【週俳12月の俳句を読む】
空想による雑談
瀬戸正洋
プルタブは墓標と思ふ土に雪 川田果樹
プルタブは墓標である。墓標とは墓石を立てるまでの墓地に立てておく角柱のことである。雪が積もっている。
冬の蜂その足跡は生きてゐる 川田果樹
冬の蜂の足とはぶらさがっているものである。冬の蜂の足跡は存在しない。地に残された足形、成し遂げた実績そのものも存在しないのである。
親指を引いて漲る冬のパー 川田果樹
ゴルフは知らない。冬の「パー」といわれても解らない。親指を引いたら何かが漲る。それもよく解らない。
寒濤や骨締めつける腕時計 川田果樹
岩に砕け散る波から腕時計を意識した。意識するとはそれが気になることである。不快なことではある。
百単語つらぬくリング神渡 川田果樹
英単語を覚えるためのリングである。神渡とは陰暦十月の頃の西風である。試験は神様にお願いするだけでいいのである。
骨格の弾けて戻る嚏かな 川田果樹
嚏をすると骨格が弾ける。嚏をすると骨格が弾けて元に戻る。嚏は骨格を尊敬している。
ペリカンや落葉の如きのどぶくろ 川田果樹
のどぶくろは示威行為のためのものである。のどぶくろは毒を生成したりもする。ペリカンののどぶくろのための落葉である。のどぶくろとは落葉のことである。
しあはせがながびかぬやう毛糸巻く 川田果樹
不幸せなときは不安になる。幸せなときも不安になる。不幸せも幸せも同じことなのである。故に、何かをはじめるのである。故に、毛糸を巻くのである。
繙けば猿立ち上がるクリスマス 川田果樹
ひとは自分勝手である。知識に触れるとすぐに立ち上がる。クリスマスであるからすぐに立ち上がる。
数へ日のあちこちに置くマグカップ 川田果樹
あと僅かである。ただそれだけのことである。あたふたするほど純粋ではない。お目出度くはない。あちこちに置きたければ置けばいい。マグカップとは、少し大きめのコーヒーカップのことである。
乳粥の零れより起つ雪女 竹岡一郎
乳粥とは釈迦が体力を回復させたといわれる食べものである。そののち釈迦は瞑想により悟ることができたとあった。悟るなどといわれると胡散臭さを感じてしまう。それより、その零れより真っすぐに立つ雪女に清々しさを感じてしまう。
帯解の子へ勾り橋捩れ橋 竹岡一郎
帯解とは七歳の女児がはじめて帯を締める儀式である。儀式とは法やしきたりなどにのっとったきまりのことである。橋とは何らかの障害を越えて道路や鉄道などを通す構築物のことである。勾ること捩じれること橋を渡ること、生きることの面倒くささを感じる。
帰り花滅びの歌をはつか羞ぢ 竹岡一郎
季節とは異なって咲く花を帰り花という。一度身請けされた女がふたたび遊女となることを帰り花という。二十番目の日のことをはつかという。ものごとの一端がかすかに現れるさまのことをはつかという。滅ぶことには異論はない。羞じることにも異論はない。
虎落笛たふとき魄に碧き塞 竹岡一郎
魄について思い入れはない。たふときについても思い入れはない。他人の自由を奪うことにも思い入れはない。碧くても碧くなくてもかまわない。虎落笛を聞くと不安になることもある。
世は蠱毒甕を覆へる室の花 竹岡一郎
最後に生き残った虫を毒として用いる。これは理にかなっている。平凡な暮らしとは呪術にかかっているようなものである。室で花を咲かせようとすることは呪術にかかっているようなものである。
皸の指が緻密な罠描く 竹岡一郎
単純な罠であっても緻密である。そのことは感じさせなくてはならない。ひとであるならばなおさらである。はじめに「皸の指」と置いたことで益々緻密さは増していく。
逆恩を受けし汝こそ小春の咒 竹岡一郎
逆恩とはいかにもにんげんらしい。自由に生きることが必要なのである。呪うことなど疲れるだけである。余計なことをしたから逆恩など考えることになってしまったのである。何もしない方がいい。
