2026-07-12

中山奈々【句集を読む】 静かな距離 岡田由季『中くらゐの町』評

【句集を読む】
静かな距離
岡田由季中くらゐの町』評

中山奈々
『豆の木』第28号(2024年6月)より転載

由季さんを思い出すとき、現れてくるのは山科駅のホームだ。いや京都駅のホームかもしれない。午前中に開催された句会が果てて、電車を待っている。どの季節もそうやっていたはずなのに、浮かぶのはどれも早春で、空はほうきで掃いたような薄曇り。ときには分厚めの、でも雨を降らせない湿りのない曇り。寒いとか暑いとかは記憶からすり抜けている。ああ、そうだ。放送がかかっていたり、ほかに並ぶひとがいたりしているはずなのに、音もない。ないというか、わたしたちからは遠くに放り出されている。

ひつそりと靴擦れをして鳥曇り

乾燥していて、紙で指が切れてしまうこと。遠近法がうまく摑めず、どこかにぶつけてしまい、青たんが出来ること。内臓の弱り、あるいはストレスから口内炎が現れてしまうこと。不可抗力のなかにある自分の注意不足を思えば、それぞれ痛いけれど、自分のなかで折り合いがつけられる。しかし靴擦れはそうはいかない。新しい靴でなったら、楽しい気持ちを挫かれた気分になる。慣れた靴なら、なぜ今更と途方に暮れる。なかなか治らない上に、地味に痛い。みんなに見えないから同情してもらえない。してもらえないというか、こちらから靴擦れであることを告げるのも変だ。だって靴擦れってやっぱりケガのなかでも情けない。ひっそりなったものなら、こちらもひっそりと黙って受け入れよう。

しかしあと五分、十分と一緒にホームで電車を待つなら、ひとり黙って靴擦れと向き合っているわけにはいかない。

駅舎にて見せあつてゐる茸かな

茸狩りに一緒に行ったひとか。はたまた、この駅でこの時間に電車を待っているなら茸狩りに行ったひとにちがいないと踏んで話しかけたか。いずれにしても楽しそうに茸を見せ合っている。ベンチに広げずに、袋から一株出して、見せては戻し、まあ一株出す。電車の待ち時間が長いから、それが出来るのであるが、このまどろっこしさをも愛せる時間である。欠けた一本だけをうやうやしく取り出して、笑かしてくれる。

しかしわたしは茸を持っていない。代わりにさっきの句会の清記用紙を取り出してみようか。いや、きちんと畳んで入れただろうか。知らないうちにリュックのなかでくしゃくしゃになってはいないか。皺の寄った紙を見て、きちんとしていないと思われたらどうしよう。すでに思われている可能性もあるけれど、恥の上塗りはやめておこう。

市ヶ谷のホームから見る残る鴨

残念ながらここは市ヶ谷出駅ではない。もし市ヶ谷駅だったとしても、土地勘のないわたしは、あれは神田川ですかねと皇居の外堀を指さしていってしまいそうだ。そうなると到底、残る鴨を見つめて楽しむまでにいかない。しかし市ヶ谷という大きくて、電車の行き交いが多そうな駅からも残る鴨が見えるのかと考えて、由季さんだから見えるんだなとひとり納得する。

残る鴨はいないけれど、とりあえず鳥を、鳥の話を、と思って、山科駅か京都駅かの薄曇りの空に鳥を見つける。あれ、あれは鴉ですかね。鳶ですかね。と調子の狂った声で話しかけてみる。雀や鳩といわなかった自分を褒めたいし、そうですねとしか返事出来ない質問に、この前見た野鳥の話を交えてくれた由季さんに拍手を送るしかない。

加減して禽舎飛ぶ鳥蔦若葉

話を合わせてくれえいるということはあるかもしれない。こちらが気を遣っている以上に由季さんが(こんなにわたしにさえ)神経をすり減らしてくれている可能性もある。何故なら、

水鳥に会ふときいつも同じ靴

本当に素直に読むと、履き心地のよい靴で、水のぬかるみややや足に絡まりそうな枯草をも気にせずに進んで行けるのだ。それに普段使いにしてはシックな色合いと形なのである。水鳥のいる湖や池に対して、靴で歩く大地。水鳥ではあるけれど、鳥という空(上)に対しての靴という足元(下)。ふたつもの対比構造を配している。それなのに、さりげなく温かい句なのである。これはすごい。

ときて、「いつも同じ靴」というのを、単純に発見、気づきの句として扱っていいのだろうか。何故なら、これは気づきではなく、意識ではないだろうか。意識して靴を履いている。水鳥を警戒させないように、同じ靴にしている。水鳥がそこまで見ているかどうかわからないけれど、こちらが配慮する。靴だけでなく、服装も水鳥の警戒を解くように毎回同じ(ような)ものにする。もちろん、防寒対策バッチリの服である。いや、〈裸木となりても鳥を匿へり〉のように、寒くても鳥を優先するのかもしれない。

