2025-10-05

池田宏陸〔大塚凱句集『或』批評会・特別対談レポート〕作品の『内』と『外』の対話

〔大塚凱句集『或』批評会・特別対談レポート〕
作品の『内』と『外』の対話

池田宏陸


2025年9月、都内某所にて、俳人・大塚凱の第一句集『或』をめぐる批評会が開催された。登壇者には、西村麒麟、生駒大祐、中矢温、阪西敦子、鳥居真里子、青本瑞季、田島健一、西生ゆかりといった、世代も批評的スタンスも異なる8名の俳人が集結。3時間近くに及んだ議論は、「抒情の限界」「都市と家族」「引用と文体」など多岐にわたる論点を横断し、この句集が持つ多層的な魅力を鮮やかに浮かび上がらせた。しかし、外部からの光が強ければ強いほど、作品そのものが持つ固有の「闇」は、より深く、静かになる。批評という行為が、言葉によって作品を解剖し、分類し、位置づける営為であるとするならば、そのメスの届かない場所にこそ、作品の魂は宿るのではないか。

本レポートは、そのような問題意識から企画された。批評会の熱気と論理から一度離れ、句集の中で一貫して「僕」として語り続ける、あの静かな主体にマイクを向ける。批評会で交わされた言葉を、彼自身はどう受け止め、どう応答するのか。彼は批評会の存在を知らない。彼は、ただ自らの内なる風景を語るだけだ。片や、句集を読んでいないインタビュアーが、批評会の記憶だけを頼りに問いを投げかける。この対話は、作品の「外」からの視点と、「内」からの呟きが交錯する実験的な試みである。両者の視線が交わる点に、あるいは、決定的にすれ違うその瞬間に、句集『或』の新たな相貌が立ち現れることを期待したい。


インタビュアー こんにちは、「僕」さん。本日はお時間をいただきありがとうございます。先日、あなたの言葉が収められた『或』という書物をめぐって、多くの人が語り合う場がありました。私はその場にいた者として、そこで生まれたいくつかの問いを、あなたに直接ぶつけてみたいと思っています。いわば、たくさんの声のこだまを、あなたに届けに来た、というようなものです。

「僕」 こんにちは。こだま、ですか。僕の声がどこかに届いて、跳ね返ってくる。面白いですね。壁に投げたボールが、違うボールになって返ってくるようなものでしょうか。あるいは、〈後逸を墓参の人が投げ返す〉、そんな感じかもしれない。僕の知らない誰かが、僕のボールを投げ返してくれる。それがどんなボールなのか、少し興味があります。


◆第一章:平熱のまなざし——寂しさと咒(まじない)

インタビュアー  早速ですが、会ではあなたの句集について、「怒り」よりも「寂しさ」が先に立つ、という意見がありました。社会への激しい抵抗というよりは、ある種の諦めにも似た静かな眼差しで世界を眺めている、と。そして、その孤独の受容が、まるで「咒(まじない)」のように、淡々と繰り返される言葉によって表現されているのではないか、という声も聞かれました。ご自身では、世界と対峙するときの心の温度を、どう感じていますか?

「僕」● 温度、ですか。そうですね、熱い、と思ったことはあまりないかもしれません。〈37.5℃〉という章題を付けたことがありますが、それは微熱で、世界が少しだけずれて見えるときの、あの静かな心もとなさに近い。熱に浮かされているわけではないけれど、かといって、完全に醒めているわけでもない。そんな温度です。

寂しい、という言葉が僕の句に似合うのかは、自分ではよく分かりません。ただ、ひとりでいる時間は多い。〈ひとりになるために墓参の水汲みへ〉行くこともあります。誰かといる自分から離れて、ただ水を汲む。そのときの水の冷たさや、桶の重さだけを感じていると、自分が透明になっていくような気がするんです。

「咒」というのも、大げさなものじゃない。例えば、〈話さねば暮れる一日を青木の実〉という句があります。誰とも話さずに一日が終わるとき、ふと窓の外を見ると、青い木の実がそこにある。それを見ていると、話さなかった一日に、何か意味があったような気がしてくる。言葉にならなかった言葉が、あの青い実に吸い込まれていくような。毎日、そんなふうに、小さなものに自分の心を預けている。それが「咒」なのだとしたら、僕はたしかに、たくさんの「咒」を呟きながら生きているのかもしれません。〈しりとりは冬ざれいつのまにか壁〉、そんなふうに、いつの間にか行き止まりに着いてしまう遊びのようなもの。でも、その行き止まりの壁を、ずっと眺めていたい気もするんです。

