〔俳句つながり〕
雪我狂流→村田篠→茅根知子→仁平勝→細谷喨々→中西夕紀→岩淵喜代子→麻里伊 →ふけとしこ→榎本享→対中いずみ→川島葵→境野大波→菊田一平→山田真砂年→土肥あき子→今井肖子→阪西敦子→大高翔
つなぐ人~大高翔さんへ
阪西敦子
前回、今井肖子さんが書かれたとおり、わたしはホトトギスという頑丈で広々した結社の箱入り娘であった。その一方で、交友関係が広いと書いてくださったとおり、ホトトギスの先輩達よりは、結社の外へ出る機会を多く頂き、「俳句つながり」に連なることともなった。この契機というか、元凶というか、であるのが大高翔さんである。これまでも、いまでも、お世話になった人は数知れず、出会いの不思議に考えさせられるのがわたしの俳句生活だけれど、とにかくこの人なしにはという大転機を与えられたのが彼女との出会いであった。
といっても、彼女は永く仮想の人であった。はじめてその名を知ってから今日まで、約14年間のうち、実際に出会うまでに6年間、その後、再会して句会などでご一緒するようになったのが更に3年後の2005年であるので、3分の2がどこかで活躍している人ということになる。そんなことなので、今回は彼女への憧れを書くということになるだろうか。
大学2年になって、ひとり暮らしにも慣れて、句会にも出始めて、向いていなかったサークルもやめて、翌年留学することにして、わたしなりに、これで行こうと決めた頃だった。大学の図書館で予習か何かに飽きて、ふと俳句の総合誌を手にとった。そこに翔さんの句集の告知があったのだと思う。高校卒業と同時に出された『ひとりの聖域』の広告であった。大学入学まで、俳句は祖母とわたしの間だけにあって、大学に入ってのちも、結社の大人たちとの句会や、せめて結社誌の誌面だけにあって、それで随分世界が広がったと満足しきっていたわたしにとって、それは驚愕であった。同年代の作家がいて、句集を出した。どちらに驚いたのかは、よくわからない。まわりに俳句をするような同年代はおらず、俳句甲子園だってなく、今のようにネットで情報がいくらでも手に入ることもなく、わたしにこそ俳句が「ひとりの聖域」であるような気がしていて、それが少し心地よかったのかもしれなかった。気になりながらも臆病と天邪鬼が顔を出して、わたしはその句集を買わず、一方で結社の句会へのめりこむ事となった。
第2句集『17文字の孤独』はわたしが留学してすぐに出版された。母から定期的に送られてくるファックスか国際電話かで、少しそのことについて聞いたように思う。毎日、新しいことに追われていた時期だったが、それは何か記憶に残った。どこかにいる同年代から受けた刺激だろうか、その年はじめて所属協会の新人賞に応募をする。
今、この句集を読めば、よくもまあ、同年代などと、刺激を受けたなどと、おこがましく考えたものだと、恥ずかしくなる。作品の質はもちろんのこと、俳句に対する気概や向き合い方、句への自己の投影の度合いや、まず自己自体の成熟度など、桁違いである。性質の違いなどでは決して切り捨てられない、信念の強さの差があって、それは今日まで、依然狭まる事がない。
笑いあう春のオルガンひくように
春の森いつも背中を見失う
夏きざす野良猫の腹なでている
出会うことに疲れていたり金魚玉
熱帯魚君から泳ぎだすもがき
危ういかもしれず言葉は海へ雪
月氷る夢のむこうへ手をのばす
やや拙い感情が年代独特でありながら、句への託し方のなんと大人であることか。艶かしい質感の言葉を用いながら、自分への向き合い方のなんと真摯であることか。詩形に跨って、その手綱を手に、駆け出さんとするところだ。
2000年より翔さんはNHKのBS俳句王国へアシスタント俳人として出演を開始され、同年わたしは就職し水戸に赴任したが、職場は常時NHKの流れるところで、土曜の出勤などのときは、仕事の合間にちらりと眺めることがあった。そんなことが2年ほど続いたある日、番組から出演の依頼を貰った。
松山へ。はじめてお会いする翔さんは、拍子抜けするほど開放的な方であった。わたしの知っている句のイメージと違うあまり、別人との思い違いかと思うほどだった。収録の前日は出演者の参加する懇親会があって、二次会、三次会とずいぶん長時間懇親したのだけれど、何を話したのかという記憶はあまりない。ただ、陽気に座を引っ張ってゆく翔さんの見せる、時折ナイーブな顔が印象に残った。やはり思い違いではなく本人なのであった。
