2024-01-14

三島ゆかり 【句集を読む】清水径子『雨の樹』を読む

【句集を読む】
清水径子雨の樹』を読む

三島ゆかり


清水径子『雨の樹』(角川書店、二〇〇一年)について書く。作者は秋元不死男、永田耕衣に師事、耕衣没後『らん』を創刊。本句集は九十歳で上梓した第四句集。I~IVの四章からなる。

Ⅰ.

まずは順不同で何句か見てみたい。

露なんぞ可愛ゆきものが野に満つる  清水径子(以下同)

巻頭句である。「露」は王朝和歌以来はかなきもののたとえに用いられるのが通例であるが、それを「可愛ゆきもの」と捉えてみせる。本句により、以後冥界と幾たびも行き来することになる径子ワールドの扉を開ける。

朝顔はさみしき色をとり出しぬ

人滲むやうに菫はすみれいろ

全体に植物あるいは色と取り合わせた句はかなり多い。それを基本的なトーンとして、心象の世界へ出入りするような進行となっている。

白桔梗よりも古風な撫で殺し

人間はまたも謝る月の下

「撫で殺し」と言えば「撫で殺す何をはじめの野分かな三橋敏雄」思い出さない訳にはいかないし、並べられたもう一句は広島の原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を踏まえた「あやまちはくりかへします秋の暮三橋敏雄」をも思い出させる。奥付によればこの句集は二〇〇一年十二月二〇日発行で、三橋敏雄は先立つ同年十二月一日に亡くなった。訃報を聞いて句集に入れることはまず不可能な期間だと思うので、まさに「奇しくも」というところであろう。なおこの年の九月十一日にはアメリカで同時多発テロが起きている。

とはいえ、社会で起きた事件と結びつけて読む必要もないし、三橋敏雄と結びつける必要もないのかもしれない。径子ワールドにおいて、死はどこかエロスをまとっている。

亡弟と花を摘みます雪の暮

あれは父あれも父かと雲の峰

「亡弟と」の句は「人間は」の句の次で、雪の暮に摘む花などなかろうに故人が現れる妖気を帯びた句となっている。「あれは父」の句はだいぶ離れたところに置かれていて、故人を回想しているというよりは、天上からしきりにお迎えが来る趣である。

菊といふ名の残菊のにひるかな

春の野のどこからも見えぼへみあん

うぐひすやまだ体内のあるこほる

外来語はひらがなで表記される。一九一一年生まれの作者にとって自然なこととしてそうなのか、特殊な効果を狙ってのことなのかはさだかでない。さだかではないが、「にひる」といい「ぼへみあん」といい「あるこほる」といい、遠く懐かしい青春時代の甘くて切ない響きが感じられる。

俤のまた吹きすさぶ芍薬忌

忌のごとし泉にもある生(なま)夕暮

「芍薬忌」はどなたか作者に近しい方の忌日なのか、架空の誰のでもある忌日の造語なのか。一方、ルビをふられた「生(なま)夕暮」は明らかに造語だろう。こんこんと湧く生命の根源のような泉が、「生(なま)夕暮」の時間帯には忌のようだという。なんという生と死の交錯。

水の精かかときれいな葦の花

前後するが、「忌のごとし」の句の一句前に置かれた句。「葦」は「足」と掛詞になっていて、みずみずしくもなまめかしい。

枯るるまでさ迷うて居る恋慕とは

ほととぎす言葉みじかきほど恋し

九十歳での句集であることにとらわれすぎてはいけないのだろうが、狂おしい。

梟やこころ病まねど山坂がち

欲望や都忘れのあたり過ぎ

単純に狂おしいばかりではない。ヤマ、ヤマと韻を踏み、植物名には原義を掛ける。いろいろな技法が熟成し渾然一体となってあらわれる感がある。

かの夜から菊の根分けを指図せり

驢鳴集おぼろの雨戸しめかぬる

『驢鳴集』は師・永田耕衣の句集。あたかも冥界との通信が途絶えないように雨戸をしめかねている風情がある。


II.

Iの句を見たときには、全体を通じての特徴を把握したかったので敢えて順不同に取り上げたが、IIではなるべく作者が並べた順に取り上げたい。なお私の記事の常で最後まで読み終わる前に書くことを旨とし、序文、跋文、他の方の書かれた文献などは極力読まず伝記的な事実も無視し、ただ書かれた句に沿って実況中継的に読みたい。

卯の花の一心不乱終りけり

妄想の花咲く二人静かな

桐の花半日遊び一日病む

「…の花」で漢数字を伴った句が三句続く。「一心不乱」と言い「妄想」と言い、花への感情の仮託が続く。また章中、「青空よごす十一月を俯きて」「冬一日腹這ふと死が近く居る」などもあるので、いかに伝記的な事実を無視しようとしても病がちであったことは察しがつく。