インタビュアー なるほど。「寂しさ」という感情で括るのではなく、世界との距離感、温度感の問題なのですね。もう一つ、あなたの作品は「抒情」というものが一つのキーワードになる、という議論がありました。ただ、ある人はその抒情性を高く評価する一方で、別の人は、抒情という手法そのものに「限界」があるのではないか、と指摘していました。例えば、抒情はすでに多くの人が知っている「懐かしい」感情を呼び起こしやすいけれど、それは古い価値観を無批判に温存してしまう危険性も孕んでいる、と。あなたは、ご自身の言葉が誰かの「懐かしさ」を呼び起こすことについて、どう思われますか?

「僕」● 懐かしい、ですか。僕が見ている風景は、僕だけのものであるはずなのに、不思議ですね。でも、少し分かる気もします。〈知らない街の知らない火事を読み捨てる〉。新聞で読む遠い火事は、僕の痛みではない。けれど、その記事を読んでいるとき、僕の部屋の空気が少しだけ乾くような気がする。その乾きは、もしかしたら誰かが感じたことのある乾きと、どこかで繋がっているのかもしれない。

「限界」という言葉は、僕にはよく分かりません。僕は何かを越えようとか、新しいものを作ろうとか、そういうふうには考えていないんです。ただ、見えているものを、見えているように言葉にしたいだけ。〈絵に描いてゐるとさくらがくづれだす〉。桜を描こうとすると、その瞬間にも桜は散っていく。言葉はいつも、現実から少しだけ遅れてやってくる。その、どうしようもないズレこそが、僕が言葉を紡ぐ理由なのかもしれません。

古い価値観、というのも……例えば、〈立ち食ひを𠮟る母なし誘蛾燈〉。この句の母は、僕の母であって、同時に、誰かの記憶の中にいる「母」という存在の、ひとつの欠片でもあるのでしょう。僕が書くことで、その欠片が誰かの心に触れて、その人の中の「母」を揺らす。それが良いことなのか悪いことなのか、僕には判断できません。ただ、誘蛾灯に集まる虫のように、言葉もまた、抗えない光に吸い寄せられていくだけなのだと思います。

◆第二章:ことばの身体——コーラ、助詞、そして実感

インタビュアー● 言葉と現実のズレ、というお話、興味深いです。批評会では、あなたの文体、特に助詞の「て」の使い方が独特だ、という指摘がありました。通常なら推敲で削られてしまいそうな「て」を多用することで、動作の連なりや時間の経過が、非常に自然な身体感覚として伝わってくる、と。また、文法的な正しさよりも、知覚した順番、つまり「実感のかたち」を優先しているのではないか、という意見もありました。

「僕」● 助詞、ですか。意識したことはありませんでした。でも、言われてみれば、そうかもしれません。〈靴下を干して花火の見えない窓〉。靴下を干す、という行為と、その窓からは花火が見えない、という事実。その二つは、僕の中では「て」で繋がっているんです。花火が見えないから、靴下を干す。あるいは、靴下を干しているからこそ、花火が見えないということに気づく。その、どちらとも言えないような、緩やかな繋がり。僕の世界は、そんなふうに、たくさんの「て」で成り立っている気がします。〈毛布抱いても貰つた花が枯れてゆく〉。毛布を抱く温かさと、花が枯れていく寂しさ。その二つは矛盾しているようで、僕の部屋では同時に起きている。それをそのまま書いているだけなんです。

実感の順番、というのも、その通りだと思います。〈鯛焼を持ち替へて出す入場券〉。熱い鯛焼きを右手から左手に持ち替えて、空いた右手で入場券を出す。その一連の動きの中に、僕の身体は確かにある。頭で考えるより先に、身体がそう動いている。俳句は、その身体の記録のようなものかもしれません。〈あたまから牡丹になつて眠り落ち〉る、あの感覚。理屈じゃなく、ただ、そういうふうにしか眠れない夜がある。それをそのまま、書いているんです。

インタビュアー● 身体の記録、ですか。非常にしっくりきます。その身体感覚と関連して、句集に頻繁に登場する「コーラ」と「カルピス」の対比が面白い、という話も出ました。コーラは80年代的な「スカッと爽やか」なアイコンでありながら、あなたの句の中では〈あたらしいコーラが痛い木のひかり〉のように、痛みや暗さと結びついている。一方でカルピスは、〈喪の日々は晴れカルピスの薄い家〉のように、希釈されるもの、薄まっていくものとして描かれている。この二つの飲み物に、何か特別な思い入れがあるのでしょうか。