2005年、『ホトトギス』の1300号記念の祝賀会が行われ、すでに東京に住んでいたわたしは、手伝い要員として入り口付近で記念書籍の販売をしていた。と、話し掛ける人がいるので顔をあげるとゲストで来られた翔さんだった。突然の事で、何を話したらよいのか、なんとなく近況を話すうちに持ちかけられたのが、最近、比較的年齢の近いメンバーで結社を超えた句会をはじめたので、来てみないかという誘いであった。怖いもの見たさというのだろうか、その場ですぐに「行ってみたい」という返事をした。翔さんの人をつなぐ力は、軽々と箱入りの扉を開いた。
2007年に出版された『キリトリセン』は、その「つなぐ人」としての力や思いに充たされた句集。俳句を普段読まない人に届けたい、しかしなるべくそのままの形でという、ぎりぎりの選択が、ルビではなくページの端に読みを記載する工夫であり、語句の説明であり、さまざまのデザインを凝らした表現であった。結果、俳句と無関係なわたしの友人たちの手にも取られ、回し読みされ、俳句への理解を深めてもらう事になった。
戻るすべ知らず黄落踏んでゆく
天辺はさみしきところ秋の星
風船揺れさみしくないといへばうそ
逢ふことも過失のひとつ薄暑光
花衣遠きところへ来てしまふ
どの句からも読み取れるのは、とりあえず進んでみるという姿勢である。進んでみた結果に正面から向き合い、それはそれとして受け入れ、作品となり、人となり、そしてまた、進んでみる。単純なことだけれど、そんなにたやすいことではない。臆病でまず心配から入るわたしにとって、彼女への憧れというのはそんなところから生まれる。
それさえももう、3年も前の話である。彼女はもう次へ進んでいた。この春、翔さんはニューヨークで俳句のワークショップを行った。子育ての作句の本も出された。実際はとっても大変な事なのだろうけれど、いつもふらっと現れて、やすやすと自分の計画について話す彼女を見ていると、すべてはとても自然な事に感じられるから不思議だ。自分が楽しんだ事はすべてわかちあいたいという気持ちが、彼女の原動力なのだろう。
この夏には翔さんの誘いで、彼女の故郷・徳島の阿波踊り合宿が控えている。「同じ阿呆なら…」の心意気をわけて貰ってきたい。
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2010-07-11
〔俳句つながり〕つなぐ人 阪西敦子
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2010-04-11
〔俳句つながり〕Go, Hitch,Go! 今井肖子
〔俳句つながり〕
雪我狂流→村田篠→茅根知子→仁平勝→細谷喨々→中西夕紀→岩淵喜代子→麻里伊 →ふけとしこ→榎本享→対中いずみ→川島葵→境野大波→菊田一平→山田真砂年→土肥あき子→今井肖子→阪西敦子
Go, Hitch, Go! ~阪西敦子さんのこと
今井肖子
はじめに・・・こういうとき、あまり近いところへつなげるのはいかがなものか、と思った。しかし、ほどよい距離感の句友は、すでにつながっていたり、ここで頻繁にお名前を拝見したり。それで、ホトトギス最年少同人の阪西敦子さんへ。私と違って交友関係の広い彼女、いい感じで次へつながると思う。
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手元に1冊の句集がある。『一会』と題されたそれは、敦子さんの祖母にあたる南禮子さんの遺句集。2002年、73歳で亡くなられた、敦子さんその時24歳。句集の最後に、彼女が寄せた一文があるので抜粋してみる。
小学校3年になる頃、神戸の母の実家に行った時であっただろうか、祖母に「作り作り」と言われて俳句を始めた。まもなく「出し出し」と言われ、「ホトトギス」学生の部に投句を始めた。(中略)毎月「ホトトギス」が届く頃に、その月の季題のうち幼い私にもわかりやすいものが二十ほど書き出され一言作句について書かれた手紙が来た。五七五かせめて五八五・六七五で作るように、字をきれいに書くように、(中略)手紙の裏には、セロハンテープで百円玉が数枚、前月の入選句数に応じて貼ってあることが多かった。
禮子さんは、敦子句の初めての掲載(「ホトトギス」1984年10月号)から、すべて手書きで記録されていた。それを見ると、敦子さんの記憶より作句開始は少し早い。
赤とんぼ牛のせなかでやすんでる 敦子7歳
もう一度きものをきたい七五三 同8歳
スカートでローラースケート春の風 同8歳
白酒のまねしてカルピスぐっと飲む 同10歳
かけっこでテープをきった初ざくら 同11歳
