岡田由季論
heimlichなるunheimlichについて
角川俳句賞受賞作「優しき腹」
柳元佑太
『豆の木』第26号(2022年5月)より転載
岡田氏の角川俳句賞受賞作「優しき腹」は、私にはどうも読み損ねられ続けているように見えるし、選考座談会を拝見する限り、それは皮肉にも本作品を二重丸で推し、氏に月桂冠を齎(もたら)した正木ゆう子氏の読みが最も平凡通俗であったことに起因しているように思える。「一言で言うと、私の好きな、のびやか、ですね。おっとりとしていて、自分の感じたことをそれ以上でもそれ以下でもないように詠んでいる」という正木氏の言、つまり伸びやかさだとか平明さだとか明るさだとか自然体であるとか、こう云う正木氏による批評というのは岡田氏の作を語っているようでありながら、岡田氏の作をして鏡の反射に遭ってしまい、正木氏が正木氏自身について語ってしまう陥穽にあったのではないか。自分の好むところの句材文体との類同性から、岡田氏の作品の決定的な核の部分を逸してしまっていたのではないか。それに、伸びやかさだとか平明さだとか云々は、本当に自明の価値なのかしらん? とはいえ、私が述べるところのものも、所詮、私という入射角から照らし得るところのものを限定的に照射するのみである。
かくして、私から見えているところのものの概観を遠慮なく提示するとするなら、まず、氏の作品に表層を覆うheimlich なる膜、そして氏の作品の表層が、その膜の破れ目自体をも自ずから抱え込んでいるために、unheimlichなる印象をかえって保持している、という見立てになる。ここでは「heim=家」という語義に立ち戻って、heimlichを「慣れ親しんだもの」、unheimlichを「不気味なもの」、くらいで捉えられたい。哲学的な文脈を強く踏まえている訳ではない。私にとっての氏の作品の印象は、heimlichなるもの――伸びやかさだとか平明さだとか云々――が膜のように全体を覆っていることそれ自体の居心地の悪さや不気味さ、つまりunheimlichなものの感覚である。この非常に同時代的な感覚をこそ、この稿を尽くして明らかにしたい。
氏の連作のあくまで表層を覆っているモードを、句を例示しつつ示すと、〈秋の日や牛牽くやうに犬を牽き〉〈古書店を経由してゆく秋高し〉〈兄弟に見える板前今年酒〉〈白息の子が人形に話しかけ〉〈ヒヤシンス一度にすこし歯科治療〉に見られるような、悪くない、現代日本の平穏かつ明朗な日常性であったり、〈集まらぬ日の椋鳥の楽しさう〉〈太陽を見ぬやう鷹を見てをりぬ〉〈丹頂の前にエンジン冷めてゆく〉〈仰ぎ見る雲雀の息の長きこと〉〈鳰の背をこぼれ鳰の子泳ぎだす〉〈翡翠の声と色とが別々に〉のように、鳥類観察(バードウォッチング)的な眼差しを通じて明らかにされる動植物(特に鳥類)への慈しみの態度、といったものが挙がるであろう。
なるほど確かにこれは正木氏が票を投じるのも頷ける。この氏の連作の表層が従属しているものは、乱暴な物言いが許されるなら、平成という時代が形作ってきたパラダイムそのものであろう。未だ支配的な平成のパラダイムを悪しざまに言うのも勇気を要するが、自分の半径数メートル以内の日常や生活の重視というか、遠くのものへの想像力の欠如と脱政治的な中庸的態度のようなもの、そういう平成の空気感には私は大変な反発を感じる。しかし残念なことに、俳句という詩形はこれらと相性がよろしかったらしい。そういう意味での、伸びやかさだとか平明さだとか明るさだとか自然体であるとかが、平成の俳壇を席巻していたし、そういう価値と適合するものとして岡田氏の文学空間の表層も、ひとまずは受け取り得る。
しかしながらこの文学空間がいったい何を排除し、再構成した結果成り立っているのかについて、我々は思いをいたさねばならぬ。その軋みの音を、ゆがみの音を聴きとらねばならぬ。氏の作品の表層のheimlichを受け取って満足するということは、例えばホームレスが居つけないよう駅前に排除アートと呼ばれるオブジェを設置することによって出来上がった明るく平和で均質な広場、つまり見せかけのheimlichな空間を、疑うことなしに是とし享受することと、さして変わらないように思う。世界とは日の当たらない昏い場所も当然抱え込む場であり、理性による分化・弁証法を拒絶するような混沌(カオス)の場でもあり、疲弊や倦怠や死を、いかなる存在も存在者として存在するがゆえに間逃れえないのである。さて、岡田氏の句を検討しよう。
例えば、連作後半の〈箱庭の荒廃すぐに始まりぬ〉という句を読むと、「荒廃」という強い語に一瞬驚かされる。既にこの時点でheimlichなるものの裂け目が顕わになっているのだが、この世界にはしつらえられた明るさ、快適さしかなく(まるで大きな箱庭である)、ランボーではないが「真の生」の欠落した生活があるのではないか、という疑義がある。そして、それにも関わらず、自分がこのheimlichな空間の中に〈かいつぶり毎日無理をしてゐたり〉のように無理をしてでも疲弊してでも存在し続ける他ないらしいという、何かに疎外されたまま穏やかに進んでいく、終わらない日常を送る一生活者の感覚もまた書き留められる。そして〈嬉しさの長持ちしたり桜餅〉は何か、そういった、喜怒哀楽の気分すらも自分のあずかり知らぬところでよそよそしく決定されていて、しかしながらそれを己のものとして受け取る他ないような倦怠の感覚が描かれているのではなかろうか。そしてこうした疎外、疲弊、倦怠の感覚は、動植物を見る眼差しにも反映されているように思う。〈貴船菊眠り足りたるやうに咲く〉には逆説的に不眠の、眠りの足らぬ主体の気分が投げかけられているように思われるし、〈集まらぬ日の椋鳥の楽しさう〉という句も、疫病下で集まれなかったり、あるいは何か自分が〈真の楽しさ〉から根本的に疎外されている主体の気分があるように思うのだ。〈埋め戻す工事の穴や花八手〉〈夏薊ボールの飛んでこない場所〉〈忽然と隣家引越し梅雨晴間〉の句に見える不在なるものへの鋭敏な感覚にも着目したい。以上のように、氏の連作にはunheimlichが顔を覗かせている。それにしても象徴としての「平成」は本当に終わったのか。私は岡田氏に、終わらない時代に対しての非常に誠実な伴走者的性質を見たいのである。少なくともheimlichを岡田氏の特質とみることに反対であることは一貫して強く申し上げたい。
(了)
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