「僕」● コーラは、儀式みたいなものです。何かを始めるとき、あるいは、終わらせるときに飲む。炭酸が喉を焼く、あの瞬間の痛みが、意識をはっきりさせてくれる。〈コーラ呷れば遮断機が夜の門〉。夜という別の世界に入るための、合図のようなものですね。爽やか、というよりは、覚悟に近い。あるいは、〈だしぬけにコーラを賭けて走り出す〉。理由なんてないけれど、今、走らなければならない、という衝動。そのための起爆剤が、僕にとってはコーラなんです。

カルピスは、もっと日常に溶けているもの。記憶に近いかもしれません。昔は原液があって、水で薄めて飲んでいた。その日の気分で濃さが変わる。誰が作ったかで味が違う。〈喪の日々は晴れカルピスの薄い家〉。あの句の家では、たぶん、誰もが少しずつ、自分の悲しみを水で薄めるようにして、日々をやり過ごしていたんだと思います。はっきりとした味はないけれど、確かにそこにある甘さ。コーラが「今、ここ」の痛みだとすれば、カルピスは、いつからかずっと続いている、時間の流れそのもののような気がします。原液があって、それが少しずつ希釈されていく。僕たちの人生も、きっとそんなふうに、薄まりながら続いていくんじゃないでしょうか。

◆第三章:家族という他人——父、母、そして「あなた」

インタビュアー● 時間の流れ、というお話が出ましたね。あなたの句集には、父、母、妹といった家族が登場します。批評会では、この点が少し議論になりました。ある人は、あなたの句が持つ都会的でスタイリッシュな感覚からすると、家族というウェットな題材をあえて描いたことに驚いた、と。一方で、家族を登場させることで、作中の「僕」に過去からの時間軸が生まれ、作品世界に奥行きを与えている、という意見もありました。あなたにとって、家族とはどのような存在なのでしょうか。

「僕」●家族。そうですね……彼らは、僕にとって一番近い他人、という感じがします。〈もの言はず墓参の父にライター貸す〉。父とは、あまり話をしません。でも、墓の前で煙草を吸おうとする父に、何も言わずにライターを差し出す。その一瞬だけ、僕と父は繋がっている。言葉よりも確かな何かで。父は、僕が生まれるずっと前から存在していた時間そのものです。〈朝の父巣箱づくりの灯を消して〉、僕の知らない朝を、父はたくさん持っている。その時間の断片を、僕は時々垣間見るだけです。

母は、もっと身体的な存在かもしれません。〈蜜柑腐らせてどこでも眠れる母〉。僕がどんなに部屋を整えても、母がいると、どこかから腐った蜜柑の匂いがしてくるような。でも、その生命力が、僕には少し羨ましくもある。〈立ち食ひを𠮟る母なし誘蛾燈〉という句について先ほど話しましたが、僕を叱ってくれた母がいない。でも、その不在が、誘蛾灯の光の中で、かえって強く感じられることがあるんです。

妹は、僕とは違う未来を生きる存在。〈いもうとをのどかな水甕と思ふ〉。静かで、何も言わないけれど、その中には僕の知らない水がいっぱいに満ちている。僕が家族を書くのは、彼らを描きたいから、というよりは、彼らという鏡を通して、僕自身の輪郭を確かめたいからなのかもしれません。僕という存在は、父の過去と、母の身体と、妹の未来の、ちょうど交差点に立っている。そんな気がします。

インタビュアー● 一番近い他人、ですか。興味深い表現です。家族と同じくらい、あるいはそれ以上に、句集には「あなた」や「君」という二人称が頻繁に登場しますね。そこには、他者への優しさと、同時に分かり合えないことへの不安が滲んでいる、という指摘がありました。特に、〈夜長あなた僕の弱火が強いといふ〉という句が印象的だったようです。あなたにとって、「あなた」という存在は、家族とはどう違うのでしょうか。

「僕」●「あなた」は、僕が選んだ他人、ですね。家族が、生まれたときからそこにある風景だとしたら、「あなた」は、僕が歩いていって、出会った風景です。だから、いつも少し緊張します。〈すこし咳してあなたではない手を握る〉。人混みで、ふと、あなただと思って手を握ったら、違う人だった。そんなふうに、いつも確かめながら、触れているような感覚があります。