明るく闊達で、二十代から着物を着こなし、その飲みっぷりのよさでも知られている敦子像がくっきり現れているから俳句とは不思議。そして、11歳にして、初ざくら、の効いていること。さらに文章は続く。
(句を直されるのが嫌だという彼女に禮子さんは)私が五七五を気持ち良く感じるまで字余りはダメと唱え続けた。次は濁音の助詞を余り使わぬようにと私が「~の」を使うことがお洒落だなと思い始めるまで言い続け、それが済むと旧仮名使いをするようにと、私が旧仮名使いを美しいと思えるようになるまで言い続けた。最後は切れ字を使うように、切れ字がかっこいいと思うようになるまで言い続けたが、その後は「あっちゃんの字はきれいね」などと言われるようになり、祖母と句を見せ合うのも楽しくなっていった。
すごいな禮子さん、そしてまこと祖母孝行。禮子さんが亡くなって一年後に書かれたこの文章は、次の一句でしめくくられている。
悲しみは悲しみとして梅探る 敦子
梅そのものではなく、探梅。季題の力を理屈ではなく本能で感じとっている。
その2002年の4月に、初めて入った句会で私は敦子さんと出会った。24歳と48歳、まさに年令は二倍、17年と3年、句歴はオハナシにならない。若手中心のその句会でも最年少。そして、どこか不思議な雰囲気に惹かれて採ると敦子句だった。
過ぎ去りし日々の溶けたる日向ぼこ
強東風に向かひて結ぶ靴の紐
言へば言ふほどに晴れやか御慶かな
鈴蘭のことさら丸き午後となる
その頃は、実家近くの水戸から東京へ、勤務先のNHK文化センターの転勤も重なり、あれこれ大変な時期だったと思う。それでも彼女は、三十代、四十代の先輩句友にかわいがられ、のびのび俳句を楽しんでいた。兼題句会であるその句会は、点盛は無く、主宰も含め特選句評はするが、個々の句に対して、ここをこうした方がよい、と言いあうことはほとんどない。披講を聞きながら、なるほどぐっとくるなあ、そういう詠み方があったか、そうか、これではやはりだめか、とまた自分で模索する、という感じだ。
そこに敦子さんは18歳で入会し、その後28歳で超結社句会に入るまで、句会はそこひとつだけだったという。頭脳明晰であるが、どちらかというと不器用な質の敦子さん、でもその不器用さが幸いしたと私は密かに思っている。作句を始めてから二十代後半まで、約20年、自分の句と向き合って迷いつつゆっくりじっくり熟成していった。そしてその後の超結社句会での新たな刺激と、同世代の句友との出会いを経て、今の阪西敦子が在る。
文章のタイトル、「Go, Hitch, Go!」は、この3月、敦子さんが受賞された、第21回日本伝統俳句協会賞新人賞の30句作品のタイトル。作品をいくつかあげてみると
雲見れば島動きたる五月かな
あぢさゐの囲む何にもなき広場
秋の灯や吾が影いつも汝に触れて
口笛を鮒に喰はれてそぞろ寒
少年のやうに落ちたる雪しづり
ひらがなの多き街並鳥帰る
ふらここや幼馴染と揺れ揃ふ
どこかに残る不思議さと、時おり見えるようになってきた淡い情と、相変わらずの季題をとらえる本能と。三十路を越え、ますますあれこれ磨きをかけつつ、でもやはり少し不器用なままでいて欲しい、少なくとも俳句に関しては・・・と思うこの頃である。
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2010-02-07
〔俳句つながり〕信頼のトラピスト系 土肥あき子
〔俳句つながり〕
雪我狂流→村田篠→茅根知子→仁平勝→細谷喨々→中西夕紀→岩淵喜代子→麻里伊→ふけとしこ→榎本享→対中いずみ→川島葵→境野大波→菊田一平→山田真砂年→土肥あき子→今井肖子
信頼のトラピスト系~今井肖子さんのこと
土肥あき子
今井肖子さんとは、2005年春に総合誌が企画する超結社句会でご一緒したのが初対面で、現在は「新増殖する俳句歳時記」のメンバーとしてお付き合いが続いている。これは清水哲男さんが10年を満期に続けていた「増殖する俳句歳時記」が2006年で終了するにあたって、各曜日持ち回りで鑑賞してもう10年続けてみようという企画がたったとき、身の回りの詩人や俳人だけでは物足りず、本格的なホトトギス作家に参加してもらえないか、という熱い要望にあって、断られるのを覚悟でお願いしたありがたい結果である。
伝統俳句協会HPのプロフィールでは「1954年、神奈川生まれ。自分らしい俳句を求めて修行中です。私立中高で数学講師をしていますが、仕事とはまた違った感動や人との出会いがあり、俳句を始めて良かったと思っています。第十四回日本伝統俳句協会賞新人賞受賞。第十六回日本伝統俳句協会賞受賞。」と順風満帆。祖母つる女、母千鶴子という鉄板の俳句血統であるから、さぞ幼少の頃から定型に親しんで…と思っていたが、俳句を始めたのは40歳を過ぎてからという。
