【野間幸恵の一句】
セルロイド
鈴木茂雄
セルロイド尿道ぽっと灯りけり 野間幸恵
この一句は、野間幸恵という現代俳人の感性の核心を、ほとんど残酷なまでの明晰さで照らし出す。まず言葉の配置そのものから説き起こしたい。上五の「セルロイド」は、すでに死語に近い物質名詞である。硝酸セルロースを主原料とするあの半透明の合成樹脂は、かつて映画フィルムの支持体であり、人形の肌であり、万年筆の軸であり、安価な櫛であった。それは二十世紀前半の近代が、有機物を模倣しつつも決して有機物になりきれなかった、あの特有の冷たい艶と脆さを帯びた物質である。そこに中七で「尿道」が直結する。解剖学的に正確な、しかし日常語彙としては極度に親密で、かつ禁忌の領域に属する器官名。排泄と性のあいだに位置する管状の通路。柔らかく、湿潤で、生命の内部を外界へ開く細いトンネル。
このふたつの語の接合は、単なる異質物の衝突ではない。セルロイドという人工の皮膚・人工の膜が、忽然と「尿道」という生身の器官に置き換えられるか、あるいはその器官そのものがセルロイドという物質性を帯びて現前する。読者の意識は一瞬、医学標本と古い玩具と映画の残像とが重なり合う、奇妙な立体視の空間に投げ出される。
下五の「ぽっと灯りけり」が、この異様な結合体に決定的な時間を与える。「ぽっと」は、灯火がふと点じられるときの、小さく、しかし確かな立ち上がりを写す擬態語である。激しい閃光ではなく、闇の中に静かに輪郭を浮かび上がらせる程度の光。そこに古典的な助動詞「けり」が添えられることで、この点灯は単なる現象ではなく、語り手の認識の転換、あるいは世界の側からの不意の開示として定着する。何ものかが「灯った」という事実が、すでに過去のものとして、しかし今なお鮮やかな余韻を伴って提示される。
ここにおいて句は、単なるシュルレアリスム的なイメージの飛躍を超える。セルロイドの尿道が灯るという事態は、身体の最も秘められた通路が、人工の透明性を帯びて、忽然と可視の領域に現れるという、一種の認識論的事件である。内部が外部へ、隠蔽が露出へ、有機が無機へ、あるいはその逆へ、境界を越えてしまっている。光はここでは啓示であると同時に、曝露でもある。医学的な照明灯が当てられた瞬間の冷たい無慈悲さと、古いセルロイド人形の内部に隠された小さな電球がふと点くような、どこか玩具じみた優しさとが、不可分に重なっている。
野間幸恵の作風を知る者にとって、この句は決して唐突ではない。彼女の句業は、日常の断片と抽象的・物質的なイメージとを、一切の情緒的な橋渡しを拒みつつ、鋭く対置させることに長けている。耳の奥でジャマイカが濡れるというような、身体の内部と異国の湿度とを結びつける手法、あるいはONとOFFというデジタルな二元論のあいだに裸子植物を置くような、概念と生命との静かな衝突。それらはすべて、言葉とものの関係性そのものを、俳句という極小の器の中で純粋に結晶させる試みであった。本句もまたその延長線上にある。ただしここでは、身体の最も私的な部位が、セルロイドというすでに歴史的な物質によって、あえて「もの」化されている。そのことによって、親密さは剥奪され、同時に新たな親密さが生み出される。読者は、自らの身体の一部が、忽然と古びた人工物として、光の中に浮かび上がるのを見るような、奇妙な自己疎外と自己発見の感覚を味わう。
形式上も、この句は興味深い。定型を守りつつも、季語を欠き、切れを「けり」に託している。切れはここにおいて、単なる休止ではなく、点灯という出来事そのものの確定である。五七五の枠組みが、異様なイメージをあたかも普通の俳句であるかのように装うことで、かえってその異様さが際立つ。伝統的な俳句形式が、もっとも非伝統的な内容を、いとも自然に受け入れてしまう逆説。そこには、現代俳句がなお持ちうる形式の力と、その形式がなお耐えうる内容の極端さとの、危うい均衡が感じられる。
結局のところ、この一句が問うているのは、可視性とは何か、という根源的な問題であろう。灯るとは、見えるようになることである。しかし「セルロイド尿道」が灯るとき、それは果たして何が見えるようになったのか。器官か、物質か、記憶か、あるいは言語そのものか。句は答えを与えない。ただ、ぽっと灯ったその光の余韻だけを、読者の意識の奥に残して、静かに終わる。
野間幸恵の俳句は、しばしば「関係性の静物画」と呼ばれることがある。本句もまた、その静物画のひとつである。ただしそこには、すでに生身の体温が、セルロイドの冷たい艶の下に、微かに、しかし確かに宿っている。その微かな体温こそが、この句を単なる概念的な遊戯から救い、真に文学的な強度を帯びた作品たらしめているのであろう。
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