2026-03-29

此処は何処?私は誰? 樋󠄀口由紀子『容顔』論 川合大祐

此処は何処?私は誰?
樋󠄀口由紀子『容顔』論

川合大祐


ある文芸、それも一ジャンルについて語るとき、その特殊性をことさらに言い募り、世に対してみずからの〈愛〉のかたちを強調することは、あまり訴求力があることとも思えないし、愛の言葉とは所詮愛なきことの反動でしかないことをわれわれは実人生において知っている。すなわち自閉者の虚勢。

だが自閉者には自閉することによってしか守れない何事かがあるのであり、外部の世界を遮断するというその行為そのものが、ひとつの表現手段として〈それ〉を成り立たせる自我同一性のあらわれに他ならない。

われわれがこれから見てゆく〈それ〉は「川柳」である。

川柳がいかに外部に対してみずからを閉ざしているものか、あるいはそれは〈世間の誤解〉ということへの防衛反応かもしれないが、〈川柳外部へのルサンチマン〉という点についてわれわれはもっと語るべきであろう。外への敵意はいっけん内への充実を呼ぶ。だがその充実は真の意味で内部たり得るか。外部への虚勢は内部の疎かさでもあるのではないか。

そう考えたとき、〈真に内部が充実している〉言説、もしくは作品こそ、外部への架橋としてネットワークのいとぐちをつなげているのではないかと気づく。〈内部の充実〉ということを手がかりに、作品が作品として屹立している=外部への接続をなしている、と言うことができるだろう。

「川柳」を語る上で所謂「サラリーマン川柳」との距離感は批評のひとつのメルクマールとならざるを得ない。「サラ川」において広大な世界に句が投げ入れられる、のではない。あの〈クスリという笑い〉は読者を作者と同質のかたまりに安易な同化をなすことであり、そこに外部というものはない。圧倒的な〈内輪受け〉であり、そこに外部への接続が存在しない以上、内部の充実もまたあろう筈がない。「サラ川」の句がひどく痩せた自画像しか持たないのは(あるいは自画像そのものを持っていないのは)、これを所以とする。

われわれがこれから見ようとするのは、外部への接続を為すがゆえに、内部を充実させてしまった、あるはこの因果は逆に辿って、内部の充実ゆえに外部に接続されたと言ってもよいかもしれないが、外部と内部に徹底的な深化を為した、そんな一連のテクストである。樋󠄀口由紀子の川柳句集『容顔』という。

『容顔』についてわれわれは別のところで書こうとしている。

そこでは、大きく分けて、『容顔』は三つの要素を主たるものにしている、ということをあきらかにすることになるだろう。

要素a:ここではないどこかから/ここではないどこかへ
要素b:肉としての身体/肉としての近親
要素c:暗い部屋/鏡

以下に論じてゆくのは、この要素とは結局どういうことだったのか、そして要素はどのように〈句〉のなかでみずからを発露させているか、という具体例になろう。


要素a:ここではないどこかから/ここではないどこかへ

石段に座れば見える白いバス
(樋口由紀子『容顔』、詩遊社、尚以下句の引用は同書より)

〈ここ〉とは内部であるのか。

その問いに答えるのは少し後にして、『容顔』のなかで〈ここ〉がどのように位置付けられているか、例句の構造から見てゆこう。

「石段に」の句。まずおおまかな構造として、「白いバス」は〈ここ〉にやって来るのか、〈ここ〉を去ってゆくのか、という二通りの読みが可能となる。

可能性としてどのように読めるのか。最初に「石段に座」るという行為がある。この石段に座るというミニマルな行為は、作中主体が営んでいるということの指標であり、逆に作中主体を確定させるしるしでもある。

作中主体は「石段に座」るということをしているものである、という限定がまずなされている。石段に座る、という行動がまず句の起点であり、作中主体の作品との相関関係をあらわす。作品のひろい世界の中で、石段に座ることによって、主体は主体として位置をつけられる。無限定な、渾沌とした世界はここで分節されることになる。「石段に座」るということはある秩序の発生であった。「石段」という秩序を持ったヒエラルキーがガジェットとして選択されていることは偶然ではない。

