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2009-03-15

山口優夢 ロシアに2泊3日で行ってきました日記 3日目 箱庭の外で犬が鳴く

ロシアに2泊3日で行ってきました日記
3日目
「箱庭の外で犬が鳴く」

山口優夢


2月22日(日曜日)

  乗務員毛皮のままで朝が来る

その日の朝、起きたときは、列車が終点ウラジオストク駅に到着する10分前だった。窓にはロシアの朝の風景が流れてゆく。何列も並んだ鉄路の向こうに人家がぼんやりと散在しているのが見える。しかし窓の外に気を取られている暇もない。荷物を手早くまとめる。

8時30分ウラジオストク着。ほぼ定刻どおりの運行だ。列車を降りるときもまたタラップを使う。朝の冷え込みの厳しさを予想していたのではあるが…あれ、実際に外に出てみると、思ったほど寒くはない。ハバロフスクよりかなり南に位置しているウラジオストクは、その分冷え込みもそこまで厳しくはないのだ。ハバロフスクがマイナス20度だったのに対して、ウラジオストクはマイナス10度もいかない。もちろん寒いことは寒いのだが、キーンと肌が痛くなるほどではなかった。

やや暗い駅舎に入り、特に改札口のようなものを通ることもなく、入ったときとは反対側の出口からウラジオストクの町に出る。ハバロフスクは道路も広く、建物も整然としていてヨーロッパの香りを漂わせていたが、それに比べるとウラジオストクはだいぶ雰囲気が違う。もちろん全体的な様子はヨーロッパに近いのだが、ごちゃごちゃした路地や建物の不統一さはどちらかと言うとアジアを想起させる。アジアとヨーロッパの中間地点、といった風情だ。

駅前でごみを拾っていた清掃婦らしきおばさんに声をかける。旅行会社からもらったウラジオストク市内の地図を開き、その地図上で印のついているホテルまでの道筋を聞く。我々は、この日、ウラジオストク空港から新潟へ帰ることになっていたので、ホテルには泊まらないのだが、一度めぼしいホテルに行って受付でタクシーを呼んでもらい、そのタクシーで空港に行く、という手はずを考えていたのだ。大きなホテルの受付であれば英語でも通じる、ということで、旅行会社から提示された案である。

そのおばさんに聞いた道を行こうとすると、妙なおじさん二人組が我々に声をかけてくる。一人は毛糸帽をかぶった小柄なおじさん。このおじさんがしきりに何事かロシア語で話しかけてくる。もう一人はあまり口を出さずにことの成り行きを見守っている、ガタイの良いおじさん。彼は我々にあまり絡んでこないが、小柄なおじさんのやることをじっと監視している目つきでいるところを見ると、むしろこちらの方がボスなのであろう。

小柄なおじさんが横合いから我々の地図を覗き見て、何か喚いている。身振り手振りから察するに、君たちが行こうとしている道ではホテルにたどり着くことが出来ない、そっちの道じゃなくてこっちの道だから、俺らが案内してやるよ、ついてこい、ということらしい。しかし、はいそうですかとこんなあやしいおじさん二人組について行っていいものやら。

とりあえずは3人で無視を決め込む。地図で見てホテルがあると思われる方向にとにかく歩いてゆくと、おじさん二人はしつこく後からついてきた。機を見て我々の前に回りこみ、ホテルに行くにはこっちだよ、と我々の行く方向を強引に変えようとする。度々そういうことがあって、その度に我々はストップを余儀なくさせられる。

広い道路の真中にある路線バスの停留所のようなところで何度目かのストップ。おじさん二人があまりにしつこい。しかし、我々が行こうとしている方向もなんだか人気がなく小暗い感じの路地だ。それよりは、彼等が示している道で少々遠回りをした方がひょっとしていいのではないか、と3人で話し合う。

ほとんど寝起きに近い頭に、よく分からないロシア語を浴びせられ、決断を迫られるという状況。3人とも苛立って意見も分かれている。このおじさんたちの示す方向に行って大丈夫なのか。自分たちの安全がかかっているのだから、安直に決めるわけにも行かない。張り詰めた緊張感が漂っている。しかし、そんなふうに言い争っている中、S井は一人、東の空に浮ぶ朝日を見ていたのだった。「綺麗だな、と思って朝日の写真を撮ろうと思ったんだけど、今カメラを鞄から出したら絶対あとで怒られるなと思った」というのが、後から聞いたS井の述懐。そういえば、S井は確かになんだかひどくぼんやりと空を見上げていたような気がする。おそろしくマイペース(でもカメラを取り出さないあたりはきちんと気を遣っている)。これが彼の強みでもある。

おじさんたちをどこまで信じていいのかは分からないが、少なくとも自分たちの行こうとしていた方向はどうもダメそうだったので、おじさんたちの示していた方向に行くことにする。しかし、彼等が「荷物持ってあげるよ」みたいな感じで我々の荷物に手をかけてきたときには、3人とも大いに拒否していた。そのまま持って行かれても困るし、持ってあげたのだから金を払え、と言われるのも嫌だったので。警戒心は全く解いていなかったということだ。

ごちゃごちゃした路地裏の石段を通ってゆく。石段の端には腰掛けたりしゃべったりしている人々。浮浪者であろうか。ますます警戒しながら歩く。小柄なおじさんが道端にいた別のおじさんとしゃべっていて、その様子は、まったく、こいつら頑固で困るよ、道を教えてやってるのにさ、と言った感じで笑っているように見えた。

石段を上がって左に折れると我々の目指していたホテルが現われる。とりあえず、変なところに連れて行かれるのでなくて良かった、とひと安心。S崎はさっさとホテルに入り、後に続こうとしたS井が小柄なおじさんに捕まる。どうやら、案内したのだから金を払えと言われているらしい。まあ、もちろんそういう展開になるだろうと思っていたが。S井は10ルーブル出したが、これでは安いと言われているようだ。僕も話に加わって、結局2人で60ルーブル出したら小柄なおじさんは満足したのか帰って行った。

その話をあとから聞いたS崎は「そういうお金の取られ方はいやだ」と苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、1ルーブルは3円程度なので、60ルーブルというのは日本円にすればせいぜい180円くらい。郷に入っては郷に従え。そういう稼ぎ方をする人がいる国に来たのだったら、それくらい払ってもいいのではないかと思った。実際、彼等のおかげで目指していたホテルにたどり着いたのだし(彼等がいなくてもたどり着いてはいただろうが)。

ホテルの受付でタクシーを呼んでもらい、バイキングで朝食を摂り、10時ごろにやってきたタクシーに乗り込み、一路空港へと向う。タクシーと言っても、やはりメーターも何もない、普通のやや汚れたバンだったが。

我々のウラジオストクでの滞在時間があまりに短く、なおかつその短い滞在時間の間に起こった印象的な出来事が、勝手に道案内をされてお金を払わされるという出来事だったため、あまり良い印象を抱けないまま、ウラジオストクを去ることになる。もうちょっといろいろ見ていたら、またウラジオストクの印象も違ったのかもしれない。