耳鳴りに血と眼が睦む雪の鹹 竹岡一郎
どうしてもできないことをしたいと思う。そんなとき存在していない何かが必要なのである。
白炭と化す銃身に月測る 竹岡一郎
白炭とは炭のことである。銃身とは銃弾が通過していく筒の部分のことである。測るとは量を調べることである。推量する。予測するという意もある。月を測るとある。太陽を測るのではない。
城址轟く猟夫と狒狒の受け答へ 竹岡一郎
猟夫と狒狒との対話である。ひとと妖怪との対話である。これほど有意義なことはない。
十二月八日躱せば血が終る 竹岡一郎
岩波文庫「日本国憲法」を読む。「大日本帝国憲法」「パリ不戦条約」「ポツダム宣言」「降伏文書」「日本国との平和条約」「日米安全保障条約」「英文 日本国憲法」が付録にある。
沈む柱は海溝を統ぶ鮫の嗚咽 竹岡一郎
鮫はむせび泣いている。まとまることは危いことである。そのきっかけを得ることは不服である。
饒舌に着ぶくれ逆恩愧ぢぬ彼奴 竹岡一郎
饒舌は醜い。着ぶくれることはしかたがない。逆恩といっても驚かない。日常茶飯事である。誰も恥じたりはしない。誰も後悔などしない。
閘門や色なす鬼火敢へて堰く 竹岡一郎
怨念が火となったものが鬼火である。堰くは閘門を強調している。血相を変えるとひずみが生まれる。そのひずみから鬼火が生まれるのである。
毛皮から血の粒除く簸るやうに 竹岡一郎
血の粒だから除くことができる。血の粒だからふるいにかけることができる。
耳塚聴けり鼻塚嗅げり餅搗を 竹岡一郎
首を弔った塚を首塚という。耳を弔った塚を耳塚という。鼻を弔った塚を鼻塚という。首、耳、鼻が武功の数を証したのだという。餅を搗くことが供養になる。たった数百年前のはなしだと思うと複雑な気分になる。
牛告げし事変をずらす世継榾 竹岡一郎
事変とは小規模、短期間の国家紛争、騒乱とあった。跡目、相続、時代錯誤のような気がする。最後のひと文字の「榾」が何とも微妙である。
凍つる分岐器へと注ぐ指の雨 竹岡一郎
分岐とは行き先が別れることである。分岐器とは車両の進路を選択する機器のことである。冷たい雨が降っている。霙になるのかも知れない。雪になるのかも知れない。その存在を認めたいのかも知れない。
誰何せよ澄める屍が氷湖割る 竹岡一郎
屍を澄めるとしたのは精神の問題である。屍が氷湖を割るとしたことも精神の問題である。屍とは死んでまだ葬らないからだのことである。
軋みけり魂ずれ著き傀儡師 竹岡一郎
魂はずれるものなのである。ずれれば軋むものなのである。魂のずれを修正する。運の流れはよくなる。傀儡師に偏見を持ってはいけない。傀儡師に頼ればいいのである。
熊裂けて梁のわが魔を降し得ず 竹岡一郎
梁とは柱などを支点として水平に渡すものである。魔とは不思議な力でひとを迷わすものである。要するに魔とはこころの揺れのことである。一瞬の判断、それを誤ることを魔が差すという。注意深く生きることにも限界はあるのである。
逆恩を糺す鬼火の結晶化 竹岡一郎
逆恩であるかないかは時間が決める。その時々ではよくわからないものである。だから鬼火なのである。鬼火とは気体である。鬼火とは液体である。鬼火とは個体である。鬼火とは鬼火である。
すくひ放題やつめうなぎへねぶりの血 竹岡一郎
掬うと救うとでは雲泥の差がある。だが、掬い放題のやつめうなぎには何らかの救いが必要である。ねぶりとはねむることである。
息白し人死の毎かはる番地 竹岡一郎
番地とは住居表示のことである。地番と番地の違いについて確認したことがあった。名刺に地番を入れたひとがいたからである。
吐く息は白くなる。ひとは生きている。番地は同じである。だがそこに住むひとは変る。宛先不明の年賀状が戻ってくる。
鐘氷る巨眼の化石あざらけし 竹岡一郎
化石がある。巨眼である。眼は生きているものなのである。すべてのものが氷っている冬の日。氷った鐘が響いている。