個人的な意見ではあるが、俳句はどんなに若い頃から始めても、やはり大人の文学であると思っている。ひとつの対象に、10や20の形容詞を見つけることができなければ到底共感も感動も、オリジナリティーも生み出すことはできないだろう。自分の語り口を確立させたうえで、もっとも適切な表現様式を見つけられることが文芸との幸せな出会いなのだと思う。その点、肖子さんは充分考えられたのち、もしかしたら身近にありすぎて、ずっと避けていたのかもしれない俳句の道に足を踏み入れたのだから、覚悟の選択といっても間違いないだろう。俳句を始めると決めたとき、母君である今井千鶴子氏は「虚子編歳時記と虚子の『五百句』だけを読むこと」と課したそうである。磐石の基礎体力を作り続けた1年ほどしたある日、「そろそろ吟行に…」と許可がおりたのだというから、これほどはっきりしたスタートラインを持つ俳人も少ないかと思う。そして、この話しを聞いたとき、季語も分からず、歳時記も持たず、ひとまず五七五と言葉を並べたことを俳句を始めた年などと指折っている我が身の覚束なさに赤面したものだ。
それにしても、10年を越す経験にも関わらず、多くのホトトギス作家がそうであるように肖子さんはまだ句集を持たない(「角川21世紀俳句叢書」に名前があるので、少なくとも21世紀中には刊行の予定だと思うが……)。
そこで、第十六回日本伝統俳句協会賞受賞作と、野分会合同句集に掲載された俳句それぞれ30句から作品を紹介したい。
「花一日(ひとひ)」と題された日本伝統俳句協会賞受賞作は、桜だけを見つめ30句を詠んだ力作である。桜はむずかしい、というセオリーに真っ向から挑戦し、それを成功させているのだから、実力とともに相当な度胸も持ち合わせている。
昨夜の雨花の匂ひのまた新た
花の影花に映りて揺るヽかな
花の風花より生れ花に消え
などの端正な作品のなかで、時折
月光の青満開の花の紅
満開の桜の色の褪せしとも
に見られる独特なアプローチに目をひく。わけても、
その幹に溜めし力がすべて花
の断定の迫力は、今までの桜句にないものと確信する。そういえば、詩人が中心の余白句会の兼題「狸」で出された肖子句の
紙芝居狸は今日も不幸せ
という、胸騒ぎを覚えさせる作品と似通う凄みがある。
一方、「野分会合同句集」に掲載されている30句は、春から冬まで移り変わる季節をゆっくりと詠んでいる。
東京に野原の匂ひ三月菜
てのひらをこぼれてゆきし子猫かな
に見られる健やかな写生。
芽柳や今日のあなたはよく笑ふ
きのふまで筍だつたかもしれぬ
森に棲めば森の言葉で寒鴉
これらの作品には、協会賞受賞作でほの見えた迫力が穏やかな力となって、肖子句の特徴として自在に充溢してきたように思える。
そして、伝統俳句協会賞、野分会合同句集に共通するのは、どちらもひとかたまりの連作として大いなる景を保っていることである。これは肖子さんの数学教師という一面が、組み合わせや整列の美を意識させているのかもしれない。
と思うと、心待ちにする第一句集も、もしかしたら1冊まるごと書き下ろし350句、なんて偉業を楽々とやってのけてしまうかも、と期待はふくらむばかりである。
ところで、タイトルの「信頼のトラピスト系」とは、ベルギービールのことである。数年前に肖子さんが出かけたベルギー旅行で描かれたというイラストに付けられていた言葉のひとつだ。1週間の滞在で徹底的にベルギービールを飲みつくそうという雄大かつ羨望の旅で、毎日スーパーに出かけてはビールを買い込んだという。見せていただいたビール瓶の林立する写真はみごとなもので、20本を超えたところで数えることを諦めた。それらをさらさらっとイラストに仕立て、それぞれの特徴をコメントしているなかで、「JOHN MARTIN'S」というビールの脇に「信頼のトラビスト系」と書かれている。要はトラピスト系のビールは間違いなく旨い、という結論に達したのである。実際に数十本を飲み比べたうえで引き出した正真正銘、体当たりの事実。
このゆるぎなさこそ、肖子さんの俳句や文章、会話の随所に感じられる信頼や安心感に通じているのだなぁと、あらためて思いいたり、タイトルにした次第である。
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