素晴らしきローソンを得よ
伊舎堂 仁
note記事(2025.11.14)より転載
∵
のように点が3つあると、人はそれを顔と見ようとする……とか。
(これを男の口で言う気持ち悪さを申し訳ない)腰のくびれた女性→魅力的 とする回路が「ある人にはある」のは、妊娠していない雌とつがおうとするためなのではないか……
などなどの、そんな話のたびに、頭の中の「人間」に「人間(いきもの)」みたいなルビのつく感じがある。
ものすごく人間(いきもの)なときの人間。
この〈さみしがりやの・増えたがり〉な体から、一歩も出られず死ぬまで生きて、その途中に、とつぜん襲いかかられたりするわけですよね。
全身が震えるような喜びに。
そうじゃないものもだいぶたのもしい数になってきてるけど、まだまだ短歌の言葉はこの「人間」の「いきもの」ゾーンに投げ込まれたものが強い気がする。
早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ /葛原妙子『橙黄』
「をとめ」ではない自分が、この短歌に〈襲いかかられた〉ような感じになる。
なぜ。
ひとまず分からない。感動だけがある。そんな歌はそれ以降、自分の体の中に、真空地帯のようなものを産む。
短歌をしていくことは、その後の道中で関わるすべての人とこの〈真空地帯〉のカブりや、カブらなさを、アレしたりコレしたりすることなのかもしれない。
⚫︎早春 → 季節のはじまり
⚫︎をとめ → 生命のはじまり
⚫︎レモンに立てられるナイフ → 作者の目の前にある「今」
⚫︎「素晴らしき人生を得よ」 →「今」を感受した作者の体を通過し、「をとめ」へ戻ってゆく、祝福の意志
を構成要素に持つ世界の一瞬が、
早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ
という一行に格納され、読み手の一瞬へ凝縮/読了されるときーーーー〈体に入ってくる〉速さこそ短歌定型が我々にくれる最大の恩寵でしょうーーーー処理落ち、した脳はあわてて「体に」その読解を処理させようとするのではないか。
①早春 という「スタート地点」 から
②レモンにナイフ立つるをとめ という「今=動く点P」 を読み手へ見せたあとへ
③素晴らしき「人生」 を名指されることでいきなり現れる「目盛りの全地点」
④および、唐突にして巨大な祝意
というカメラ割りによって、読者は〈マジで巨大なものが急に〉カメラへ映ったような体感があるのではないか。
これにびっくりする。
体感。
言語という「理」から、さっさとそこへ切り替えるための営み。
短歌。
短歌一首の〈速さ〉も、言葉を5、7、5、7、7、で置くことで得られる〈発声に際してのなめらかさ〉も、最終的にはこの「脳の処理落ち」を手助けするためのものではないのか。
停電の際に切り替わる予備電源のように、人間の人間(いきもの)部分を、急遽、読解へと出勤させ、うまくいけば全身が震えたあと「人間」の世界へ戻って来れる。
「なんかやばいのを読んだな」という感想は、復帰した、主電源としての脳の中で行われる。よっておのずと、おおむねの名歌への感動は、いまは自分のいない別室、への感傷のようなものが微量、へばりついたものともなる。
をとめよ素晴らしき人生を得よ
の唐突な巨大さに圧倒され、祝意を目撃した気持ちへと至った魂にとっては、自分が「をとめ」か非「をとめ」か、というのはディティールのちがいでしかない――ーーゆえに、自分は男なのにこの「素晴らしき人生を得よ」へは感動ができるのだ! という説明には、しかし「なにがなんでも感動しようとする」者の傲慢さがあるかもしれない。
葛原さんは「をとめよ」って言ってるわけだからね。(「Black Lives Matter」に対して「All Lives Matter」を言い返すような駄目さがある)
そしてこの、なにがなんでも、という〈すごくエネルギーな〉言い方も、つくづく「いきもの」的な領域のそれである。
葛原→をとめ
のあいだの「→」で感動するのは「中抜き」である。
泥棒が全身を震わせて感動している。
葛原→ をとめ
では、こう考えることはできないだろうか。
「をとめよ素晴らしき人生を得よ」を読んでるあいだ読み手は、強制的に〈をとめにさせられる〉のだ、と。
ローソンはなんの略なのローソンはこころゆくまで正式名称 /谷川由里子『残暑』
『現代短歌パスポート 恐竜の不在号』
「をとめよ」と同じことが起きている、と感じるほぼ唯一の歌に、「ローソン」という語句が入っているのを、奇妙なことだとは思わない。
すぐれた書き手は、読み手を「をとめ」にも「ローソン」にもすることができる。
一方で読み手も、いつだって「をとめ」や「ローソン」になる準備ができている。
ローソン=ローソンという単なる事実が、【こころゆくまで正式名称】という言い方の〈強い速さ〉で私の体に入ってくるとき、「人間(いきもの)」の部分で肯定されたような気持ちになる。
「あなたはそのままでもあなたなのだよ」を、ローソンとして聞いたような気持ちになる。
しかしこれは。
ここで起こっているのは。
肯定のように聞こえる言葉に、ローソンになったような体感で全身を震わせるとき、ここにあるのは、3つの点が顔に見えてしまうような、巨大なさみしさだと思う。歌から出れば、「わたし」に戻る。元いた場所でひきつづき、風が吹いているのを感じる。
誰も、体からは、死ぬまで出られない。
ときどき震えて喜ぶ。
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