鬼の読経はいつのまに寒茜色 竹岡一郎
鬼とは超自然的な化けものである。その鬼が経を読んでいる。冬の西の空はいつのまにか茜色に染まっている。
咳きや轆轤の律にまつろはず 竹岡一郎
轆轤を回している。何があろうと轆轤を止めてはならない。集中しなくてはならない。咳きという偶然の出来事から何らかの新しさを感じたりもする。
鷹鳴くが殯の鏡もゆる証 竹岡一郎
殯の儀礼としての鏡なのである。天真爛漫であることの理由など必要ないのである。
雪女眼窩の棘へ緋の息吹 竹岡一郎
眼窩とは顔面骨のくぼみである。棘とはもつれからみあっていることをいう。雪女には眼がないのかも知れない。息吹は緋色なのかも知れない。
獄門の跡地が舞台漫才冴ゆ 竹岡一郎
罪人の首をさらした場所である。漫才とは滑稽な掛け合いや言い合いで笑わせる芸である。笑わせることは残酷なことなのである。漫才は平安時代に成立した芸だといわれている。
眉引くに閨の余韻を夕霧忌 竹岡一郎
遊女夕霧太夫の忌日である。ながれるような上五と中七である。遊女が生きるとはながれるようでなくてはならないのかも知れない。
骨の手の忽と銭置く夜鷹蕎麦 竹岡一郎
夜鷹とは下級遊女のことである。遊女に下級上級があるのである。ひとにも下級上級があるのである。故にひとはみな平等でなくてはならないのである。骨から寒さを感じる。忽からも寒さを感じる。
生殖や小禽に似て病む鬼火 竹岡一郎
生殖とは厄介なものである。小禽とは厄介なものである。病む鬼火とは厄介なものである。愛することは厄介なものである。憎むことは厄介なものである。
雪兎月は和毛を与へたし 竹岡一郎
月は雪兎の独壇場である。太陽は存在さえも許されない。与えるから和毛なのである。これは絶対なのである。
鎌鼬跋扈の痕も顔彩る 竹岡一郎
自由にふるまった後は何もかも消し去りたいものである。その痕跡などもっての外のことなのである。
焼くや縊るや狐火嚙んで髪しごき 竹岡一郎
焼く縊る嚙むしごくのである。「狐火」「髪」は、その空想を助けるものなのである。
「あたしの羽」虚空の冴えをしふねく撫で 竹岡一郎
執着心、執念深さ、しつこさ、やさしさなどを消し去る行為である。軽くふれてやさしく動かす。「あたしの羽」だからなのかも知れない。虚空の冴えだからなのかも知れない。
雪の胚はらむ天命うつろ貝 竹岡一郎
雨とは多細胞生物なのである。雪とは多細胞生物なのである。雨は雪を宿すのである。うつろ貝であることは天命なのである。
除雪車を積み白炎の座礁船 竹岡一郎
座礁した船には除雪車が積まれている。船に積まれた除雪車は白炎をあげて燃えている。
崖たり囚徒たり凍鶴が星かくまふ 竹岡一郎
凍鶴は星をかくまう。かくまうことは罪悪である。かくまうことは正義である。囚徒とは牢獄に入っている善人のことである。
磐に啓くが狼の智慧と声 竹岡一郎
岩盤に真実は存在する。ありのままに把握し見極め認識力を持つものを狼という。声とはのどにある特殊器官をつかって出す音のことである。
敬虔の乳噴く天を雪女 竹岡一郎
深く敬わなくてはならない。自分を殺さなくてはならない。雪女でなければならない。乳とは哺乳類が乳幼児に栄養をあたえ育てるためのものである。
梟が螺旋の夜を連れてくる 村田篠
梟は「商売繁盛」「健康祈願」の縁起物といわれている。螺旋とは三次元曲線の一種である。回転しながら回転面の垂直方向へ移動する曲線である。曲線とは「商売繁盛」「健康祈願」の縁起物といわれている。
煙突のてつぺん点滅して寒し 村田篠
高い煙突である。煙突のてっぺんには灯がともっている。それも点滅している。安全のための点滅である。寒々とした景である。
山の端のかたちに燃えて遠い火事 村田篠
山と空とが接している境のことを山の端という。山が燃えているのではない。火事によって山の稜線がくっきりと浮き出ているのである。