ああああと春のこころの塞ぎをる

人の亡きあとの牛蒡をささがきに

倦怠または死と対置する現実として、「牛蒡をささがきに」を持ってきた。料理は生命を維持するための忍耐強い地味な作業であるが、よりによって「牛蒡をささがきに」は絶妙である。

めんどりはここここといふ夏の花

華厳とよかなかなも樹も雨あがり

塞ぎがちな句が並ぶ中で、一転して「ここここ」「かなかな」と続き、気分が上向く。

左みて右みて遠し鬼薊

鬼の色少し足りねど鬼薊

一句目の「遠し」は何が遠いと言っているのだろう。交通標語のような「左みて右みて」からすると道路の向こうに鬼薊があって遠いと言っているようにも思えるが、二句目と並べると、どこか遠くの鬼がいる世界を夢見ているような気もしてきて怖い。

大夕立あとの大字(おおあざ)夏木立

青痣の榠樝と忍び笑ひせり

大字は市区町村の区画であるが、それほどまでに大きい夏木立というのが、なんとも飄逸である。そして「大字」の次に「青痣」を並べてみせる。じつに可笑しい。

落椿見付けられすぐ見捨てられ

青簾たちまち吾れの無くなれり

章の最後の二句は、「すぐ」に対し「たちまち」を並べている。ただの青簾なので、現実的には見えなくなるだけだが、この世からの消滅のイメージを重ねているに違いない。


III.

いまものを言へばみぞれが雪になる

章の最初の句。なんともファンタスティックな心象のものいいである。

かの世から秋の夜長へ参加せり

お彼岸のをみならはみな蝶であれ

南風(みなみ)吹きはかなくなれり姉は草

転生の直後水色野菊かな

彼岸此岸を自在に行き来し、人でないものに転生する自在な句境に達している。

白夕立われも物質音立てる

いい顔で睡てゐる月の列車かな

二句目は乗客ではなく列車が寝ていると読める書きっぷりで、擬人法というよりは生命体と非生命体の間をも行き来する趣がある。

濁世とは四、五日さくらじめりかな

「濁世」は辞書的には、仏教で、濁り汚れた人間の世。末世。だくせ。それが「さくらじめり」だと言う。「さくらじめり」は辞書にない。辞書にはないが桜蘂を濡らすあの頃の万物に生命をもたらす雨のことだろう。濁世とはまさに生命のみなもとなのだ。

浅き川なら足濡らす今日虚子忌

虚子忌の四月八日はまた仏生会。灌仏の行事の故に発想は水に及ぶ。余談となるが「虚子の忌の大浴場に泳ぐなり辻桃子」もそのひとつだろう。

夢に見て紅い椿を折りにゆく

折りとりて指揮棒によき濃りんどう

いずれも濃い色の花を手折る句だが、「指揮棒によき」は夢というよりも狂気に近い妖しさがある。

まだ生きてゐるから霜の橋わたる

章の最後の句は、章の最初の句と呼応する趣がある。どこか口語めいた「いまものを言へば」に対し「まだ生きてゐるから」。「みぞれ」「雪」に対し「霜」。


IV.

雪は止んで一月真昼それから

章の最初の句は6+7+4=17音の破調。四音で打ち切られた「それから」の後に余情がある。

裏口に帰つてゐたり夏の月

月のぼるよと二階より声まぼろし

文学は真実である夏の月

春の月やさしき人と居る心地

二階にてもてなす春の月まんまる

月に濡れ森閑と樹の倒れをる

寝ころんでしばらく春の月と居る

「月」を詠んだ句がこの章には多々ある。全体として月にも人格があって、帰っていたりもてなしたりしばらく一緒にいたりする関係のようである。

白露(はくろ)けふ淋しきものに昼ご飯

「白露(はくろ)」は二十四節気のひとつで九月七日ごろ。そして「けふ」。暦が進んだだけで「昼ご飯」が痛切に淋しい。ただならぬ吐露である。

わたくしの電池を替へてみても秋

もう少し歩き秋風たのしまむ

どこからか姉来て坐る秋の風

一句目は飄逸な詠みっぷりであるが、この「秋」はまたしても痛切に淋しい。二句目はそういう秋の風に浸ろうと言っているようである。そして故人である姉がふとどこからか現れる。

手を入れて野川の春をそそのかす

「そそのかす」が抜群にすばらしい。この世に生きていて何かをすれば世界が作用する。

比較的あきらめのよき落椿

およそ詩のことばとは思えない「比較的」がじつに効いている。

病みて幾日吹雪くとは胸の中

章の最後の句は7+5+5=17音。「雪は止んで」に始まり「吹雪く」で終わる。この句は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る芭蕉」の裏返しとなっていて、内面が外界をかけ廻るのではなく、内面は内面のまま吹雪いている。人生の最後の句集としてまとめたであろう『雨の樹』は、本句を挙句として終わる。




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