いや、おそらくは事態は逆なのだ。ヒエラルキーをもたらすために「石段」が選ばれたのではなく、「石段に」と発話された時に、必然的に句の世界秩序ができあがってしまったのだ。これは創作者がどのように創ったか?という正解を出そうというのではない。寧ろ読み手としてのわれわれが〈読む〉ときにどのような句の世界を構成していったか、そのプロセスを可視化することに他ならない。いずれせよ「石段に座れば」によって句ははじまる。「れば」という条件に注意したい。条件を付されるということは、数かぎりない可能世界のなかから、以降の世界が選択されたことを明示されているということになる。
「石段に座れば」を起点として可能性が示され、「見える」というまたしてもひとつの行為が導かれる。

見える。短詩作家は「見る」「見える」という言葉を通常書かない。情景が見えていることは前提であるから、わざわざその前提を説明することはない、これは普遍的な基礎として誰しもが持っている。だが、ここで「見える」と書かれた。これはどうしても必要なものとして意識されていたことの証左である。

「見える」と書かれたことによって浮かび上がるのは〈位置〉だ。見ているものと見られているものの関係、と言い換えてもよい。何かが何かに対して「見える」と言う時、前者から後者に向けてなんらかの力が及ぼされている。この句の場合は、「石段」という位置から「見える」という力関係が対象に向けて発揮されているとしてよい。「見える」ことによる位置エネルギーは、「石段に座れば見える」主体の位置を保証するものとして消費されることになる。

「白いバス」。主体の位置が確定された後にあって、「白いバス」というものがあらわれた格好になる。ここで、主体の位置が確としたものとして特定されているなら、「白いバス」という異物は主体に対して侵入してくるなにものかとしての異物、ということになる。「白いバス」という「白」さの異形性に意を留められたい。

ここまで見てきたことによって、「白いバス」というものは作中主体の「見える」世界に次第に姿を現してくるもの、と捉えることが可能になる。すなわち、「白いバス」は〈ここ〉にやって来るもの、と読むことがまずは妥当だ。
だが重要なことはこの先にある。〈位置〉というものが句を支える背骨であるとして、それならば句にまざまざと存在するのは〈ここ〉の〈ここ性〉のつよさではないのか。

「白いバス」という異物が侵入することによって、それが「見える」「石段」という起点は、動かしようのない〈ここ〉であろう。そして〈ここ〉というものが強調されると言うことは、〈ここ〉に何らかの刺戟を与えるなにものか異物は、〈ここではないどこかから来たるもの〉として認識されるという構図に収まることになる。

〈ここ〉というものの特権性。

だが、〈ここ〉というものはそれひとつが独立して存在するものではない。例句をみてきたとおり、「石段に座」る作中主体の〈ここ〉は「白いバス」が「見える」という連関運動の中に成立するものだった。〈ここ〉は〈ここではないどこかから〉の異物との関係によってはじめて〈ここ〉たりうる。

やっと、〈ここ〉は内部であるのか?という問いを考えることができる。もはや一目瞭然ではあるが、〈内部〉は内部だけで存在することができない。〈内部〉と〈外部〉が接するところ、関係するその接点においてしか〈内部〉とは存在することができない。〈ここ〉の〈内部性〉とは〈内部と外部の接するところ〉においてはじめて在るものだった。

正座して筍の皮はいでいく

この句においては〈ここ〉は「正座して」いる地点になる。言うまでもなく「正座」という不動性のつよい姿勢は起点だ。「筍の皮はいでいく」が〈ここ〉から移動しないとしても、方向性は「いく」という言葉が示すように、〈ここではないどこかへ〉を指し向かうものとしてある。