そういった予感は、たとえばバンの車窓に遠い海がちらりと見えたときなどに湧き上がってきた。海のはずなのにひどく白いのだ。どうやら凍っているらしい。一面凍りついた海、それは凍ったアムール川にも増して壮観であったろう。・・・しかし、我々には時間がない。

空港の小さな土産物屋で一通りお土産を買いそろえ、残ったルーブルを換金。ルーブルから直接日本円にはできないらしく、ロシアで米ドルに換え、それを日本国内でまた日本円に換える必要があるようだ。要するに、この時点で持っているお金は、もともと換金せずにおいた日本円と、ここで換金した米ドルがほとんど、という状況になっている。

その後、税関を通って空港の待合室にいるとき、S崎が売店でビールを買ってきた。こちらではバルチックビールをはじめとする地ビールのほか、日本のビールだとアサヒビールがよく流通しているらしく、このときもS崎が買ってきたのはアサヒだった。しきりに首を捻りながら売店から戻ってくる。

どうしたのか聞いてみると、「いや、これ、1200円したんだけど」普通の、500ミリリットルの缶ビールである。他で飲んだときには日本のビールだからと言って特別高く売っているというわけでもなかったのに、空港では缶ビールが1本1200円!しかもS崎はただ高かったことに首を捻っているわけではなかった。「200ルーブルって言われたんだよ」

200ルーブルが1200円になる、ということは、1ルーブル6円のレートである。上にも書いたとおり、普通は1ルーブル3円程度のところなのに。「そうだよな、おかしいよな」鼻息を荒げるS崎。1ルーブル3円のレートで考えれば200ルーブルは600円。それでも缶ビールとしては高い気がするが、1200円というのはちょっとあまりにもおかしい。

S崎が文句を言いに行くと1ルーブル6円のレートをまた示され、すげなく追い返されてしまう。それを、お店の中にいるロシア人達が声を挙げて笑って見ているのだ。それでも「いや、俺は負けないぞ」とお店のおばちゃんと対決しに行くS崎の後姿は、一昨日ナイトバーで「抱きしめたい」を歌っていた後姿に通じるものがあり、心中ひそかに応援はしていたが、結局、S崎はビールを返品し、飲むのを諦めることになった。ルーブルはもう換金してしまって持っていないだろうことを見越して、足元を見られたのだろう。商売上手というか何というか。何か文句でもあるのかい?とでも言いたげなふてぶてしいおばちゃんが、店の奥におさまっていた。

空港の待合室で俳句を考えようと句帳を出していたら、S井が覗き込んでくる。彼も俳句をやっているので、僕がこの旅行中にどんな句を作ったのか一通り興味があるようだった。「見せて」と言うので句帳を手渡すと、ぱらぱらめくって「ふーん」といった顔で返してくる。特に彼の気に入るような句はなかったようだ。そして、次のように言った。「結局、俳句っていうのはさ、日本っていう箱庭だけで通じる文藝だと思うんだよね。俺、ロシア来てから俳句作ろうと思わなかったし」

その発言について、論理的ではない、とか、一面的だ、とか、ここで批判しようとは思わない。何せ、彼の今回のロシア旅行の印象の一つとしてそのような言葉がちらと出てきたということなのである。大事なのは、彼が実際に海外に出てみたとき、俳句では海外における自分の経験を形象化できないということを実感した、ということなのだ。

そこから先は僕がひきとって、少し俳句について考えてみたいと思う。海外詠の難しさというのは、まず第一に季語が通用しない、という点にあるであろう。季語体系が、日本の風土気候および文化そのものに根強く結びついてしまっているからだ。海外に出たら豆まきはしないし、桃の節句にお雛様も飾らないであろう。ということは、それらの季語は使えない(あるいは、使いづらい)。動植物も日本のものとは違う。では、「春雨」のような天文の季語ならどうだろう。春に降る雨なら春雨だろう、ということで「春雨」という季語を使うにしても、日本で降る雨とアフリカで降る雨では、同じ春の雨でも勢いや風情などは全然違うであろう。「春雨」という言葉が使われていれば当然読者は日本で降る春雨を想起してしまい、アフリカの春雨をうまく読者の心に浮ばせることは難しくなってしまう。

そもそも春とは何月から何月か、ということすら気候によって異なるはずで、さらに言えば、ところによっては雨季と乾季しかなく、春夏秋冬がないところだってある。二月の日本は寒い日が多いとは言え、確実に春めいているが、二月のロシアは思いっきり冬の風情であった。「白夜」のような特殊な例を除いて、季語というものを使った途端、それは日本の中にある、ある場面を否応もなく想起させてしまい、海外の情景としてその句を理解させることは困難になってしまうのだ。

これはたとえば、筑紫磐井の言を借りればこのようなことになる。

我々が普通俳句に前書きを入れないのは俳句共同体に住んでいて前書きがなくても共感できるからである。たかだか17文字で誰でも状況が分かると思ってしまうのはきわめて日本的なムラ構造の意識があるからである。(中略)外国人に俳句を理解させるには是非とも前書きが必要であろう。
これは「豈」42号中の記事「高山れおな句集『荒東雑詩』書評 俳句的(哲学的韜晦的)生活とは何か?」中で、「俳句は前書きがなければ成り立たない」と書いたあとにその説明として括弧の中に書かれた文章の抜粋である。外国は明らかに「俳句共同体」の外にあるものであろう。海外詠をきちんと行なうとすれば、その背景に膨大な説明が必要となる(厳密に言えば日本国内でも九州と北海道では気候・風土がだいぶ異なるわけだから、本来的には海外詠の場合と同様の問題が起こっているはずなのだが、逆に言えばそれは、「俳句共同体」幻想によって包み込めるぎりぎりのラインとも言えるのかもしれない)。

僕自身のこのロシア行での実感で言えば、「俳句共同体」と言ったとき、その一番核になる共通認識は気候風土によって培われる部分が大きいようだ。もしも本当に海外に腰を落ち着けて俳句を書くとすれば、その国その国の歳時記を作る気概で取り組まなければならないのではないか。即ち、S井の言葉を借りれば、箱庭をいろんな国や地域に作ってゆくのだ。・・・とてもそんな面倒なこと、自分には出来そうもないが。

腰を落ち着けず、一時的に海外に出てそこで俳句を詠む場合、それは旅吟として詠まれることになる。2泊3日でロシアに行くなどという無茶な計画で海外旅行を組む我々がそこで俳句を作るとなると、それは確実に旅吟ということになるであろう。しかし、そのように珍しい場所に行き、非日常的な環境である旅先で俳句を作ることには、次のような落とし穴もある。
誓子に限らず、蛇笏・楸邨等にも見られたことだが、大陸旅行でそれぞれ旺盛な作句欲を示しながら、伝わってくる感動が稀薄なのはどういうわけだろう。こういう旅中の触目においては、作家の目がいつしか観光客の目にすりかえられてしまうからではないだろうか。物珍しげに次々に現われる異国風景の表面を撫でて通り過ぎるだけで、生活者としての心の底から揺り動かされていないからであろう。(「定本 現代俳句」著・山本健吉)
これは、山口誓子が満州・朝鮮旅中に作った句の一つ、「掌に枯野の低き日を愛づる」の鑑賞の際に山本健吉が附した苦言(この句そのものは「珍しく主情的な潤いの滲み出ているのがよい。」と評価しているが)である。では旅吟を多く残した芭蕉はどうなのかと言えば、「風景鑑賞者としてより生活者として旅をしている。」「旅は芭蕉にとり悲しい日本の庶民の生活に触れる最上の機会であった。」と擁護している辺りが健吉らしい。

