2020-08-30

「ありにけり」再考 神保と志ゆき

「ありにけり」再考

神保と志ゆき


はじめに

第21回山本健吉評論賞を受賞した堀切克洋「〈ありにけり〉をめぐる攻防 ―文語と口語のアマルガム」(俳句界2020年3月号125-140頁、以下「めぐる攻防」という。)を興味深く読んだ。筆者の巧みな文章力・構成力で、読ませる俳論である。

ごく大雑把に要約すると、「めぐる攻防」は、虚子の「繪に空白を存する叙法」〔注1〕や、これに先立つ大須賀乙字の批判などの議論を紹介しつつ、

〈ありにけり〉の用例は近代までひとつとして見られないこと
明治の言文一致運動による「である」体の確立

を踏まえ、口語の「である」+文語の「けり」による疑似的文語体〈でありにけり〉が出現し、〈ありにけり〉が生まれ増殖していったのではないかとする立論である。

大変に興味深い内容であったことから、自分でも、「めぐる攻防」の周辺事実について調べてみた。そうしたところ、むしろ、「めぐる攻防」の前提とする、前近代に〈ありにけり〉の用例は見られないという点は事実に反することが分かった。そして、「めぐる攻防」の結論も首肯できないと思われたことから、筆を執るに至った次第である。

前近代における〈ありにけり〉の用例

「めぐる攻防」は、「〈ありにけり〉の用例は近代までひとつとして見られない」とするが、この“無いことの証明”について、特に根拠は示されていない。もっとも前近代に〈ありにけり〉の用例がほぼないとするものとして、まさに〈ありにけり〉というピンポイントな対象についての先行研究である工藤力男「ありにけり--日本語雑記(4)」成城文芸 (212), 51-63, 2010-09があり、これは、ネット上で読むことができる〔注2〕

https://ci.nii.ac.jp/naid/110007702167

工藤論文では 井上士朗(1742-1812)の《松影のはや月にてぞ有にける》の用例があることから、「ごくまれに用いる人があったが、それは単発的だったようだ。」とする〔注3〕

もっとも、工藤論文は一茶の句も調べ〈ありにけり〉はなかったとするが〔注4〕、実際は一茶には複数の用例が存在する。

一茶の俳句データベース」にて〈ありにけり〉を検索すると、以下の19例がヒットする〔注5〕

《土雛も祭の花はありにけり》『八番日記』
《夏の虫恋する隙はありにけり》『七番日記』
《小童に打るゝ蠅もありにけり》『七番日記』
《人有れば蠅あり仏ありにけり》『文政句帖』
《蓼あれば蓼喰ふ虫ありにけり》『文政句帖』
《山苔も花咲世話のありにけり》『八番日記』
《苔にさへ花咲世話はありにけり》『発句集続篇』
《玉となる欲は露さへ有にけり》『定境集』
《草枕星も一夜はありにけり》『八番日記』
《星にさへあいべつりくはありにけり》『文政句帖』
《むつどのゝ花火はきずも有にけり》『八番日記』
《むつどのゝ花火も疵は有にけり》『梅塵八番』
《草の戸も衣打石はありにけり》『七番日記』
《日短かは蜻蛉の身にも有にけり》『文化三―八写』
《おるはたの下手(は)虫にもありにけり》『七番日記』
《一莚霰もほして有りにけり》『七番日記』
《炭竈も必(ず)隣ありにけり》『七番日記』
《都にもまゝありにけり鰒の顔》『享和句帖』

このうち《山苔も》と《苔にさへ》の句、《むつどのゝ》ではじまる2句には同一性があり、実質は17例となる。なお、工藤論文は動詞のテ形に接続して補助動詞として機能するものは除くべきと主張するが〔注6〕、これを前提としても、その対象は《一莚》の1句にとどまる。

また、短歌では、良寛(1758-1831)に、

《わが宿の軒端に春のたちしより心は野べにありにけるかな》

があり、「あり」と同じくラ行変格活用である「をり」については、工藤論文は除くべきとする動詞のテ形への接続であるが、岩田涼菟(1659-1717)に、

《凩の一日吹いて居りにけり》

という、より古く著名な句がある。

このほか、「めぐる攻防」そのものにも、大須賀乙字の論「月並俳句に就いて」を引用する中において、若非という俳人の《花に駕煩ふ人でありにけり》という前近代の用例が紹介されている。若非は天保時代の宗匠・八朔庵若非なる人物と見られるが〔注7〕、一方で前近代の用例を示しながら、用例は近代までひとつとして見られないとするのは、恣意的であろう〔注8〕

これらの用例の存在により、〈ありにけり〉の用例は近代までひとつとして見られないという事実はないことが分かる。少なくとも、前近代のこれら用例が存在する以上、むしろ他にも用例があるのではないかの解明が待たれる。

前記の一茶の句については、データベース化により発見が容易になっていたが、月並宗匠として近代以降顧られなくなった旧派俳人らの用例については、不明な部分が特に大きいであろう。今後の活字化、データ化が期待される。

