2022-03-20

田中裕明【空へゆく階段】№63 花照鳥語① 旅人かへらず

【空へゆく階段】№63
花照鳥語① 旅人かへらず

田中裕明

「晨」第67号(1995年5月)


昨年、筑摩から出ていた定本西脇順三郎全集が完結して、ところどころ拾い読みして楽しんでいる。「じゅんさいとすずき」という随筆集の中で次の文に出会った。
シェイクスピアが言ったように「旅人はかえらない」。永遠の旅人も人生の旅人も永遠に去ってしまった。
そうかこの言葉はシェイクスピアの台詞だったのか。『旅人かへらず』というのは昭和二十二年に刊行された順三郎の二番目の詩集である。一六八節からなる一編の詩で構成されたこの詩集は次のように終わっています。
枯れ枝の山のくずれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる薮を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず
うまいものだ。モダニズムと言葉の藝が見事にとけあっている。この結句が英国の詩人=劇作家の言葉でもあると知って、またこの長詩そのものにふくらみと奥行きが生まれた。そういうことってありますね。まあ自分が知らなかっただけなのだけれど。豆腐が好きで、せっせと食べていたら、自分のお気に入りの詩人も豆腐愛好家だとわかって、それから毎晩の湯豆腐がうまい、というのに似ている。

「たび」という言葉も古代からずいぶん意味が変わってきている。古代においては、生まれたところに定着して住むか。年中歩きまわって渡世するかの二つの生き方しかなかった。後者のくらしが「たび」であり、旅人とは「日々旅にして旅を栖とす」るものの意でしょう。現代にあっては、年中歩きまわってのくらしというのは全くのマイノリティだが、逆に生まれたところに定着して住むということも少ない。それも旅だと見ることもできます。西脇順三郎も東京に生まれなかったから、自分は東京に対しては「たびびと」だし、エリオットはロンドンに対しては「渡り」だと言っている。

それならばみんな旅人だということになってしまって、旅は芭蕉の言う意味では詩のモチーフにならないということになる。これはちょっと困る、気がする。現代ならば芭蕉は伊賀上野を一度も出ずに定住の詩を書きつづけるのだろうか。現代俳人が旅吟をものするのもある意味では滑稽である。

でも芭蕉の言うように、流れる年月もまた旅人だということなら、これは昔もいまも変わらない。現代においても、過ぎたことはかえらない。この「たびびと」は詩のモチーフとして永遠に意味をうしなわないだろう。

ところで「旅人はかえらない」という台詞シェイクスピアのどの芝居にあるのか知ら。


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