襟巻きをして親切な警備員 村田篠
思いやりを持っているひとを尊敬する。他人のためにつくすひとを尊敬する。警備するひとを尊敬する。警備とは身体に対する危害の発生を警戒防止することをいう。寒い日の襟巻はことのほか温かい。
組み敷いてみればサンタクロースかな 村田篠
ひとがいる。サンタクロースもいる。善人としてふるまうこともある。悪人としてふるまうこともある。組み敷かれているサンタクロースは何を思っているのだろう。
北風は右から吹いて三丁目 上田信治
事実ではないはずだが事実のように思ってしまう。「右から吹いて」でおやっと思った。「三丁目」で再びおやっと思った。北風はますます強くなる。北風は寒いから苦手である。
黄色くてあたたかコインランドリー 上田信治
冬の日のコインランドリーはあたたかい。サッシ一枚の戸の内と外とでは雲泥の差である。黄色とは脳髄のことである。脳髄も黄色になればあたたかくなる。
手を借りて脚立をおりる冬の空 上田信治
老人の足の骨折の原因の多くは脚立が関係している。果実の収穫、庭での剪定、脚立の出番はことほか多い。老人の足の骨折は生死にかかわる重大事である。冬の空は冷たく、そっ気ない。
誰もゐない塩と胡椒とテーブルと 上田信治
テーブルのうえには塩と胡椒が置いてある。椅子に腰掛けそれを見ている。静かである。孤独ではない。
この空かこの青空のふゆのそら 上田信治
この空である。この青空である。このふゆのそらである。生きている。幸福であると思う。
セーターで見分けてゐたり兄の友 岡田由季
区別することを見分けるという。兄の友であることを理解した。特定のひとであることを理解した。セーターとは編むものである。編むことによってつくられた上着の一種である。
始まつてゐる教室へ綿虫と 岡田由季
罪悪感はある。動揺もしている。綿虫はこころの揺れをおさえてくれている。綿虫は親友である。
転送の電話枯野の端に受く 岡田由季
たまたま枯野の端にいた。枯野の端にいたことは偶然である。端にいたことは幸せである。端とは居心地がいいところなのである。
亀固く蛇やはらかに冬眠す 岡田由季
亀は冬眠をする。蛇は冬眠をする。ひとは冬眠をする。誰も彼もが冬眠をする。眠るとは心身の活動が休止することである。眠るとは無意識の状態になることである。固「く」、やはらか「に」とはこころが自然であるということである。
テノールの食ひ込んでくる冬の夜 岡田由季
深く入り込んでくる。限界を越えて入り込んでくる。その部分をなくしてしまう。音(テノール)はこころに食い込んでくる。冬の夜のこころに食い込んでくる。
生という枯れ野の空の果てとしか 福田若之
生きるとは積極的なことである。生きるとは消極的なことである。枯れ野の空の果てとは積極的なことである。枯れ野の空の果てとは消極的なことである。
偽の木に金の林檎を吊る冬至 福田若之
太陽の機嫌を取っている。偽の木に金の林檎とは西暦2023年12月の日本(世界)のことである。
はやぶさに都市は夜が来るたび滅ぶ 福田若之
はやぶさは生きている。都市は夜が来るたびに滅ぶ。都市は朝が来るたびに滅ぶ。都市は昼が来るたびに滅ぶ。都市ははやぶさが滅んだときに甦るのかも知れない。
暖炉に火ビンゴ!と指を鳴らし笑む 福田若之
ビンゴと叫ぶことは罪悪である。指を鳴らすことは罪悪である。暖炉の火が燃えていることは罪悪である。笑うことは罪悪である。
年の瀬の雪の曇りの奥の月 福田若之
あるはずだと思うことは錯覚である。ないはずだと思うことは錯覚である。年の瀬も雪も曇りも奥の月も何もかもが錯覚なのである。
■川田果樹 ペリカン 10句 ≫読む 第868号 2023年12月10日
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