僕自身は、健吉の言うことなら何でもその通りだと思う、というわけではないが、この指摘は、自分が旅行中に句を作るときには常に意識しておきたいと思っている。珍しい異国の風景を詠むだけならば、むしろ写真を撮った方がその風景は人に伝えられるだろうし、そもそも異国の風景というのはみな感動するものなのだから、それをみなと同じように俳句にトレースしても意味がない。S井が「ふーん」と僕の句帳の句にあまり感心しなかったのも、そういうことなのかもしれない。

それでも、僕は俳句を作る。それはなぜか、と問うことにあまり意味はない。俳句こそが、何か自分の知らなかった世界へ至るための一つの突破口だと思っていて、無根拠にそう思い込んでいるという点では、ほとんど信仰に近いものなのだ。そこで、新潟行きの飛行機に乗っている約二時間の間、僕はあることを句にしようと格闘していた。それは、ロシアというものに、生活者としてかどうはともかく、単なる風景鑑賞者としてではなく触れたと思えるほとんど唯一の、ある場面であった。

それはハバロフスクで凍りついたアムール川の上を歩いたときのこと。ひととおり雪原に足跡をつけて回ったあと、岸に上がって雪原を見下ろしていたら、凍った川の上でじゃれあっている3匹の子犬を見つけた。どれも首輪をつけていないところを見ると、野犬のようだ(狂犬病の可能性があるので、海外では野犬には絶対に触れてはならない)。2匹は茶色、1匹は白。茶色同士は殊に仲が良いらしく、じゃれつき回り、お互いが上になり、下になりして絡み合っていた。それはもう、性愛とすれすれにすら見えるほどの絡み方で、そのホットな様子を見ていると、1匹だけ少し離れてひとりぼっちにされた白い子犬がなんだか少し可哀そうに思えてくるのだった。

と、そこへ子犬らと同じくらいの体格のキツネに似た犬が近づいてきた。これも野良犬のようだ。あまり食べ物にありつけないのか、やせ細り、心なしかふらふら歩いているようにも見える。子犬らはじゃれあうのをやめ、3匹ともその闖入者に対して身構えている。

先に仕掛けたのは子犬らの方だった。きんと冷えた空気に、甲高い犬の吠え声が響いた。子犬らが数を恃みにしているのは明らかだった。キツネ、みたいな犬は、彼等の傍に近づくこともできずに子犬らを見つめている。

その騒ぎを聞きつけて出てきたのは、子犬らの両親と思しき犬二匹。子犬よりもドスの利いた声で吠え立てる。両親はどうやら川に水を注ぎ入れる排水溝に潜んでいたらしく、「キツネ」が遠のいてゆくとまたそこへ帰って行って、岸から見下ろしている我々からは見えなくなった。

それ以上はよせばいいのに、やはり動物の縄張り意識の表れなのか、子犬のうちの1匹、茶色いやつが、深追いして「キツネ」を追い立てる。追われた「キツネ」はこちらの岸へ上って来た。子犬は岸までは上がらず、「キツネ」の行方を見届けると悠々と他の2匹の子犬のいる巣へと帰って行った。

「キツネ」は我々の近くで川の方を振り返ると、何度か子犬らに向かって吠え立てた。返答は返ってこない。これは、負け犬の遠吠えだった。しばらくすると、「キツネ」は空しくきびすを返して、木立の中へ消えていった。

・・・ロシアで一番印象に残ったのは、帽子に釣られての誘拐未遂よりもむしろ、この、野犬たちによって演じられた他愛もない一幕であった。「キツネ」の後ろ姿に、ロシアの寒さが一層身にこたえた。飼い馴らされていない現実を垣間見た、と思った。

では、これをロシア行の一つの成果として俳句にすることができるのか。

  氷原に飼い馴らされぬ犬と犬
  雪原を追い立てられて森深し
  縄張りの果ては夕焼ばかりなり

  野犬とはみな箱庭の外で鳴く


・・・

句帳を閉じる。どうやら、僕にはうまく作れなさそうだ。僕は作句を放棄すると、代わりに、目を瞑って野犬たちを思い浮かべる。追われたキツネよりも、追い立てなければ生きていけない子犬たちを悲しく思った。それは、人間の勝手な感傷に過ぎないであろうが。

  ×××

日本に帰ってきてから、もう、3週間になる。ロシア旅行はもちろん楽しい思い出だ。「抱きしめたい」をS崎が歌ったという一件を、僕はもう何度いろんな人に面白おかしく語ったであろう。もう少し語る時間のあるときには「実は誘拐されかけてね」なんて少しだけおどけた様子で話を始める。最後には笑いに包まれて話は終わるのだった。

しかし、時々僕は不思議に思う。自分の今いるこの日本という土地から数100キロも離れた場所には、今も確実にハバロフスクという町が存在し、そのホテルの受付に例の綺麗なお姉さんが居る。道ですれ違った花嫁は今頃ハネムーンからもう帰ってきただろうか。道を教えてくれたお姉さんは今でも早足であの町を歩いているような気がする。帽子を買いに連れて行ってくれようとしたおじいさんや、ウラジオストクの小柄なおじさんは、今何をしているだろう。そして、あの野犬は、今でもあそこで生きているだろうか。そろそろアムール川の氷も溶け始めるだろう。そうしたら、彼等はどこで暮らすのだろう。

旅は、自分たちの物語であると同時に、すれ違う人々の物語である。僕にはあの町がかもし出していた非日常が、いつしか非現実にすり替わり、今でもその町が確実に存在するという事実がなんだか不思議に思えてしまうのだ。あれは2泊3日の幻想だったのではないか。しかし、それは違う。我々にとっての非日常が、誰かにとっての日常なのだ、という、その発見のみが、世界はまだまだ広いということを実感させてやまない。

もっと旅をしよう。もっと人に会おう。そうすれば、いつか、僕の俳句も語り始めるときが来るだろう。

( 了 )



2009-03-08

山口優夢 ロシアに2泊3日で行ってきました日記 2日目「帽子に目がくらんで」

ロシアに2泊3日で行ってきました日記
2日目
「帽子に目がくらんで」 山口優夢


2月21日(土曜日)

10時過ぎ、3人ともようやくとろとろと起き出す。ホテルの朝ごはんを食べ損ねる。チェックアウトが12時と遅めに設定されていて助かった。

この日、まず何よりも最初にやっておかなくてはならないことは、航空券のリコンファーム(再確認)であった。帰りの航空券について、自分たちで航空会社に電話をかけて確かに予約が取れているか、何時の飛行機になっているかを確認しなければならないというのだ。それをしておかないと、たとえ予約があっても、もうそれを放棄したものと見做されることもあるのだとか。そんなことになったら、日本に帰れずロシアで氷漬けになるのを待つばかりだ。

