2025-08-10

鈴木茂雄【野間幸恵の一句】一筋の墨

【野間幸恵の一句】
一筋の墨

鈴木茂雄


雪舟の手よりこぼれる宇宙かな  野間幸恵

この俳句は、切字「かな」を効果的に用い、雪舟という歴史的な画聖を主題に据え、その筆先から生まれる墨の流れを「宇宙」という壮大なイメージに結びつけることで、芸術の創造性と宇宙という無限の広がりを巧みに表現している。

まず、「雪舟の手より」という表現が印象的である。雪舟の描く一筆一筆が、単なる絵画の技法を超え、まるで宇宙そのものを生み出すかのようなダイナミズムを帯びている。「手よりこぼれる」という動的な措辞は、意図的な作為を超えた自然な流れを想起させ、芸術家の創造行為が刹那的でありながら同時に永遠性を内包していることを示唆する。この「こぼれる」という言葉には、制御しきれない豊かな創造力や、枠を超えた無限の可能性が込められているように感じられる。

また、「宇宙」という言葉が句に壮大なスケールを与えている。雪舟の描いた水墨画は、山水や自然の情景を描写しつつ、その背後に深い精神性や哲学を宿している。彼の筆致が宇宙という無辺の概念と結びつくことで、単なる絵画の枠を超え、存在の根源や無限の広がりを想起させる。読者はこの一句を通じて、雪舟の描く一筋の墨が、まるで銀河や星雲のように広がり、果てしない空間を心の中に描き出すような感覚を抱く。

切字「かな」は、この句に静謐な余韻をもたらす。感嘆や詠嘆のニュアンスを含むこの切字は、宇宙の神秘に対する畏敬の念や、雪舟の芸術に宿る深遠な精神性を強調する。句全体の簡潔さが、かえってイメージの広がりを際立たせ、読む者の想像力を刺激する。雪舟の精神性と宇宙の無限性が響き合うことで、句は静かながらも力強い余韻を残す。

一句を俯瞰すると、雪舟という具体的な人物と、宇宙という抽象的な概念が巧みに結びつけられている点に、作者の力量が窺える。芸術の瞬間的な行為が、無限の広がりを持つ存在とつながるという発想は、俳句という短い形式の中で見事に結実している。雪舟の水墨画が持つ静謐さと力強さ、そしてその背後にある精神性が、この句を通じて鮮やかに浮かび上がる。

ただし、この句の魅力は、読者の感性や雪舟への理解度によって、あるいは異なるかもしれない。雪舟の画業やその精神性を知ることで、句の深みが一層増すだろう。いずれにせよ、芸術と宇宙という二つの大きな主題を、十七音という限られた空間で結びつけたこの句は、読む者に静かな感動と思索を呼び起こす作品である。

2 comments:

ハードエッジ さんのコメント...

>雪舟の手よりこぼれる宇宙かな  野間幸恵

宇宙は、壮大なイメージ、無限の広がり、無辺の概念、無限性、抽象的な概念ではありますが、
「宇宙かな」と書くことと、
宇宙的な名句の間には無限の隔たりがあります

比喩的な意味で、
画家はそれぞれに自分の宇宙を描こうとしています
いや、画家に限らず作家も音楽家も同様です

雪舟→宇宙の必然性が私には感じられませんでした

ダビンチ→宇宙ではどうなのか
ピカソではどうか
漱石ではどうか、等々

細かい点を言えば、
切字「かな」という伝統的技法を使いながら、
無季俳句ですし、
「こぼるる」という文語を使わず、
「こぼれる」の現代語/口語にした、
哲学的精神的必然性が分りませんでした

「筆より」でなく「手より」なのも疑問でした

エッシャーの手より生まるる無限かな ハードエッジ 2025.8.10/無季

漱石のペンより生れし子猫かな ハードエッジ 2025.8.10

Suzukishi_geo さんのコメント...