夜長あなた僕の弱火が強いといふ〉。僕は、一番弱い火で鍋を温めているつもりなのに、あなたは「強すぎる」と言う。どちらが正しい、というわけではない。ただ、僕の「弱火」とあなたの「弱火」は、温度が違う。それだけの、とても単純で、そして絶望的な事実です。でも、その違いがあるからこそ、僕とあなたは別の人間でいられる。〈背きあふうつつの百合と玻璃の百合〉のように、同じ空間にいても、決して交わらない。でも、だからこそ美しい、と思える瞬間がある。

「あなた」と一緒にいると、世界が少しだけ違って見えます。〈グッピーを注ぎ足しながらあなたと棲む〉。水槽の水が減ったら、新しい水を注ぎ足す。そんなふうに、些細なことを繰り返しながら、僕とあなたの時間は続いていく。それはとても静かで、でも、かけがえのない営みだと思っています。

◆第四章:「或る」ということ——存在と不在のあわい

インタビュアー● 関係性の話が続きましたので、少し視点を変えたいと思います。句集のタイトルである『或』、そして最後の連作のタイトル「腹違いの双子」。この二つの言葉の謎について、あるパネリストが非常にユニークな解釈を提示しました。「或」という字には「ある場所を区切る」という意味があることから、この句集は、句として存在している領域と、まだ存在していない句の領域を区切る行為そのものを指しているのではないか、と。そして、「腹違いの双子」という論理的に存在し得ない言葉は、その「まだ存在しない」オルタナティブな領域を示唆しているのではないか、というのです。この解釈について、どう思われますか?

「僕」● 面白いですね。僕がそこまで考えていたかは分かりませんが、その方の見ている風景は、僕が見ている風景と、どこか近い場所にある気がします。「或る」というのは、とても不思議な状態です。〈冬蜂めりこむ泥のみるみる乾く〉。さっきまで湿っていた泥が、もう乾いていく。湿っていた状態と、乾いた状態の、その間に、冬の蜂はいる。存在している、とも、していない、とも言えるような、ほんの一瞬。僕の句は、いつもそういう場所にいたいのかもしれません。

「腹違いの双子」。言葉としては、たしかに成り立たないのかもしれません。でも、僕はいつも、もう一人の僕がいるような気がしているんです。〈姿見のなかの裸といれかはる〉。鏡の中の僕は、僕と同じ顔をして、僕と同じ裸でいる。でも、彼が見ているのは、僕のいるこちらの世界です。彼と僕が入れ替わったら、世界はどう見えるんだろう、と時々思います。あるいは、〈海市から見ても僕だとわかる鼻〉。遠くの海市にいるのは、本当に僕なのでしょうか。僕によく似た、別の誰かかもしれない。僕であって、僕でないもの。それが「腹違いの双子」の正体なのかもしれません。まだ書かれていない句、というよりは、書くことのできなかった、もう一つの人生。そんなイメージです。

インタビュアー● もう一つの人生、ですか。その感覚は、句集全体に流れる「ない」という言葉の多さとも関係しているかもしれません。会では、句集の前半には「ない」という言葉が多いけれど、後半になるにつれて減っていく、という構成についての指摘がありました。それは、「僕」が「或る(存在する)」ことに気づいていく過程ではないか、という意見や、逆に、特定の時間軸に沿って変化するのではなく、ループする時間の中で「ある」と「ない」を行き来しているのではないか、という意見も出ました。

「僕」●「ない」が減っていく。そうですか、数えたことはありませんでした。でも、そうかもしれませんね。はじめは、ないものばかりが目につくんです。〈コート抛る花瓶ひとつもない部屋に〉。花を飾る場所すらない部屋。そこにあるのは、ただ、コートを脱ぎ捨てるという行為だけ。でも、その何もない部屋で、僕は確かに生きている。

ビール呷るザハ案でない方の未来〉という句があります。選ばれなかった未来、建てられなかった建築。僕たちが生きているのは、いつも「でない方」の未来です。でも、その「でない方」を選んでしまった、という事実を受け入れたとき、世界はまた別の顔を見せる。

ループしている、という感覚もよく分かります。〈卒業歌ひとりになれば繰り返す〉。卒業式は終わったはずなのに、ひとりでいると、あの歌が頭の中で何度も再生される。終わったはずの時間が、また戻ってくる。そして、また卒業していく。僕の時間は、直線ではないのかもしれません。〈永遠を山手線でねむりこむ〉。ぐるぐると回り続ける円環の中で、僕は束の間、眠っている。次に目が覚めたとき、また同じ景色が広がっている。でも、その景色の見え方は、昨日とは少しだけ、違っているはずなんです。