ホテルの部屋の電話から、ウラジオストク航空に電話をかけようとするがなぜかつながらない。海外で使えるように設定してある自分の携帯電話でもつながらない。30分くらいあたふたした挙句、わざわざハバロフスクの総領事館に電話を入れて、ようやくリコンファームはホテルに頼むこともできることを知る。S崎も日本に電話をかけて今回の旅行を手配してくれた旅行会社の人に聞き、同じ結論を得ていた。そうとなれば、ホテルの受付に行くしかない。

我々は3人ともほとんどロシア語を知らなかったが(僕は確かに勉強したことはあったものの、素人同然である)、旅行中はロシア語をほとんど使わなくても済んだ。英語と手振り身振りでも大概はどうにかなるのだ。それで、このときもロビーにいた綺麗な女のひとに英語でリコンファームできるか聞いてみたのだった。すると、かなり流暢な日本語で「ちょっと待っててくださいね」と言い置いて彼女は奥で電話をかけ始める。・・・なんだ、日本語もできるんじゃないですか。

  日本語が異国語である暖炉かな

日本語学科で日本語を学んだという彼女のおかげであっさりリコンファーム問題は解決。チェックアウト後、夕方まで荷物を預かってもらうことや、ハバロフスク駅へ行くタクシーを呼んでもらうこと、シベリア鉄道のチケットを渡してもらうことなど、ほとんどの用事を彼女に頼る。

ロビーを見回すと、これから外に出ようというロシア人の人が何人か見受けられる。みな、分厚い毛皮を羽織り、頭には円筒形のロシア帽を被っている。いかにもあたたかそうな格好だ。僕はロシア帽を日本で買っていこうと思っていたのだが、どうせロシアに行くならロシアで買いたいな、と思ってまだ手に入れていない。そもそも、頭の大きな僕は帽子というものが似合わず、笑われるのが常なのであまり帽子を被ることがない。しかし、いつも被らないからこそ、たまには自分で手に入れてみたいのだ。だから、この日、ハバロフスクでロシア帽を手に入れることが僕のひそかな目標である。

この日は、12時にチェックアウト後は手荷物だけ持って夕方までハバロフスクの街を散策。そして、駅まで手配してもらったタクシーで移動し、夜にはシベリア鉄道に乗り込むのである。まずはホテルの部屋の窓からも見えた、凍りついたアムール川に行ってみよう、ということになる。

ホテルの出入り口は二重になっていて、外側と内側それぞれに二つずつの扉が並んでいる。面白いのは、外側と内側で左右それぞれ別の方にある扉が開くようになっているということだ。つまり、外側では右側の扉が開くようになっているとしたら、内側では左側の扉が開くようになっているのだ。このように使う扉を互い違いにすることで、戸外の寒気がまっすぐに屋内に入ってくるのを防いでいるのだろう。ハバロフスクの街中にあったショッピングモールの出入り口も、同様の構造になっていた。カフェやレストランなど、二つも扉を並べるスペースの取れないようなところでも、扉を二重にするようにはしているようだった。建物の構造はその土地の気候を端的に表していることが多く、とても興味深い。

その扉を通り抜け、凍りついたアスファルトに足を踏み出す。ホテルの周りは街の中心部からは少し離れるようで、道をゆく人はほとんどいない。積もっている雪の白さと空の青さが眩しい。そして、真昼だというのに昨夜の寒さと大して変わらない、恐ろしい寒気が体中を覆うのだった。

僕はどれくらい着込んでいたかと言うと、上は、半袖のシャツ、長袖のインナー、厚めのインナー、フリース、セーター、ダウンジャケット。下は、下着、ブレスサーモのタイツ、ジーパン。その他、耳には耳あてを装着し、その上からダウンのフードで頭全体を覆い(帽子の代わりに)、靴下は厚手のものを履き、足には防水加工を施したブーツ、それからもちろん両手には手袋を嵌めていた。これだけの格好をしていても、ホテルから出たときには両腿がずいぶんすーすーして冷えてくるのだ。まるで10年以上ぶりに半ズボンを履いたような心地だ。しかしそれは、歩いているうちに温まってくるので、どうにかなる。一番つらいのは、直接外気に触れ続ける顔面、そして雪の冷たさが徐々に染み渡ってくる足の裏であった。

ハバロフスクの冬は大変乾燥しており、だからであろうか、湿潤な日本の寒さとは質が異なる。日本の寒さは体の芯から熱を奪われてゆくような寒さだが、大陸の寒さは体の表面がギンギンに冷やされる寒さなのだ。頬と鼻の頭が真っ赤になり、痛みを伴うようになってきたので、S崎に余っているマフラーを借りて顔の下半分を覆うことにした。足の裏は、途中で懐炉をブーツの中に投入してみたもののあまり効き目がなく、これはなるべく雪の上を歩かないようにすることで対処するしかない。

人気のない眩しい道を、川に向けて歩いてゆく。戯れに積もっている雪を掬ってみると、ひどくさらさらで、三人とも驚いた。あまり水分を含んでいない、と言うとおかしいかもしれないが、日本の雪のようにべたべたしていない。砂のような感じさえする。

リコンファームをしてくれた綺麗なお姉さんが「川の上歩くのは危険だからおすすめしない」と言っていたが、実際に川まで辿りついてみると、簡単に降りられるようになっていて、ごく普通に歩いている人もぱらぱらと見かける。アムール川は川幅が広く、遠くに見える対岸にはうすく林が広がる。氷の上には厚く雪が積もり、一見するとここが川だなんて思えない、ただまっ白な雪原が広がっているように見えるのだ。

  雪原に風紋とほくつづきけり

川の上にいる人たちはただ遊んでいるわけではなく、ほとんどは、氷に小さな穴を開けて、そこから釣り糸を垂れ、魚を待っている人たちだった。あまり釣れている様子でもなかったのだが。その穴の一つを覗き込んでみると、氷の厚さは10数センチと、思ったほど厚くないことを知る。腰が引けながらも川岸へと帰った。

冷えた体を温めるため逃げるようにホテルへ帰り、ロビーでしばらく休憩した後、昼飯を食べに行こうという話になる。そういえば、朝起きてからロクにものを食べていない。だからと言って闇雲に街中を歩き回ってみてもおいしいご飯にありつけるとも思えないので、さきほどリコンファームをしてくれた受付の綺麗なお姉さんに聞いてみる。すると彼女はハバロフスク市内の地図を3枚持ってきてくれて、その地図上で道順を丁寧に示しながらおいしいロシア料理のお店を教えてくれた。

感謝しつつ再び戸外へ。やはりギンギンに寒いが、ようやく慣れてきた。インツーリストを出て左に曲がり、ツルゲーネフ通りまで出たら右に折れる。そのまましばらくツルゲーネフ通りを歩いて市内のメインになる大通りにぶちあたったら左に折れて3ブロック目の角にあるお店らしい。しかし、初めての町、方角も分からない異国、途中で何度か迷いながら、その都度道を通りかかる綺麗なお姉さんに道を聞いて(もちろん、綺麗なお姉さんを選んで道を聞いていたのである)、ようやくその近くまでたどり着いたときには3時近くになっていた。