集まらぬ日の椋鳥の楽しさう

集団でわあわあ鳴き、飛び、一木では収まらずに何本もの街路樹を占拠する。それはそれで楽しいのかもしれないが、一羽だけで過ごす椋鳥が楽しそうに見えたのである。自分もそうかもしれない。〈犬とのみ行く場所のあり草紅葉〉のように、集団ではなく、ひとり(と一頭)だけの楽しみを知っている。いや、ひとりで過ごす時間をきちんと持っているから、集団で時間を過ごすことが出来るのだ。

歌仙巻く女たちみな素足かな

これは集団で過ごす楽しい時間である。歌仙を巻きながら、夢中になってほかの話をする。だから、歌仙はなかなか巻き終わらない。それでも焦りはなく、むしろ巻き終わらないことを楽しんでいる。そういうときに、だれもがみな素足であるという事実を冷静に見ている。その瞬間、その輪にいる/いたはずなのに、一定の距離が出来る。距離が置かれる。映画館でふと我に返るようなあの瞬間である。自分と空間とに区切りがあるのだ。

中くらゐの町の大きな秋祭

内側に座つてみたき夜店かな

食堂に死角の席やぼたん雪

夏の海から区切られて漁港かな

自宅から土筆の範囲にて暮らす

自分の住む町を「中くらゐ」といえるのは、大きい町も小さい町も知っているからである。それぞれの町には住んでいたのかもしれないし、訪ねただけかもしれない。ただ今を「中くらゐ」の町で過ごしている。その規模からすれば、大きな秋祭なのだ。町総出で、ここにこれだけのひとがいたのか、収まっていたのかと驚くほどである。ほかからも見物に来ているかもしれない。その秋祭に町ごと飲み込まれているはずなのだが、町を「中くらいゐ」と把握し、それに比べたら秋祭を大きいと冷静に判断している。秋祭には参加している。しているのだが、一瞬、距離が生まれるのだ。生まれてしまうのか。生み出されてしまうのか。それはこちらでは分からないけれど、ただ、生まれた距離をしっかりと描きとめているのが、由季さんの俳句である。

夜店に対して内と外とを見出し、静かな内側のほうに座りたいという。

見通しのよい、だだっ広い食堂に死角を見つける。そこに座って静かに過ごすのであろうか。

海あっての漁港であるが、海からは「区切られて」いると捉える。夏の海といえば、海水浴もある。だからこそ余計に海そのもの、海水浴場、漁港との区切りが見えるのだ。しかしそれを今まで描きとめたひとはいただろうか。見過ごされがちな景色である。

自分の生活を範囲で区切る。自宅と土筆以外の姿かたちをはっきりとは描かない。だからこそ、何があるか想像して楽しめる。

一〇〇〇トンの水槽の前西行忌

空間との区切りの俳句を読んできたが、そのなかでこの句が一番である。一〇〇〇トンの水槽は、もちろん水族館にある水槽であろう。水族館のなかに入り、圧倒的迫力の水槽を前にする。自分が魚になったような気分になる必要はないが、空間に浸ることは出来る。出来るというか、浸っているのだ。いるのだけれど、ある瞬間、あのある瞬間がやってくるのである。一〇〇〇トンの水槽の「前」と距離を生み出す。たしかに前ではある。中ではないのだから。その上で西行忌と持ってくる。これは突き放し以外の何物でもない。一〇〇〇トンもの水槽だから、イワシかアジかのぴかぴかに光った群れがいつまでも途切れずに回って泳ぐ。底にへばりついたままの魚や硝子を舐めるように泳ぐエイもいる。何より怖いものなしのジンベイザメが水上からの光を遮りながら遊泳する。海の縮図である。対して西行忌を意識するわたし。西行は今も慕われる才能ある僧侶である。若くして(家庭を捨て)出家している。西行は今も慕われる才能ある僧侶であるが、若くして(家庭を捨て)出家している。世俗と距離をとり、ひとりで修行する。内面に向き合いすぎても業となる。一切は無なのだが、そうそう無にはなれない。死ぬときは桜の時期がいいなんて言っちゃうあたり、無ではない。しかし世俗と距離を置く僧侶なのである。その道に自ら飛び込んだ。そんな西行の命日が頭にある。目の前には一〇〇〇トンの水槽。周りにはその水槽を楽しむひとびと。水槽と周りのひとびとと、そして水族館から出たあとの(おそらく桜が咲いている)外とも距離がある。頭のなかの西行とだって親しくはない。その一瞬の静かな距離を描きとめる。描きとめたあと、怒濤のように愛おしさが溢れてくるかもしれない。水槽に飲み込まれてしまうかもしれない。ただ今、距離があるのだ。水槽の青い光を受けながら。嫌な距離ではない。冷静で静かな距離である。

ひと粒のなかの栄養冬の星

グリコのことだろうか。三〇〇メートル走るのに必要な栄養がひと粒にぎゅっとなっているらしい。冷静で静かな距離を生むとき、由季さんのなかで、由季さんがぎゅっとなってすごい栄養を蓄える。と思っている。

こんなに話したけど、駅のホームの由季さんにはどう話しかけよう。いやそのまま話しかけずに空を見ていようか。

太陽を見ぬやう鷹を見てをりぬ

(了)

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