〈ありにけり〉について

先に、乙字の論に出現する若非の用例について述べた。このことからは2つのことが言える。

1つは、明治の言文一致運動以前において、〈ありにけり〉ないし〈でありにけり〉の用例が存在していたという事実である。

もう1つは、大須賀乙字が、月並俳句の特色を示す例として同句を掲出していたということである(しかも、乙字は同句中の〈でありにけり〉の6文字には傍点を付して強調していた〔注9〕)。〈でありにけり〉が明治の言文一致運動を受けた新たな文体であったならば、同時代を生き、東京帝国大学文学部国文科を出た当代きっての俳論家乙字が、これに気付かず、かえって旧派宗匠による月並俳句の特色を示す例として〈でありにけり〉を挙げたことになってしまうのである。

大須賀乙字がこの「月並俳句に就いて」と題する論を発表したのは明治42年。

たまたまであり、まったく網羅的ではないが、全国の旧派宗匠を紹介し、その句を4句(春夏秋冬各1句)ずつ掲載した無界坊淡水編『俳諧千々の友 乾之巻』 (山田仁三郎、明治36)という、乙字の論に先行する書籍がデジタル化されたものを目にしたところ、

接木には恥た木振りて有にけり 秋養斎實阿〔注10〕

縁の遅速市の離にもありにけり 弄月園■風〔注11〕 ■口偏に金

と、複数の旧派宗匠による〈ありにけり〉の用例が確認できた〔注12〕。もとより、同書では〈ありにけり〉以外の、〈○りにけり〉の句形もさまざま確認できる。

《紙鳶切れて空の余波となりにけり 立羽不角》
《梅咲いて朝寝の家となりにけり 貴志沾洲》

のような江戸中期の作家の創案による言いまわしも、やがて月並俳諧の常套句法となったと指摘されているところである〔注13〕

さらに言えば、〈ありにけり〉は言うまでもなく〈けり〉を包含する。連歌時代の選集、宗因、芭蕉、蕪村、一茶、子規の句に現れる切字を調査した労作、川本皓嗣「新切字論―連歌から芭蕉、現代俳句まで」『俳諧の詩学』(岩波書店,2019)によれば、「「けり」が目を引く切字の一つとして用いられるようになったのは、江戸も末期になって、ようやく一茶が現われてからにすぎない。」とされる〔注14〕

〈けり〉の使用頻度が増えた江戸後期、これに伴って〈ありにけり〉の句形も、月並俳諧の常套句法の〈○りにけり〉の1態様として行われるようになっていき〔注15〕、後に虚子が「繪に空白を存する叙法」としてこのような言いまわしを擁護し、より用例が増えるに至ったと見るのが自然ではないだろうか。

他方、「めぐる攻防」の立論は、〈ありにけり〉の用例は近代まで見られないという状況証拠と、明治の言文一致運動という一般論に依拠したものであった。しかし、用例は前近代へと遡ることができ、明治期における出現とはいえない以上、明治の言文一致という一般論と併せることで立論を維持することは困難と思われる。

〈でありにけり〉について

〈でありにけり〉について、明治の言文一致運動より前に、天保期に若非による用例が存在したことは前記のとおりである。

また、明治の言文一致運動の源流は、阿蘭陀通詞による蘭文和訳にあるとされるが、蘭語訳書に「である」体の訳文が見える早い事例である『ドゥーフ・ハルマ』(1816年成)よりも〔注16〕、〈ありにけり〉を含む一茶の次の句は先行している。

〈都にもまゝありにけり鰒の顔》 享和3(1803)年
《日短かは蜻蛉の身にも有にけり》 文化3(1806)年
《一莚霰もほして有りにけり》 文化10(1813)年
《おるはたの下手(は)虫にもありにけり》 文化11(1814)年
《小童に打るゝ蠅もありにけり》《炭竈も必(ず)隣ありにけり》 文化12(1815)年

このような時間の推移からも、言文一致→〈でありにけり〉→〈ありにけり〉は成り立ち難いと思われる。

なお、やはり「一茶の俳句データベース」によると、「である」の活用「であり」について、「でありしよな」の句形9例、「でありしよ」の句形1例が見られた。

無論、口語としての「である」はより古くから存していた上〔注17〕、そもそも俳諧は俗談平話を取り込んだものであったから〔注18〕、前近代に「である」体が用いられていたとしても不思議なことではない。

ただし、明治期以降、〈ありにけり〉の1形態である〈でありにけり〉が目に付きやすくなったという量的変化があったとすれば、言文一致運動によって確立された「である」体が身近になったことが影響した可能性は否定できない。もっとも、言文の一致と混用はむしろベクトルが違うのではないかなど、解明されるべき点があろう〔注19〕