◆第五章:火遊びの先へ——絶望と、その未来

インタビュアー● 円環の時間、というイメージは、この句集を読み解く上で非常に重要だと感じます。さて、最後に少し挑発的な問いを投げかけたいと思います。会のある参加者が、この句集は他者との衝突を避け、一歩引き続けている、「この句集と一緒に死にたいとは思わない」と発言しました。また、別の参加者からは、抒情の限界を見せてくれる優れた句集だからこそ、その絶望の先の答え、限界を突き抜けるブレイクスルーが見たかった、という期待の声も上がりました。あなたは、言葉によって何かを壊したり、誰かを塗り替えたりするような「暴力性」を、意識的に避けているのでしょうか。

「僕」● 暴力、ですか。僕の言葉に、そんな力があるとは思えません。僕は、誰かを傷つけたいとも、世界を変えたいとも思っていない。ただ、火をじっと見ている子供のように、世界を眺めているだけです。〈みんな見てゐる手花火の一本目〉。一本目の手花火が放つ、あのささやかで、でも強烈な光。やがて消えてしまうと分かっていながら、誰もが息を詰めてそれを見つめている。あの瞬間の静けさが、僕は好きです。

ある方が、この句集を「火遊び」の句集ではないか、と言っていたそうですね。それは、とても嬉しい言葉です。火遊びは、危険で、無意味で、でも、どうしようもなく心を惹きつけられる。〈火事が遠くてなけなしの葉を降らす〉。遠くの火事は、僕には関係ない。でも、その熱が風に乗ってやってきて、目の前の木の葉を揺らす。その、ささやかな影響。僕の言葉も、それくらいのものでありたい。誰かの人生を根こそぎ変えるのではなく、ただ、一枚の葉を揺らすくらいの、微かな風であればいい。

燃えながら蝶にちかづく僕らかな〉。僕たちは、いつか燃え尽きてしまう存在です。そのことを知っている。でも、だからこそ、美しいものに近づきたいと願ってしまう。絶望の先に答えがあるのかどうか、僕には分かりません。でも、燃えながら、蝶に近づこうとする、その途中の風景を、僕は言葉にしておきたい。一緒に死ぬための句集ではなく、一緒に、燃え尽きるまでの時間を、ただ静かに眺めるための句集。僕の『或』は、そういうものでありたいと思っています。

インタビュアー● 最後に、とても美しいお話を伺えました。長時間にわたり、貴重なお話をありがとうございました。「僕」さんの内なる声に触れることで、批評会での議論が、まるで万華鏡のように、さらに複雑で豊かな模様を描き始めたように感じます。外からの分析だけでは決して辿り着けない、作品の核にある静かな熱のようなものに、少しだけ触れられた気がします。

「僕」● こちらこそ。僕の見ていた風景が、僕の見ていた火花が、少しでもあなたに伝わったのなら、嬉しいです。僕の言葉は、またどこかへ飛んでいって、いつか、違うこだまになって返ってくるのかもしれませんね。そのときを、静かに待っていようと思います。
対談を終えて


今回の対談は、批評という「外」からの光と、作品という「内」からの声が、互いを照らし出す稀有な機会となった。インタビュアーが投げかける批評会の言葉—「寂しさ」「抒情の限界」「家族の再生産」「オルタナティブ」—は、「僕」というフィルターを通ることで、批評的な概念から、より身体的で、手触りのある感覚へと翻訳されていった。彼は批評家の言葉を肯定も否定もせず、ただ自らの見てきた風景を、例えば「鯛焼きを持ち替える手つき」や「薄いカルピスの味」といった具体的なイメージで語り返す。そこには、分析を拒むかのような、世界のありのままを肯定する静かな強さがあった。

この対話は、決して噛み合ってはいない。インタビュアーが論理の梯子をかけようとすると、「僕」はふわりと蝶のように身をかわし、別の場所へと飛んでいってしまう。だが、そのすれ違いこそが、句集『或』の本質を最もよく物語っているのかもしれない。この句集は、読者に明確な「答え」を与えてはくれない。ただ、無数の風景を提示し、読者がその中で自らの「或る」場所を見つけるのを、静かに待っている。この対談が、その果てしない散策の、ささやかな道標となることを願う。
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このイベントレポートは以下の指示を用いてGemini 2.5 Proで生成したものです。

