成分表82 一句a
上田信治
(「里」2015年7月号より改稿転載)
奇形的なほど短いことばからなる俳句という表現が、ほんとうに何かの切片であり一部分であることによって成立しているのだと考えてみる。
部分とか全体とかは基準の取り方だと知った上での、頭の体操である。
一句aは、それ自体であると同時に、aをふくむ何かより大きなものAの一部であることによって成立している(とする)。
その句aに季語があれば、その句はまず季語のあらわす時空間というAの一切片である。
その句aが「写生」のような特有の方法によって書かれていれば、その句は「写生」という試行全体をAとし、その方法が前提とする価値の一達成として成立している。
その句aが読み手のナルシズムを刺激するとしたら、その句は、人間のナルシズムの物語というAの、グッと来る一場面として成立している。
一句aは、同時に無数のAの一部分としてある。
一句aは、一回限りのaでもある。どんな句にも、それを書いた人がいて、人が共有できない消息というものがあるからだ。
そして(ややこしく、かつ、当たり前の話だけれど)その「共有できなさ」が共有されなければ、つまり、そういうふうに書かれていなければ、一回限りのaであることは失われてしまう。
どこにも属しようのない、その人だけに許された一回限りの書き方を発明して書くことも、より多くのAとともにあることをしながら、一回性に、指一本をかけて書くことも、方法としてある。
星空のやうな髪型でもカツラ 北大路翼
雀みな梢を下りて梅雨夕焼 村上鞆彦
具体的な句を目の前に置いてみると、一句は、その句の一回限りの出来事aとしての消息をつたえ、それを起点として「俳句」とか「挨拶」とか「さびしさ」とか「風雅」とか「青春」とか、ありとある大きなAの一部としてあることが、なんというか、分かる。
なぜ、そんなふうに書けて、そんなふうに分かるのだろう。
私たちは孤独なようでいて、ものすごく多くのAを、共有しているということか。
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