【句集を読む】
新たな地平
野間幸恵句集『ON THE TABLE』
鈴木茂雄
野間幸恵句集『ON THE TABLE』(2019年/Tarô冠者、)は、野間幸恵の第四句集である。まるで日常の食卓に並べられた品々が、詩的な魔法によって無限の宇宙へと変貌するような作品集だ。伝統的な俳句の枠組みを軽妙に飛び越え、季語や五七五のリズムに縛られない自由な表現で、読者を驚きと発見の旅へと誘う。この句集は、日常の断片から音楽、美術、科学、文学といった広範な文化を織り交ぜ、独自の感性で新たな俳句の地平を切り開いている。以下、この句集の魅力と意義を紐解いてみたい。
『ON THE TABLE』というタイトルは、直訳すると、日常の「テーブルの上に」という意味だが、「Dinner`s on the table.」で「夕食の準備ができている」のように「(食事など)の用意がととのっている」という意味でも使われる。そういう身近な空間を起点にしながら、そこから無限のイメージや連想が広がること、また、その用意ができているということを暗示している。この句集は「開」「いのしし」「待」「黒」「TOMATO」といった章に分かれ、それぞれが独立したテーマを持ちつつ、ゆるやかに響き合う。各章のタイトルは単なる分類を超え、句のイメージを増幅する装置として機能する。例えば「TOMATO」の章では、トマトという身近な食材が、ユーモアと意外性を帯びた詩的イメージの核となり、読者をローマ字表記の軽快なリズムや抽象的な連想の世界へと導く。
句集全体を貫くテーマは、日常の細部に潜む詩的可能性を掘り起こし、それを文化や知識の広大な地図に重ね合わせることだ。野間は、トマトやパン、車両といった具体的な事物と、空や夢、信といった抽象的な概念を結びつけ、読者に新たな視点を提供する。その結果、句集は一見シンプルな日常の断片が、まるで万華鏡のように多彩な色彩と意味を放つ詩的宇宙へと変貌する。
野間の句の最大の魅力は、イメージの飛躍と連想の豊かさにある。
たとえば、
風景が完成するラ・カンパネラ
この句では、フランツ・リストの名曲「ラ・カンパネラ」が風景の完成という抽象的イメージと結びつき、音楽と自然が交錯する鮮烈な瞬間を描き出す。
あるいは、
TOMATO なら背景もまたローマ字に
トマトという日常の対象が、ローマ字表記によって異化され、背景そのものが詩的な遊びの場となる。この飛躍は論理を超えた詩的直感に支えられており、読むたびに新たな解釈が生まれる余地を残す。
また、野間の句には軽やかなユーモアがちりばめられている。
TOMATOったら1ドルはいま100円よ
この句は、為替レートという現実的な話題をトマトに結びつけ、経済の深刻さを軽妙に回避する。
失望はやわらかいパンのままかしら
失望という重い感情を、柔らかいパンという日常のイメージで包み込むことで、読者に微笑みを誘う。このユーモアは、句集全体に親しみやすさと現代性を与え、読者を堅苦しさから解放する。
野間は伝統的な俳句の要素も巧みに取り入れる。季語は、冬帽子、菜の花などとして登場するが、単なる季節の指標ではなく、詩的イメージの触媒として機能する。「冬の季語」というコトバそのものを使った句がそのことを暗示する。
冬帽子ひらき直れば今、何時?
冬帽子という季語が、時間や存在の問いと結びつき、日常の動作に深い思索を宿す。
菜の花を見送る須佐之男命
ここでは、菜の花という春の象徴が神話の須佐之男命と交錯し、日常と神話の間に橋を架ける。こうした季語の現代的解釈は、俳句の伝統を尊重しつつ、現代の感性に訴えかける野間の力量を示している。
冬の季語ひらくロシアンルーレット
この句は、冬の季語「冬」を効果的に用い、緊張感と意外性を巧みに織り交ぜた作品になっている。「冬の季語ひらく」という表現は、冬の静けさや厳粛さを背景に、新たな可能性や展開を暗示。一方、「ロシアンルーレット」が極端なスリルと不確実性を導入し、両者の対比が鮮烈な印象を与える。季語と現代的なイメージの融合が斬新で、読者に強いインパクトを与える。緊張感と詩的余韻を残し、独創性と挑戦心に富む一句。
野間の句には、音楽(ビバルディ、ショパン)、文学(アラビア語、旧約聖書)、科学(オームの法則、ガリレオ)など、多様な文化や知識への参照が織り込まれている。
漆黒をまたたくオームの法則
電気の法則が漆黒の闇と結びつき、科学と詩が交差する瞬間を描く。
ガリレオが渉るさみしいページ数
ガリレオという歴史的人物が、孤独な読書のイメージと重なり、科学的探究と内省的な思索が響き合う。これらの参照は単なる装飾ではなく、句のイメージを深化させ、読者に知的探求の喜びを提供する。野間の博学さが、句集に豊かな層を形成している。
句集の中でも特に印象的な句をいくつか挙げたい。
空ふかく草食獣に手を振って
広大な空と草食獣という自然のイメージに、「手を振る」という人間的な仕草が加わることで、親密さと距離感が共存する不思議な情景が生まれる。誰が何に手を振っているのか、その曖昧さが想像を刺激する。
開かれて独活の滞空時間かな
「開く」という動作と「独活(うど)」という植物が、「滞空時間」という時間的・宇宙的な概念と結びつく。日常の動作が詩的な次元に拡張される瞬間だ。
始祖鳥に開いたままのページかな
始祖鳥という古代の存在と、開かれた本のページが交錯し、進化と停滞、過去と現在が重なり合う。この句は、思索を誘う深い余韻を残す。
『ON THE TABLE』は、俳句の伝統を踏まえつつ、現代の感覚と知性を大胆に取り入れた実験的な作品集だ。野間幸恵の句は、日常の細部から宇宙的スケールまでを自由に行き来し、読者に驚きと発見を与える。その自由さと軽妙さは、現代俳句における新たな可能性を示唆する。一方で、句の抽象性や文化参照の多さが、時に難解に感じられるかもしれない。しかし、その難解さは繰り返し読むことで新たな意味が立ち上がる詩的豊かさに繋がっている。この句集は、野間幸恵の詩的感性と知性が結晶した一冊だ。ユーモア、音楽性、文化への開かれた視線が織りなす句は、読者に新たな視点と想像の余地を提供する。俳句愛好者はもちろん、詩や現代文学に興味を持つ読者にも広く推薦したい。『ON THE TABLE』は、日常の「テーブルの上」に広がる無限の物語を、軽やかに、かつ深く提示している。読者はそのテーブルの前に座ると、野間の詩的宇宙を旅する喜びを味わうことだろう。
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