【野間幸恵の一句】
句の背景
鈴木茂雄
老人が誤読のように立ち上がる 野間幸恵
この句は、老いの身体性と精神性を巧みにとらえた一句である。表面的には老人が立ち上がる動作を描いて、その背景に潜む心理や社会的な文脈を暗示し、深い思索を誘う。
「老人が」という主語は、特定の人物ではなく、老いという普遍的な状態を象徴する。「誤読のように」は、動作の質を形容する副詞的表現であり、立ち上がる行為に不確かさや不器用さを付与する。「立ち上がる」は具体的な動作でありながら、比喩的な意味合い——例えば、人生の再起や抵抗——を内包する可能性がある。この三つの要素が織りなす緊張感が、句の奥行きを生む。
「誤読」という言葉の選択が特に印象的である。誤読とは、文字や情報を正しく読み取れないことだが、ここでは老人の動作に重ねられることで、身体の衰えや意図と動作のずれを表現している。老人は立ち上がろうとするが、その動きはぎこちなく、まるで意図したものとは異なる結果を生むかのようだ。これは、老いによる身体の不自由さだけでなく、精神的なもどかしさや、かつての自己とのギャップを暗示する。誤読はまた、外部からの視線——社会や他者が老人の行動を誤解する状況——をも連想させ、老いへの偏見や誤解を批判的に浮かび上がらせる。
さらに、「立ち上がる」という動詞は、単なる物理的動作を超えて、精神的な意志や抵抗の象徴とも解釈できる。老人は、身体の衰えや社会の無理解(誤読)に抗い、なお立ち上がろうとする。この姿勢は、老いの受動性ではなく、能動的な生の肯定を表現しているのかもしれない。野間幸恵は、この一瞬の動作を通じて、老人の内面に宿る尊厳や闘争心をさりげなく描き出す。
句の背景には、日本の超高齢社会という現実も透けて見える。現代において老いは、単なる個人の問題ではなく、社会構造や価値観と密接に関わる。「誤読のように」という表現は、老人が社会から誤解され、疎外される現実を暗に示唆する。老人の立ち上がりが「誤読」と形容されることで、社会が彼らの努力や存在を正しく読み取れていないことへの批判が込められていると読み取れる。
表現技法としては、写生的なリアリズムと象徴性を融合させた点が秀逸である。老人という日常的な存在と、誤読という抽象的な概念を組み合わせることで、具体的かつ普遍的なイメージを創出している。また、リズム感のある五・七・五の流れは、動作の一瞬を切り取りつつ、余韻を残す。読者は、老人の立ち上がる姿を目の当たりにしつつ、その背後にある人生や社会の重層的な意味を想像せざるを得ない。
野間幸恵の「老人が誤読のように立ち上がる」は、老いの身体的・精神的苦闘を繊細に描き出し、同時に社会の視線や誤解を浮き彫りにする。シンプルな言葉の中に、老人の尊厳と社会の課題を織り交ぜ、読者に深い思索を促す。その余白の広さとイメージの鮮やかさは、現代俳句の可能性を示す。
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