こうした〈ここ〉へのオブセッションは、帰結として〈肉体〉への言及に至らざるをえない。次節でみてゆこう。


要素b:肉としての身体/肉としての近親

先において、「〈内部〉と〈外部〉が接するところ、関係するその接点においてしか〈内部〉とは存在することができない」と述べた。

ここで話を逆から辿ってみよう。〈内部〉が存在できる、〈内部〉と〈外部〉が接するところ、とは端的に言ってどこか。まずわれわれに思い至るのは、われわれの肉体である。

肉体は内部である。そして同時に外部と接する接点である。肉体というものがセンサーであり、外部に介入する機械であることに、なんら論を要することはないだろう。センサーとしての視聴覚のほかに、たとえば〈皮膚〉を考えてみることも可能だ。

人間は、外に出ている、その否定すべくもないありようから出発するほかない、というのが実存主義の根本である。これはまことに倫理主義的な思想なのだが、この思想を人間の肉体に類比的に重ね合わせれば、実存とはとりもなおさず皮膚であるということになる。(谷川渥『鏡と皮膚』、ポーラ文化研究所)

〈ここ〉という内部/外部のあわいこそ、肉体が肉体として存在している事態に他ならない。

であれば、肉をもった〈わたし〉或いは〈わたくし〉とは〈ここ〉性によって導かれると言えるのではないか。

短詩において——いや、ここは川柳において、と言っておこう——〈わたくし〉性をめぐる種々は、創作・読解においてひとを惑わせるアポリアだ。だがこの『容顔』において、はじめからその難問は答えこそ提示されないにせよ、脱臼されたものとしてある。

右腕を伸ばしていくと保線夫の家

「保線夫の家」については〈ここではないどこか〉でもあるし、要素cの〈要素c:暗い部屋/鏡〉とも関連づけて読むことが可能だが、要素cについては次節で述べる。

いまは「右腕を伸ばしていくと保線夫の家」という〈句〉について考えよう。

まず、この「右腕」が内部/外部にわたって存在するものと捉えることができる。「右腕」だけなら〈わたくし〉のいちパーツとして在るが、「伸ばしていくと保線夫の家」に辿りつく器官としても在る。これは内部が外部に介入してゆく動態であるし、同時に外部によって在らしめられる内部の形相である。

ここにあって内部/外部の接点とは、すなわち〈わたくし〉と〈わたくしでないもの〉の接点であった。その接点においてしか、〈わたくし〉というものはあり得ない。みずからが信じている自分、というものは言葉通り自ら分かつものであった。外部の渾沌にある分節をきざむ、それが〈わたくし〉でなくてなんであろう。裏を返せば〈わたくし〉は外部によってかろうじて保証されていることになる。

『容顔』において〈わたくし〉が脱臼されているということは、この辺のメカニズムが意識化されて立ち上がっている点に拠る。

「右腕を伸ばしていくと保線夫の家」と言うとき、「右腕」は〈ここではないどこか〉へ伸びる。〈ここ〉が内部/外部を含むものとしてあるならば、〈わたくし〉というものもまた、ある境界線上にぎりぎり立つものであり、それが齎すナンセンスさが、笑いを喚起させる。

例句がいかに〈笑い〉を引き出すか、言うまでもない。「右腕を伸ば」すというナンセンスは、そして「保線夫の家」という届かないものへの希求は残酷だ。残酷であるがゆえにひとは恐怖するし、恐怖ゆえに笑うしかない。じつにあやうい境界線上に、句は成り立っている。外部のある笑い。これはすなわちテクストが脱臼されていることである。

そしてこの脱臼が行われる場所こそ、肉としての身体であった。さらに言うならば、肉としての身体は肉親に拡張される。それは血肉がつながっているという共同幻想である。幻想ではあるが、みずからが肉を持ったと認識する際、体液糞尿にまみれつつ壮絶なたたかいの果てに獲得した幻想である現実に、なにもフロイトなど引くまでもない。たとえばその肉親が、幻想上の、架空の近親であったとしても、それゆえにいっそうのことみずからの肉として確かに存在する。

ねばねばしているおとうとの楽器

たとえばこの句に近親への憎悪=愛を見てとるのは容易い。

だがここで「ねばねばしている」のは「楽器」というモノであり、「おとうと」はそれに付帯したまたひとつのモノに過ぎない。なぜそのことが、ここまで粘質を持った詩として提示されるのか。