ロシアの町をこのとき初めて本格的に散策。ハバロフスク自体が地方都市だからか、ほとんどの建物は5階建てより低く、街中で一番大きく目立つ建物は、屋根に金色のふくらみがぷっくりと施されているロシア正教の教会であった。日本のようにごみごみしておらず、ゆったりと広い道路、調和のとれた町並み、そしてその上に広がる、抜けるような青空。日本で見る空よりも青さがうすく、不思議と宇宙に近い気がした。歩道はどろどろと溶けかけたり、つるつるに凍りついたりした雪に覆われ、歩きにくいことこの上ないが、ロシア人はみな慣れているのか早足で通り過ぎてゆく。

途中、建物の中から真っ白なウェディングドレスを着た女性が出てきたのにはびっくりした。どうやらそこは結婚式場だったらしく、花婿と思しき胸に花をつけたタキシードの男性や、数人の正装した男たちが花嫁の周りを囲んで、彼女を黒い車に乗せる。その車の上には花が飾られていて、どうやらそれがこちらでの習慣のようだ。それにしても、花嫁の何に一番驚いたかと言えば、彼女、白い肩を露出しているのである。このマイナス20度の寒気の中に。ロシアの花嫁は大変だ。

地図を持って歩いていたのだから道に迷う気遣いなどなかったはずなのに、結局どこにレストランがあるのか分からず、適当なお店に飛び込むことになる。受付の綺麗なお姉さんに心の中で謝る。二重扉を通って入ると、3時だなんて中途半端な時間だったからか、店には他の客は一人もいない。それどころか、照明はやや暗いし、我々が着いた席以外の椅子は机に上げられている。この店に入って本当に良かったのだろうか、と内心不安を抱えつつ、写真入りのメニューを繰る。何はともあれロシア料理と言えばボルシチ、ピロシキ。ピロシキはないと言うので3人してボルシチを頼む。

よく、日本人の舌に合うのは結局日本にあるお店だ、という話を聞く。手に入る食材の豊富さ、日本人好みの味付けでは、結局日本にあるお店に敵うものはない、という意見だ。僕も漠然とそんな説を信じていたが、このお店のボルシチを一口食べた瞬間、それがただの迷信であった、と思い至ることになる。

  ボルシチのあぶら月夜のごとく照る

ウェイトレスが運んできた深い壺の中から、熱い湯気を上げているボルシチ、この時点ですでにめちゃくちゃ旨そう。スプーンで一口、そのスープを口に含む。僕は目を丸くした。そこにあるのは、さまざまな食材の旨みがじんわりとにじみ出た複雑な風味!・・・ああ、これでは全然あの味が伝わるはずもない。明確にあの味をここに書き表す表現力を持たないことを僕は悔やむ。いや、これはどんなに言を尽くしても伝えることは不可能だろう、ぜひ一回、ハバロフスクまで食べに来て欲しい。オリーブやパクチーなども入れられた味わい深いスープは、単一の味が強調された平板な食べ物に慣れた僕の舌を唸らせる。どうやって作られたのか分からないが、こんなにいろんな味が出てくるには、少なくとも手間と時間がかなり必要であることはわかる。3人とも絶賛しながらスープを口に運んだ。

その後、adidasなどの入ったショッピングモールを冷やかし(日本と大して変わらない)、キオスクでエロ本を買い、ぶらぶらと歩いてホテルに戻る。ロシアの街中には、六畳一間でお店をやっているような小さな商店が道の上に出ていることがある。ちょうど、日本の駅構内にあるキオスクと同じだ。食料から本までさまざまなラインナップを揃えているのだが、そのキオスクで売っていた扇情的な女の写真が表紙になっている雑誌を買ったのだった。

ドキドキしてその袋を破ると、中から出てきたのは、ところどころにかなりきわどい写真の載っている、これは確かにエロ本だ!ただし、写真は全部白黒、ほとんどのページは文章にあてられていて、どうやらこれは、エロ本はエロ本でも、エロ小説雑誌だったらしい。わざわざエロ小説をロシア語で読もうとは思わない我々は、たちまちその雑誌を持て余した。

そのころになると、実際に自分たちの足で町をぶらぶら歩いたこともあり、ここは海外安全ホームページで書かれていたことからイメージされるほど危ない町でもないのではないか、という印象が我々の中に流れつつあった。少なくとも昼間歩く分には問題なさそうだ。道を訊ねれば、言葉の通じない我々を相手にみな親切に教えてくれる。外国人だからということで馬鹿にされたり疎まれたりすることもなく、そもそも町の雰囲気が穏やかでどこにも犯罪のにおいなどありはしない。確かに注意するに越したことはないが、そんなに気にするほどでもないのではないか・・・。

ホテルに戻ったのは5時ごろ。受付のお姉さんに呼んでもらったタクシーが来るまでまだあと1時間ほど時間がある。歩きまわったため少々疲れていて、ロビーで休んでいたら、「学生さんたち?」と日本語で話しかけられた。見ると、隣のソファに、年のころは60歳くらい、小太りで穏やかそうな日本人のおじいさんだ。隣にはその奥さんらしきロシア人の中年女性。「卒業旅行なんです」異国で同郷の人に出会えた嬉しさで話も弾む。S井とS崎はあまり話す気がなかったらしく、僕だけ彼等と話しでいた。

おじいさんはロシアと日本を行き来して暮らしているらしい。僕は、自分たちはロシアに来るのは初めてで、昨日ハバロフスクに着いたところだ、今晩のシベリア鉄道でウラジオストクに向かい、そこから新潟に帰るつもりである、と自分たちの旅の話をする。おじいさんがハバロフスクのことを「ハバ」と略してしゃべっている。

ふと見ると、おじいさんはロシア帽を被っている。それは、僕がずっと欲しいと思っていたものに近いイメージの帽子で、背の低い円筒形の形をした毛皮の黒い帽子だった。さきほどまで町を散策していたときには見つけられずに諦めかけていた帽子、そう、こんな帽子が欲しかったのだ。「帽子を買いたいと思っていて」とおじいさんに話すと、「いいところがあるから案内してあげよう」ということになる。やった!