結語

「めぐる攻防」は実に巧みな文章である。歌舞伎座や名古屋市役所の屋根の比喩、高温多湿の島国におけるネクタイといった比喩が用いられ、読み手に具体的イメージを喚起させ、論へと読み手を惹き付けるという、有力な俳人ならではの表現力がある。

しかし、俳論にあっても作品の解釈・鑑賞ではなく、ある事実について論ずる場合、まずは事実そのものが探求されなければならない。巧みな筆致と正確な事実の把握は車の両輪であろう。フィクショナルな断定はご免蒙りたい。



【脚注】

〔注1〕虚子の「繪に空白を存する叙法」についての先行する俳論としては、平井照敏「虚子と現代俳句」日本文学研究資料刊行会編『近代俳句』(有精堂出版、昭和59)162-167頁、虚子の句中の〈にけり〉の用例数の調査を含む、石井庄司「十 「にけり」」『俳句の文法論議』(東京美術、昭和57)171‐199頁が管見に触れた。

〔注2〕「めぐる攻防」が、先行研究である工藤論文の存在に言及していないという問題点については、今泉康弘「受賞作品を読む 思想としての「ありにけり」」俳句界2020年8月号107頁の指摘する通りである。
〔注3〕同論文57頁。
〔注4〕同論文57頁。

〔注5〕このうち、《人有れば蠅あり仏ありにけり》《一莚霰もほして有りにけり》の両句は、「めぐる攻防」で紹介されていた浅野信「「あり」及び「ありにけり」究論(二)」俳句研究1936年3月号78-88頁(該当箇所は85頁)に例証として掲載されており、「一茶の俳句データベース」に拠らずとも、「めぐる攻防」の筆者にはその存在が明らかであったはずである。

〔注6〕同論文57頁。

〔注7〕天保時代の代表的選集を収録するとの意図による冬至庵庚年編『俳諧今七部集』(『俳諧大辞典』(明治書院、昭和53)45頁)に収載された『落穂集』(天保8年11月)の序は八朔庵若非による(≫参照)。

また、天保年間頃刊行になる、江戸の地名を題した諸家発句集である三秀園流芝編『ふらつき』では、若非が千駄木を担当している(≫参照)。

〔注8〕「若非の用例はどう考えれば良いのであろうか」(栗林浩「受賞作品「〈ありにけり〉をめぐる攻防」を読む 評論の面白さと論者の筆力」俳句界2020年8月号105頁)との指摘は正しい疑問であろう。

〔注9〕乙字遺稿刊行会編『乙字俳論集』(乙字遺稿刊行会、大正10)143頁

〔注10〕同書31丁表。東京市の宗匠。

〔注11〕同書91丁裏。〓は口へんに金。秋田県秋田郡前田村の宗匠。春の句が置かれるべき4句中の1句目の句であるが、このままでは無季句となることから、離は雛の誤植の可能性がある。

〔注12〕前記工藤論文は、「『子規全集』によって二万三千六百句をみたが、「ありにけり」には出あわなかった。」とするが(同論文57頁)、子規死去の翌年に発刊された旧派の書物に、東京のみならず、秋田の郡部の宗匠の句にも用例があることからすると、今後さらに旧派の用例が調査される必要があろう。

〔注13〕白石悌三、尾形仂編『鑑賞 日本古典文学 第33巻 俳句・俳論』(角川書店、第5版、平成3)142頁

〔注14〕同書110頁。ただし、一茶という非凡な俳人の用例を、幕末の用例として一般化できるのかという問題はある。旧派俳人の用例の活字化、データ化が待たれるところである。

〔注15〕明治から一茶の時代に遡るとなると、近時の意欲的な論考・長谷川櫂「近代俳句は一茶からはじまる」俳句界2020年1月号が想起されるが、詳細に検討をしているわけではないため深入りはしない。

〔注16〕山本正秀『近代文体発生の史的研究』(岩波書店、昭和40)66-67頁、杉本つとむ『江戸時代翻訳語の世界』(八坂書房、2015)580頁。ただし、『近代文体発生の史的研究』74頁によれば、蘭文和訳のほか、漢学者の講釈・講談用語、僧侶(真宗、禅宗)の説教用語などでの使用例もあるとされる。

〔注17〕例えば、太田牛一『信長公記』に、「堀田道空さしより、是れぞ山城殿にて御座候と申す時、であるかと仰せられ候て」とある、織田信長が斎藤道三との対面の場面で「であるか」との語を発したエピソードは、近時の映像作品にも取り入れられ著名と思われる。

〔注18〕『芭蕉翁二十五箇条』の「俗談平話をたださむがためなり」。なお俳句・俳諧における口語使用についての近時の論考としては、神野紗希「口語俳句の技巧(レトリック)」(2018年4月号~2019年3月号)がある。

〔注19〕「である」体を確立したとされる尾崎紅葉は秋声会を率いた新派俳句の一方のリーダーであり、〈でありにけり〉が言文一致と関係するものであれば、両者の関連の有無についても解明が必要であろう。

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