「楽器」というモノは「おとうと」とそれを取り巻く世界との接点である。「ねばねば」という粘着は、世界に貼り付く意思と言ってもよい。「楽器」が「おとうと」の内部/外部の接点とも言い換えられる。そして「おとうと」というモノ自体が、句の記録者、あるいは〈わたくし〉にとっての内部/外部の接点たるモノであった。

読解のプロセスを多少操作してみよう。まず「おとうと」と提示されることにより、弟を弟と認識する自分、〈わたくし〉としての記録者が想定される(これを作者と同一視できるかは甚だ怪しい)。〈わたくし〉と「おとうと」は〈ここという肉〉と〈ここではないどこか〉の接点によって結び付けられている。同時に「おとうと」が〈わたくし〉と世界との接点とも言える。そしてその弟自体が、「おとうと」として、「楽器」に粘した内部/外部の接点と関係をなす。

この多重な接点のからみあいこそが、例句にある淫靡な——淫靡という内面性——重複性を齎している。「ねばねば」とは本来分離すべきものが接着しかけている事態であった。ために句そのものを重複させ、多重にすることで、近親という〈肉〉を表現している。こうした多重性からわかることは、この作者はモティーフに拠るのではなく、むしろ構造に拠って句を作っていると言うことだ。

構造に拠って句を作るということは、言葉の一個一個に最適の場所がつねにえらばれているということである。言葉の表現は、言葉の位置によって絶え間なく保証されている。それはモティーフに拠って句を作る作り方とは決定的にちがうものだ。モティーフに拠った場合、たとえばこの句であれば楽器=性器となされるだろうところであるように、言葉の表現と、位置——それは内容と置き換えることもできるが、このふたつはどこかでずれを顕す。

どちらがよいという問題ではない。表現と位置がつよく確定されたものと、ずれを顕にするもの。どちらにも秀でた句はある。ただ、いまわれわれが読んでいる句を書いたのは前者に属する作者であり、それも確実な方法論によって奇蹟的な成功にたどり着いた作者だと言うだけの話だ。

では、そもそも、何に成功したというのだろうか?最後にみてゆこう。


要素c:暗い部屋/鏡

たとえば次のような句がある。

写真屋の奥には鮫の頭あり

この句に対して、われわれはべつのところで以下のような文章を書いている。

……〈写真〉という〈光〉をあつめる、しかし暗闇がなければ成立しないモノの結実としての「写真屋」(ロラン・バルト『明るい部屋』を通奏させることも可能だ)。その「奥には」「鮫の頭あり」という。
おそらく何があってもよかったのだ。ここで「鮫の頭」という必然性はない。ないが必然性がないということは宿命的ということである。いまここには、どう足掻いても「鮫の頭」が在ってしまったのだ。そこに在ってしまった以上痛切なまでに仕方がない。「あり」と言う。在ること。消えること。川柳が〈句〉であることのこれ以上の自己証明があろうか。
〈鏡〉の要素については後に述べるが、ここでやや先回りすれば、〈暗い部屋〉は必然的に〈鏡〉を呼び出す。〈写真機=カメラ・オブスキュラ〉の喩は先ほど見た通りであるし、光なき密室が窓を外界に晒せば、それは自然のものとして鏡となる。われわれはアナロジーを実体化させる読みをしているのだ。
(略)
鏡はみずからを映す。ジャック・ラカンの鏡像理論を持ち出すまでもなく、〈わたし〉の認識こそ鏡であった。〈わたし〉或いは〈わたくし〉性の脱臼、とは先に述べた。この脱臼をもたらすものとして、〈鏡〉の要素は剔抉されるのだろうし、〈暗い部屋/鏡〉の〈ここ〉性を強調することによって〈ここではないどこか〉を呼び出し、〈わたし〉が貼り付くゆえに〈わたし〉たる〈肉〉と通奏する所以もある。
(川合大祐「『容顔』試論」、未発表)