S井、S崎に言って、一人でおじいさんたちについて行く。彼等は最初から帽子には興味がない。おじいさんとロシア女性はホテルを出て、さっき我々が通った道を歩いてゆく。1人でついていったりして大丈夫かな、と、ちらと思わないではなかったものの、すぐ近くだと言うし、徒歩で行くようなので、まあ、いいかな、と歩いていった。

昼間でも人通りが少ないホテルの周囲は、夕暮が近づいてきたからか、歩いていてもほとんど人に会うこともない。さくさく雪を踏んで5分も歩くと、そこに一台の白い車が停まっていた。2人は二言三言ロシア語で言葉を交わして車に近づいてゆく。運転席には制服姿の男の人が。この車はどこをどう見ても普通の自家用車にしか見えないのだが、そしてどこにもメーターというものがないようなのだが、それでも、これはタクシーらしい。こんこん、とおじいさんが運転席の窓を叩くと、運転手が窓を開き、また二言三言ロシア語で話すとおじいさんとロシア女性は車に乗り始めた。

「えっ。車に乗るんですか」おじいさんは僕の言葉が聞えなかったのか無言で助手席に乗り込む。仕方がないので、僕も後ろの席に乗る。車に乗って遠くまで行ってしまって、万が一ホテルに帰ってくるのが遅くなったりしたらどうしよう。急に不安な心が胸に広がる。運転手は若い男だ。僕が乗ると同時に車が動き出す。車は、先ほど我々が歩いていた市街地ではなく、その反対方向にある林の方へと滑り出していった。

時間に間に合うか、という不安とは別種の不安が急激に頭をもたげて来る。・・・この車は、一体どこに行くのだろうか。「時間とか、大丈夫なんでしょうか」一同、無言で応じる。助手席のおじいさんと運転手の若い男が目線を交わし、そして、ニヤっと笑った、ような気がした。

咄嗟にポケットから携帯電話を掴みだす。二つ折りになっていたそれを開いて、かかってきてもいない電話に出る。「あ、もしもし?なに?・・・うん、あ、分かった、じゃあ、すぐそっち戻るわ」と、元演劇部とは思えないほど稚拙な演技をして、「車、止めてください。ストップ、ストップ!」と言ったら、おじいさんが「ストップ!」と運転手に言って車を止めてくれる。「予定が変わってすぐにホテルを出発しなくちゃいけないみたいなので、やっぱり帽子はいいです、僕、戻ります」と言うと、おじいさんが驚いた顔をして、「そうか、それなら仕方ないね」と言って「じゃあ、ホテルまで送って行ってあげるよ」そして、タクシーはホテルへと向かって行った。

ホテルに着くまで、僕は身を硬くしていた。ホテルと違う方向に行ったり、ホテルの前を通り過ぎたりしたときにはドアを開けて飛び降りるつもりだった。少々の怪我はするかもしれないが、「実は三人ともグルで、林の中に連れ込まれて、そこには屈強な男たちが何人も待ち構えていて、いきなり暴行を加えられ、挙句の果に有り金全部とパスポートを取られました」という最悪の事態だけは避けたかった。

しかし、何事も無く車はホテルの駐車場に入ってゆく。おじいさんは、ちょっとさびしそうな声で「そうか、誘拐とかあるから、やっぱり怖いよね」と言う。やはり僕の演技はバレバレだったらしい。それでも、嘘はつき通さなければならない。「すみません、急にホテルを出なくちゃいけなくなったみたいですから」

考えてみたら、「ストップ」と言ったときに車を止めてくれたのだから、おじいさん達は十中八九、本当にただ親切に帽子屋さんに案内しようとしただけだったのだと思う(車を止めればその時点で僕は逃げることができるのだから)。おそらく、彼等が本当に誘拐あるいは暴行あるいは強盗目的だったとしたら、僕は車に乗った時点でアウトだっただろう。実に迂闊ではあった。海外安全ホームページのコピーを持ってきた僕自身が、他の二人よりよほどうっかりしていたのである。

結局おじいさん達が僕をどこへ連れてゆくつもりだったのかは分からずじまいだし、今後も永久に分かることはないだろう。人はどんな場面でも一つしか選択肢を選ぶことはできない。あのまま車に乗り続けていたら、自分は今どこにいて何をしていたのだろうか。ロシアの寒林で冷たくなっていたかもしれないし、旅の記念のロシア帽を部屋の机に飾っていたかもしれない。

自分は危機一髪だったのだろうか。あるいは、結局自分は人を傷つけただけだったのだろうか。ああ、もう、何も分かりはしない。ただただ苦々しい思いが残るだけだ。

  雪に触れし小指の熱く痛むなり

S井とS崎の二人は僕の話を聞いてひとしきり呆れていた。女に目がくらんで、というわけでも、お酒に酔っ払って、というわけでもなく、まさか帽子に目がくらんで誘拐されかけるとは!ロビーにはおじいさん達もいたが、彼等からは目線を逸らしつつ、ホテルを出る。僕はもう帽子が欲しいとは言わなかった。旅は続く。S崎はホテルの受付の綺麗なお姉さんがよほどお気に入りだったらしく、ホテルを出てハバロフスク駅に向かうとき、ひどく名残惜しそうにしていた。「お姉さん、日本語上手ですね。どこで覚えたの?」と、果敢に切り込んでいたものの、連絡先を交換するところまではいかなかったようだ。

駅前まで出て、その近くの喫茶店で少し時間を潰し、いよいよシベリア鉄道に乗り込む。今回の旅は、もともとシベリア鉄道って乗ってみたいよね、という話があって企画されたものだったので、正にこの旅の目玉である。

駅舎は天井の高い建物で、列車を待つ人たちでにぎわっている。駅舎に入ってきた扉とは逆側の二重扉を出ると、そこに広がるのは幾列もの夜の鉄路。日本の駅のように線路より一段高くなったプラットホームがあるわけではない。線路以外には何もないのだ。列車へは、開いた扉から下ろされたタラップで乗り込む。まばらな燈火のほか灯りがなく、ここには本格的なロシアの夜の闇が広がっている。この鉄路は、シベリアの奥地へと続いているのだ。それを思うと、僕は鉄路の向こうに目を凝らさずにはいられない。

列車が来るまでの間、僕とS井が荷物の番をして、S崎に車中で食べる食糧を買い込んできてもらい、いざ3人でシベリア鉄道に乗り込む。各車両ごとに扉があって、そこにタラップが降ろされている。その傍にチケットを検札する乗務員が立っているのだが、その乗務員たちがなぜか揃いも揃ってみな女性である。鼻が高く色が白く体が大きく、毛皮に全身を包んだ美女たちが、寒そうに足踏みして乗客を待っている。我々は自分たちの乗り込む車両の乗務員さんに列車のチケットとパスポートを見せて列車に入れてもらった。

シベリア鉄道には1等、2等、3等車があり、我々が乗ったのは2等車だった。1等はずいぶんいい部屋らしいが、学生の貧乏旅行では手が出ない。正直、3等でいいと思っていたのだが、3等車は乗客がみなごちゃごちゃに放り込まれる部屋らしく、荷物をいつも管理していなければいつ盗られるか分からないし、旅行会社の人曰く、「少なくとも女性には絶対にオススメしない」そうだ。2等は、4人1室のコンパートメントで、鍵もかけることができるから、荷物の管理も楽であるし、襲われたりする心配も3等よりは少ない。

2等車の一室は、二段ベッドが二つ並んだ部屋。ベッドとベッドの間はS崎の大きなスーツケースをぎりぎり入れられるくらいしか空いておらず、思っていたよりも狭い部屋だった。どこから流れてきているのやら、部屋の中にはロシアの歌が小さめの音量で聞えている。おそらくラジオでも流しているのであろう。4人一部屋なのだが、我々以外に乗り込んでくることも無かったので、3人でその部屋を占領する。空きベッドに荷物を置けなかったら、もっと窮屈であったろう。