野間幸恵の俳句「雪舟の手よりこぼれる宇宙かな」は、簡潔さと深いイメージ喚起力において、俳句の伝統と革新を見事に融合させた優れた作品です。この句に対する批評が、雪舟と宇宙の結びつきの必然性や語彙の選択に疑問を呈していますが、以下にその批評に対する反論を展開し、野間句の優位性を明らかにしたいと思います。

まず、ハードエッジさんが指摘する「雪舟→宇宙の必然性が感じられない」という点について。

雪舟は、室町時代の禅僧であり、日本水墨画の巨匠として知られています。彼の作品は、単なる風景画を超え、禅の精神性や宇宙的な広がりを内包するものとして評価されてきました。特に『山水長巻』や『秋冬山水図』に見られるように、雪舟の筆致は自然の奥深さと無限の広がりを表現し、観る者を宇宙的思索へと誘います。野間の句は、「手よりこぼれる」という動的な表現を通じて、雪舟の創造行為そのものが宇宙を生み出す瞬間を捉えています。この「こぼれる」という言葉は、意図的な作為を超えた無意識の創造力、すなわち禅の「無我」の境地と響き合います。ハードエッジさんがダビンチやピカソ、漱石を引き合いに出していますが、雪舟の禅的背景と宇宙的イメージの結びつきは、他の芸術家とは異なる独自の文脈を持ち、必然性に欠けるという指摘は、雪舟の芸術的本質を見誤ったものです。

次に、「こぼれる」という口語表現と「かな」の切字の使用について。

ハードエッジさんは「こぼるる」という文語を期待し、口語の選択に「哲学的精神的必然性」が欠けるとしていますが、これは俳句の現代的進化に対する理解不足を露呈する発言です。現代俳句は、伝統的な文語を必ずしも必要とせず、口語を用いることでより直接的で鮮烈なイメージを提示することがあります。野間の「こぼれる」は、雪舟の手から溢れ出る宇宙のダイナミズムを生き生きと伝えています。「こぼるる」ではやや重厚で静的になりがちな印象を、「こぼれる」は軽やかで流動的なニュアンスで補い、現代の読者に訴求します。また、「かな」は伝統的な切字として、句に余韻と広がりを持たせ、宇宙の無限性を暗示します。この伝統と現代の融合は、野間の句の洗練された技法を示しています。

さらに、「筆より」ではなく「手より」とした点への疑問について。

「手より」は、単なる道具としての筆を超え、雪舟自身の身体性や精神性を強調する選択です。雪舟の絵画は、筆先の技巧だけでなく、彼の禅僧としての修行や精神が込められた「手」の動きそのものに由来します。「手よりこぼれる」は、雪舟の全存在が宇宙を紡ぎ出す瞬間を捉えた表現であり、ハードエッジさんの指摘する「筆より」の方が適切という見解は、雪舟の創造の本質を捉え損ねています。

ハードエッジさんが提示した「エッシャーの手より生まるる無限かな」や「漱石のペンより生れし子猫かな」との比較も、野間句の深みを矮小化するものです。エッシャーの句は無限の概念を直截に表現しますが、雪舟の句が持つ禅的含蓄や日本の美的伝統との結びつきに欠けます。漱石の句は子猫という具体的なイメージに落とし込みますが、野間句の「宇宙」という抽象的かつ壮大なイメージは、俳句の五七五の制約の中で無限の広がりを喚起する点で、より高い詩的達成を果たしていると思います。

最後に、無季俳句であることへの批判について。

俳句における季語は伝統的に重要ですが、現代俳句では無季俳句もまた、精神性や抽象性を追求する有効な手段として確立されています。「宇宙」というテーマは、季節を超えた永遠性を内包し、季語の不在がむしろその普遍性を際立たせます。野間の句は、季語を用いずとも、雪舟の芸術と宇宙のイメージを通じて、読者に深い思索と感動を与えます。

以上により、野間幸恵の「雪舟の手よりこぼれる宇宙かな」は、雪舟の禅的芸術と宇宙的イメージを見事に結びつけ、伝統と現代性を融合させた表現で、俳句としての完成度が高いです。ハードエッジさんの指摘は、雪舟の芸術的文脈や現代俳句の可能性を十分に考慮しないものであり、この句の詩的価値を正当に評価するには、さらなる深みへの理解が必要です。野間の句は、簡潔ながらも無限の想像力を掻き立てる名句として、俳句史に刻まれるべき一作です。