こういった文章の当否はともかくとして、なぜ〈暗い部屋/鏡〉の要素を剔出したのか、われわれのその動機はご理解いただけたと思う。

あながち捨て去るべき視点ではないと言う証拠に、句集からいくつか拾ってみる。

三十六色のクレヨンで描く棺の中

シベリア産の森を育てる母の部屋

黒揚羽がずっととまっている鏡

アフリカの王ならくよくよはしない

姉に生まれて午後の鏡は海の彩

整然とビニールハウス闇に立つ

いつからか奥の部屋からくる手紙

婚礼布団のすみっこにあるふくらし粉

おとうとが知っていたのは肉屋の倉庫

だんだんと簞笥の上が乾いていく

これらは引用すべき句群の一握りでしかない。ひとつずつ解説を加えることはしないが、「アフリカの王ならくよくよはしない」を取り上げてみよう。

ここに部屋も鏡もない。だが、「くよくよはしない」というのはあきらかにみずからの内部の発露である。内面の吐露、ということが「アフリカの王」と対比されることにより、いかに内部に沈鬱させられたものか、明確に閉じた内部としてあらわされている。閉ざされた内部としての部屋。これがすなわち〈暗い部屋〉の部屋性である。

尚、付記するなら「アフリカ」とは〈ここではないどこか〉であり、「王」が神の受肉であるならば〈肉〉である。a、b、c、と挙げた三つの要素が絡み合っていることになる。

三つの要素が絡み合うことによって何が顕されていると言うのか。

つい先に触れたが、ここであらわされているのは〈内部〉ではなかったか。三つの要素の絡み合いとして、その場所としての〈暗い部屋〉ではなかったか。この論の最初のあたりで、テクスト『容顔』を「外部への接続を為すがゆえに、内部を充実させてしまった、あるはこの因果は逆に辿って、内部の充実ゆえに外部に接続された」ものと定義づけた。そのような内部と外部の接続こそが、テクスト『容顔』を運動体としての命あるものにしているのであると、とりあえずは言っておこう。

われわれはまず〈ここ〉を見てきた。〈こことしての肉〉を見てきた。そして〈こことしての暗い部屋〉を見ている。

すべては〈ここ〉に還りつく。一ジャンルの特異性を殊更にあげつらおうとは思わない。だが、本質的なところで、川柳は〈ここ〉に固着するのだ。

いやむしろ、固着するがゆえに川柳は〈ここ〉を呼び出すのだと言い換えることもできる。なにかに固着すること。それは自他の一体化を痛切にねがいながら、絶対的な境界線に阻まれ、それでも絶望的にこいねがうことである。

この段階に至って、川柳の発生に遡り〈前句付〉を経ての自他の発生、という思考を巡らせることも、あるいは川柳というものが(短詩というものが)〈わたくし〉というアポリアを抱えているものである、と思いを馳せることも、またはその他のさまざまな考察をたどることも可能だ。

だが、今はまだそれらの展開は待っておこう。更なる思考、もしくはわれわれの〈川柳〉の創作の涯てに、いつかは答えの輪郭がうっすらと浮かぶことをなかば信仰にも似て予感するからだ。

いま、ここでは次の句、句集『容顔』のいちばん最後に置かれた句をみるにとどめる。

黒板に名前を書いて眠ろうか

「名前」というもの。それは自他をわかつ絶対的な牆壁である。「黒板」という暗い部屋の鏡のようなもの、〈ここ〉に厳然とあるものに、肉あるものが自他をわかちたりようとしている。しかしこの主体は、「眠ろう」ともしている。眠り。自他の牆壁がなくなると同時に、自他すらなくなってしまう地点・時点。主体は主体から剝奪されると同時に、どうやっても主体から逃れられないのだ。

こうしたジレンマの解消として、たとえば〈死〉はあるが、人間にとって〈死〉は不可能である。われわれは生きてゆくしかない、という倫理にここで川柳は触れる。だが倫理とはつねに行為に先立ってあらねばならないものだった。すなわち、われわれは〈ここ〉に在らねばならない、という問題をこれからもずっと抱えもつことになろうし、それは歓ばしいことに違いなかった。

樋󠄀口由紀子という作家が齎した恩寵とはこのようなものであった。論としてはあるまじき振る舞いだが、ご冥福をお祈りする。

(了)

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