  汽笛冴ゆロシア全土が夜になる

車窓からは夜の景色が見える。・・・と言っても、ハバロフスク駅近くを走行しているときは多少なりとも燈火があったものの、走ってゆくうちにほとんど灯りは見えなくなり、辺りは真の闇に包まれてゆく。車窓とは逆側、我々の入ってきたドアの内側には全面に鏡が貼られていた。これはS井の説によれば「狭い車内を少しでも広く見せる工夫」なのだとか。なるほど、鏡だと分かっていてもそこに我々の部屋が映し出されれば、実際にはないはずの奥行きがあるように錯覚してしまいそうになる。

ハバロフスク発は20時。動き始めた車内で、S崎に買ってきてもらった食糧を食べる。少し酸味のある黒パン、手羽先、焼いた豚肉の塊、固いチーズ、あとはウォッカにビールといった酒の類だ。フォークも箸もなかったので、全部、手で掴んで喰らう。肉塊を噛み千切り、パンとチーズをいっしょくたに口に放り込み、ビールで口中に残ったあぶら分を洗い流す。このワイルドな食べっぷり、ちょっとした海賊気取りである。

  しんと寒しハム齧り切る星の中

肉を喰らったあと、買ってあったハムの塊も食べようということになる。ところが、ハムを包んだビニールはなかなか開けることができず、手こずっていたところ、S崎が顔を真っ赤にしながら歯でビニールを噛み千切った。おそるべし。こいつだけは敵に回してはいかん。そしてもちろん、ハムを開けた手柄で彼が最初にハムにかぶりつく栄光を手にしたのだが。

がぶり。

ハムを噛み千切った途端、S崎の顔が歪む。ハムの塊の外側は白い脂肪分が集中的に固まっている部分であり、その脂肪を思いっきり口にしてしまったのだ。実際、日本で食べるハムよりもかなり脂肪が多い感じのハムではあった。脂肪は避けるようにして肉の部分を3人で分け合って食べてゆく。

だいたい満腹になったら、昨日一人だけ早く眠ってしまってモノポリーができなかったS井が、どうしてもモノポリーをやりたいと言い出す。もともと、S井が持っていこうと提案したのだから、その欲求は当然と言えば当然である。そういうわけでモノポリーを荷物の中から取り出し、今度は3人でゲームに熱中する。と言っても、僕は後半戦では半分眠りながらではあったが。

2回ゲームを行い、2回とも僕は惨敗。自分たちでベッドメークをして午前2時ごろ就寝。僕とS井は二段ベッドの下、S崎だけ上。しきりに自分が寝床から転落しないか不安がるS崎。いつのまにかラジオは消えていて、電気を消した暗いコンパートメント内には鉄路と車輪が響くその音だけが単調に続いていた。

リコンファーム、凍った川、町の散策、誘拐未遂で、おそらくかなり疲れていたためか、いつもは寝つきの悪い僕がベッドに横たわって20秒で眠りについた。

(3日目につづく)

2009-03-01

山口優夢 ロシアに2泊3日で行ってきました日記 1日目「抱きしめたい」

ロシアに2泊3日で行ってきました日記
1日目「抱きしめたい」
山口優夢


1日目(2月20日金曜日)

旅の始まりは、久しぶりの雨だった。荷の中に折りたたみ傘は入っていたものの、すぐに差して使うためには柄の長い傘も持っていかなくてはならない。旅先の何処かで棄ててきてもいいようないい加減なビニール傘を持って家を出る。大きなスーツケースを転がして歩く僕だけが、いつもの町の中で日常からはみ出そうとしている。けれども、もちろんそんなことはこの町を行く誰も気に留めてはいなかった。

旅に同行するS井、S崎と東京駅で合流。彼等二人は今年3月で大学を卒業、今回のロシア行はその卒業旅行である。僕は彼等とは高校の同級生で、3人でつるんで遊ぶことが多かったので、この旅行にも一緒に行くことになったのだった。ボストンバッグ一つを肩にかけてきただけのS井、そして僕のものよりさらにもう一回り大きなスーツケースを転がしているS崎がやってくる。

冬のロシアはマイナス20度の世界なので、今回の旅行の準備は「防寒」が第一であり、そのためにマフラーやら毛糸帽やら耳あてやらヒートテックの下着やら、とにかくそういった装備一式をそろえてきた僕などに比べて、S井の準備は明らかに少ない。それとは対照的に馬鹿でかいスーツケースを転がすS崎は防寒具を「念のため、念のため」と大量に詰め込んだ結果の荷物であり、このあたり、性格のまるでばらばらな三人をよく表している。

12時12分東京駅発の上越新幹線に乗り込み、一路目指すは新潟駅。新潟空港からハバロフスク行きの飛行機が出ているのだ。新潟に向う車内で、外務省のホームページにある海外安全ホームページ、安全の手引きのコピーを回し読みする。僕が当日の朝、打ち出して持ってきたものだ。

これらのページでは、日本からの渡航者の安全を守ることを目的として、防犯対策や過去に渡航者が遭遇した犯罪についての情報を公開している。たとえば、「日本人の被害例」という項目はこんな具合に被害例が箇条書きされてある。

・早朝、ウラジオストク駅発の夜行列車「オケアン」号でハバロフスク駅に到着した邦人男性1人が独りで歩いたときに、背後から複数の暴漢に襲われ、パスポート、現金等を強取された上、右腕骨折、顔面打撲などの重傷を負う事件が発生した。

・乗り合いバスに乗って友人宅へ向っていたところ、いつの間にか背負っていたリュックサックが破られており、中の貴重品がなくなっていた。

・ウラジオストク駅付近のカフェで知り合ったロシア人にホテルまで送っていくと車に乗せられ、人影のない場所で車から降ろされ暴行を受けた後、金品を奪われた。

こんな被害例が二、三十件書かれている書類に目を通すうち、さすがにみんな顔が引きつってくる。決して彼ら二人をびびらせるために持ってきたわけではなく、知っておくべき情報としてこれらの書類を持ってきたのだったが、結果的にこれからのロシア行に対する不安と緊張がどんよりと三人を包み込むこととなる。「・・・このまま新潟でスキーする、っていうことにしてもいいんじゃないか」という後ろ向きな意見まで出始める始末だ。

14時16分、新潟駅着。東京よりは幾分か寒いが、ロシアの寒さにも対応できるように防寒具を重装備している三人にはどうということもない。駅からバスに乗って空港へ。低く重たい雨雲が垂れ込め、歩道と車道のあわいにどろどろと雪の残る新潟市内を車窓に見る。車道の中央分離帯に置かれた雪吊りが手ぶらで暇そうにしている。豪雪地帯の新潟も、もう春なのだ。

