ ペペ女
泳ぎの達者なひとはそうでもないかもしれないが、泳いでいる時の人の顔は怖かったり必至だったりすると思う。遠泳、なんという過酷な運動か。掲句の「こわい顔」が必ずしも泳いでいるひとのこと、あるいはこれから泳ぐからそうなるということを指し示しているのではない、とは思っているが、こわい顔→遠泳の流れや勢いは子供の直感っぽく正しいと思った。
我の目に映る鬼灯市を去る 岸本尚毅
一連、鬼灯市をひやかし歩く感じがひたひたと漂う中に、そこだけ異次元めいた一句に目が留まった。景色の中に、我の目に映る鬼灯市を「去ってゆく我」が見える。我の目を「見ている我」と、鬼灯市を映した「目を持つ我」と、三者の「我」がエッシャーのだまし絵的に浮かびあがってくる。
よしんば見ている「我」を召喚しないにしても、目の「我」と去る「我」の登場は捨てがたい。めくるめく「あたま山」の世界だ。
鶯谷のタオル黄色し桜桃忌 藤 幹子
紫陽花は家禽と思ふ撫でやすい 同
鶯谷にひるがえるタオルと言われると、それはああいうタオルだろうなという決めつけがある。美容院や床屋のものかもしれないのに、いややっぱりアレでしょう、と。劇中効果音の「ヒャー!」が寅さんシリーズ冒頭の音とどうしてもかぶって聞こえる「幸せの黄色いハンカチ」、あの映画もそういえばけっこうアレな映画である。桜桃忌にひるがえる黄色いタオルは、幸せを待っているのだろうか。
◆
紫陽花祭りに近年出掛けてみると、紫陽花がどれだけもりもり咲いていても怖くならない。これが千畳敷の彼岸花だとほとんど彼岸だし、丘一面のコスモスや菜の花だと、なんだか「あはあは」(旧かな)してしまうのに。「家禽」に同意してしまうのはそういう下敷きがあるからで、なおかつそれを「撫でやすい」といううす情けぶり。灌木をてなづけるのは猛禽を従えるのとそんなに違うだろうか。違わないだろうし、紫陽花はそうやすやすと従ってはくれないだろう。陰性な緊張感をたたえる一句に「禽」の文字はふさわしい。
■マイマイ ハッピーアイスクリーム 10句 ≫読む
第325号 2013年7月14日
■小野富美子 亜流 10句 ≫読む
■岸本尚毅 ちよび髭 10句 ≫読む
第326号 2013年7月21日
■藤 幹子 やまをり線 10句 ≫読む
■ぺぺ女 遠 泳 11句 ≫読む
第327号2013年7月28日
■鳥居真里子 玉虫色 10句 ≫読む
■ことり わが舟 10句 ≫読む
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