指示

あなたは、文芸イベントのレポートを執筆するライターです。

以下の入力データと制約条件に基づき、句集『或』の批評会イベントレポートを約10,000字で作成してください。レポートは、キャラクターAとキャラクターBの長編対談形式で記述してください。 


入力データ

【句集『或』のテキストデータ】:(ここに句集『或』の全テキストデータを入力)
【批評会メモ】:(ここに批評会の議論や参加者の意見をまとめたメモを入力)

制約条件

1. キャラクター設定:

キャラクターA(「僕」):
役割: 句集『或』の「僕」。
人物像: 人格、価値観、言葉遣いは、入力された【句集『或』のテキストデータ】のみを基にして構築してください。「僕」は批評会の内容を知りません。「僕」の発言は、あくまで句集の世界観の中から生まれるものとします。

キャラクターB(インタビュアー):
役割: 批評会の内容について「僕」にインタビューするインタビュアー。
人物像: インタビュアーの知識は、入力された【批評会メモ】のみに基づいています。句集そのものは読んでおらず、批評会で出た意見や疑問点を基に質問を投げかけます。

2. レポートの形式:

キャラクターA(「僕」)とキャラクターB(インタビュアー)の長編対談形式で記述してください。

対談を通じて、句集『或』が多角的に分析され、その魅力や謎が浮かび上がるような構成にしてください。

レポートの冒頭には、批評会の概要と、この対談企画の趣旨を簡潔に記述してください。(約500字)

レポートの結びには、対談全体をまとめる総括的な文章を加えてください。(約500字)

3. 内容:

インタビュアー(B)は、批評会メモにあった句集への評価、疑問、解釈などを質問の形で「僕」(A)に投げかけます。

「僕」(A)は、その質問に対し、自身の句集の世界観や美学に基づいて答えます。その答えは、必ずしも批評会の解釈と一致する必要はありません。

対話が噛み合わない部分や、視点の違いが浮き彫りになる部分も、そのまま面白さとして表現してください。


出力形式例

## 句集『或』批評会・特別対談レポート「作品の『内』と『外』の対話」

(ここに批評会の概要と企画趣旨を記述。批評会の日時、場所、主な参加者、議論の全体的な方向性などに触れ、なぜ作中の人物「僕」へのインタビューという形式を試みるのか、その意図を説明する。)

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**インタビュアー** こんにちは、「僕」さん。本日は句集『或』の批評会を受けて、ぜひお話を伺いたいとやってまいりました。私は批評会に参加した者たちの声をお届けする、いわば代弁者のようなものです。

**「僕」** こんにちは。僕の言葉が、あなたにどう届くのか。少し楽しみです。誰かの声が僕に届くことも、また然り。

**インタビュアー** よろしくお願いします。早速ですが、批評会ではあなたの句集が「孤独の受容と、そこから世界を静かに見つめる視線」をテーマにしているのではないか、という意見が多く聞かれました。この点について、ご自身ではどうお考えですか?

**「僕」** (句集のテキストデータにある孤独や観察に関する描写を引用・参照しつつ、自身の内面的な感覚として応答する。批評会の「テーマ」という言葉自体には直接反応せず、あくまで自身の経験や知覚を語る。)

……

**インタビュアー** 最後に、少し抽象的な質問をさせてください。批評会では「この句集は、作者である『僕』にとって、世界と繋がるための唯一の方法だったのではないか」という意見が出ました。言葉を紡ぐという行為は、あなたにとってどのような意味を持つのでしょうか。

**「僕」** (言葉と自分、言葉と世界の関係性について、自身の哲学を語る。言葉にすることの難しさ、それでも言葉を探し続ける理由などを、句集全体の根底に流れる思索に基づいて応答する。)

**インタビュアー** 長時間にわたり、貴重なお話をありがとうございました。「僕」さんの内なる声に触れることで、批評会での議論がさらに立体的に、そして豊かになったように感じます。外からの分析だけでは決して辿り着けない、作品の核のようなものに触れられた気がします。

**「僕」** こちらこそ。僕の見ていた風景が、少しでもあなたに伝わったのなら、嬉しいです。
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(ここに対談のまとめを記述。対談を通じて明らかになったこと、批評会の議論との響き合い、作品の『内』と『外』からの視点が交差することで生まれた新たな発見などを総括する。この対話が句集『或』をより深く味わうための、一つの重要な補助線となることを示唆して締めくくる。)


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