  雪国の春黒ずめる煙出

飛行機が新潟空港を出るのは17時40分。使用する航空会社はウラジオストク航空。出国審査を受けたあとの空港のロビーに、僕とS井は、持っていくと邪魔であろうビニール傘を棄てていくことにする。ロビーのソファにわざと置き忘れてくる、という寸法だ。傘を置いてきて飛行機に乗り込んだ数分後、金髪のロシア人キャビンアテンダントがにこやかな笑顔を浮かべ、「これ、忘れ物でしょう?」といった風情で(ロシア語なのでよく分からなかったが)、僕とS井の傘を持ってきてくれた。S崎が笑いをこらえている。ほとんどがロシア人で占められた周囲の乗客の胡散臭そうな視線を浴びながら、僕とS井は仕方なく傘を受け取るのだった。悪いことはできないものである。

飛行機の座席は右側に三列、左側に三列並んでおり、中央には細い通路があるだけ。ジャンボジェットなどに比べればだいぶ機体が小さく、シートベルト着用ランプもない。しばらくすると定刻どおり離陸。飛び上がった後、上から新潟の灯を見下ろす。街はもう夜だったが、雲の上に出ると空は紺色、まだまだ明るく、西の空に広がる雲のうえに太陽の残照が揺れていた。ああ、いよいよ引き返せないところまで来てしまったのだ。

ハバロフスク着は、現地時間20時50分。日本との時差1時間なので、飛行機に乗っていたのは、実質2時間10分。ここはロシアの中でもずっと東、日本にかなり近い、極東地域なので、モスクワなどに比べてはるかに短時間で到着するのだ。ハバロフスクの街の灯を眼下に見て、新潟の街の灯に比べどこか灯の密度が薄いという印象を受ける。

飛行機はハバロフスク空港に着き、タラップで夜の底に降りる。機内から一歩外に出た途端、経験したことのない寒気に凍りついた。寒さが体の表面にみっしりと張り付いてくる。分厚く着込んだ胴体よりも、手足や顔など寒気に晒される部位が痛い。息を吸い込むたびに体の中に細かな氷の粒子が入ってくるような感覚があり、慣れないと咳き込んでしまう。気をつけないと滑ってしまいそうな、凍りついたタラップを一段一段降りて、やはり凍りついた空港の地面に降り立つ。ロシア、第一歩。

飛行場を出ると、旅行会社に手配してもらっていたドライバーが我々一行を待ってくれていた。白く、古ぼけたバンに乗せられて夜のハバロフスクを走り出す。空港から都市部に出るまでは暗い道。まっすぐ続く道路の幅が広いこと(4車線くらいあった)、道に沿って切れ切れに出てくる家々やアパートがどれもくすんだ色をしていること、夜だからか道路に引かれた白線が見えないこと、などが日本と違っていて、異国に来たという現実を思わせる。

  穴のごとし夜のロシアの寒林は

道端に時折見える林は暗く深く、そのままシベリアの奥の森につながっているかのようだった。

10分ほど走った後、今夜の宿であるインツーリストホテルにたどり着く。ロシアでは3人一部屋に泊まるということはできないらしく、S井だけ違う部屋になる。部屋で一段落ついてから、飯を食べに行くことに。部屋にいる間は、部屋の鍵とチェーンを両方かけて、訪問者があったときには必ず誰が来たのか確認してから開けるようにする。夜間外出するのはどうやらリスクが高いようなので、ホテルの中の韓国料理屋で済ました。

その後、ホテルの11階にある「市内で一番安全な」ナイトクラブ「11」に3人で入る。ここでは22時30分から24時までトップレスショーが開催されているという話を前々から聞いていて、3人とも大変楽しみにしていたのだが、残念ながら我々が来たときにはもうそれは終わってしまっていたようだった。それぞれの席で皆がお酒を飲み、歌いたい人が前に出てカラオケをしている。

まずはウォッカで乾杯。その味は正直あまり覚えていない。覚えているのは、ウォッカが我々の胸をひりひりと焼き、むしろ体の乾きをあぶりだしてゆく、その感覚。一杯飲み干す頃にはじんじんと頭も痺れてくるのであった。さすがにこのままウォッカを飲み続けていてはやばい、と、その後はロシアの地ビールに切り替える。確かこのとき飲んだのはバルチックビールだったが、味が濃いわりに喉越しが爽やかな、おいしいビールだった(こちらはちゃんと味を覚えている)。

ロシア人たちが歌う歌は、哀愁漂う歌謡曲調のものが多かった。だれかが歌うと、それに合わせて違うグループの人たちがてんでに前に出てきて勝手な踊を踊り始める。カウンター席に薔薇の花束を残して前に踊りに出る者もある。独りで踊り狂う者もいれば、男女二人で出てきてねっとりと絡み合う者もいる。ロシア女性は皆手足が長く、胸が豊かで、踊ると迫力がある。彼女らは顔かたちも見目麗しい女性が多いが、何よりもその体型が我々とはまるで違う。すごい美人ばかりなのだ。しかし、僕と同様に見た目の冴えない東洋系の中年男性が、自分より10センチは背が高いのではないかというスレンダーな美女を3人連れて、我々が飲んでいた隅のボックス席の前を通って行ったときは、我々3人とも鼻白んだ。

  異郷とは薔薇を噛みをるナイトバー

しかしそんなあれこれとは少々距離を置きつつ、三人しておとなしく隅っこで飲んでいるうち、S崎が「俺も歌いたいんだけど」と、とんでもないことを言い出す。どうせ酔っ払って気が大きくなっているだけだろう、実際には歌いはしないだろう、と高を括っていたが、どうやら本気らしく、日本の曲の曲目リストを持ってこさせてリクエスト用紙に曲のナンバーを書き付けている。海外安全ホームページには「目立つ行動をとるな」と書かれていたじゃないか。と、言ってみてもどうやら無駄のようなので、あきらめてリクエスト用紙を奥のブースに持っていくと、やがて流れてきた曲は「抱きしめたい」(Mr. Children)。90年代前半に流行った、かなり古い曲だが、ロシアのカラオケに入っている日本語の曲はやはり少ないらしく、S崎のニーズに合うのはそのくらいだったようだ。

S崎、熱唱。「抱きしめたい。溢れるほどの思いがこぼれてしまう前に」その歌詞は、かなりストレートに愛情を表現していて恥ずかしいほどだが、なに、どうせロシア人たちには分からない。実に気持ち良さそうに歌っていると、ロシア人の男女二人が前に出てきて、曲に合わせてねっとりと踊り始めた。言葉は分からなくとも、曲の雰囲気でラブソングだと分かったようだ。音楽が国境を越えた、記念すべき瞬間であった。

歌い終えた後はまばらな拍手。しかし、この成功に気を良くして、あとに続けとばかりS井が歌ったエアロスミス、僕が歌った米米CLUBは、ナイトバーにいた誰も反応することなく、三人ともいたたまれない気分に陥ったのは、正に蛇足というほかない事態ではあった。

それでも、雰囲気に酔うこともできたし、いい気分になって午前2時過ぎに自分たちの部屋へ帰る。S井はそのまま就寝。僕とS崎は、移動中など暇な時間ができたらやろう、ということで持ってきていたモノポリーというボードゲームをついつい引っ張り出してきて、ついついやり始めてしまい、ついつい朝6時まで二人で夢中になってしまった。窓の向こうが少しだけ明るくなった頃に就寝。

  あけぼのはそろそろ雪の音するか

(2日目につづく)