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2020-07-19

【空へゆく階段】№33 特別作品評 第三十号より 田中裕明

【空へゆく階段】№33
特別作品評 第十号より

田中裕明
「晨」1989年5月号・掲載

第三十号は発行同人の特別作品揃踏。三人の俳句を二十句ずつ読むということで、評する側もある緊張を強いられた。

宇佐美魚目氏の作品をまるで手紙を読むように読んだ。見ることと表現が一つになっている幸福を感じる。

 刈りしもの舟で運ぶや初氷

 葉の上の菜虫太陽うごきけり

 鴛鴦の束の間の日に流れをり

 叢をなす紫蘭の冷気長子生る

 鴛鴦に霰打つ日もありぬべし

 紅唇も時には氷光りけり

一句の中で完結する世界の困難さをもっとも良く知っているのは魚目氏だろう。それだけに読者に対するいざないに心がくだかれている。ある様式美にぴったりはまっている部分と非常にヴィヴィッドに動いている部分とがあって、今回の作品でも両者の平衡を楽しむことができた。それが作品にここちよい律動を生み出している。

大峯あきら氏の作品には、さきの俳句研究年鑑に書かれていた言語空間の水平化に対するアンチテーゼをつよく感じた。一方に水平化と呼ばれるような動きがあるときにどのような場所に身を置いて俳句を作るべきか、そのあたりが非常に明確に定まってまわりのものにもわかりやすくなってきたように思う。

 裏白や灯を消してあるよき座敷

 兎消え竹内峠初景色

 元日の式台にある龍の玉

 川せみも山せみも來し三日かな

 茶畠をまはつてゆくや寒見舞

 藪入はうれしき淵の蒼さかな

よき俳句の味とは反覆可能なみずみずしさのことだと作者はいう。その原稿空間の広がりが豊かであることは読者にとって喜びである。

最後に岡井省二氏。詞にあやをなして観念の具象化に専心する。俳句はもちろん道具ではないがそれだけではなくて、交換可能ななにものかであってはつまらない。

 もし手毬つづいてころげくるならば

 だんだんにあつまつてゐし春の鴨

 野焼の手はたいて三輪の山仰ぐ

 昼からや涅槃の松に馴れてをり

 花みちて河原の空をおぼえけり

作者の非常に厳しい戒律の中から生まれ出てくる俳句はもともと虚を盛るものである。その覚悟は次第にあきらかになり、読者もまたその階梯を進まねばならない。出来上がった作品の素顔は穏やかでくつろげるものなのだから、プロセスにもっと直截なものを求めたい。


解題:対中いずみ

2020-05-31

【空へゆく階段】№32 特別作品評・第八十号より 田中裕明

【空へゆく階段】№32
特別作品評・第八十号より

田中裕明
「晨」1997年9月号・掲載

 古往今来 宇佐美魚目

タイトルは魚目俳句のモチーフそのものである。二十年前に初めて読んだ時から、大きな環を描いて深化してきているけれども、なつかしい表情は変わらない。

牡丹を手桶に昼を深ねむり

眠りも魚目俳句の要素の一つ。読者をして夢に誘うような気息がある。日常、睡眠の意味などあまり考えることもないが、眠りは短い死である。そして目覚めは再生。『天地存問』の「父の忌の一としぐれまた一とねむり」はまさしく眠りの根元的な意味を教えてくれた。掲句は牡丹の花と眠り人が恐ろしいようなコントラスト。

そのはなし榾火板戸も笑ひけり

木曾灰沢と前書された八句のうちの一句。灰沢はもちろん魚目さんの曾遊の地。そしてまた今も友人と訪れるところである。炉辺に夜は更けても話は尽きない。思わず声をあげて笑うような楽しい話も、おおむね懐旧談である。その中で一番高いのは魚目さんの笑い声。

種池となりけりいまは月の山

木曾の月と言えば芭蕉の『更科日記』か。この句は種池が月を上げている。「なりけり」という措辞が絶妙。


 芥子咲いて 大峯あきら

季語を通じて時空を超越する、そういう作品である。と言うと、季語が何かの装置みただが、それよりもっと親しい手ざわりの言葉だ。

天日に木の芽触りて正午かな

木の芽という季語だけでできている。しかも木の芽というものが、何なのかを説明しているわけではない。読者の側にも木の芽という多面的な理解があることを承知のうえで、あらたにその本質を突きつけてくる。感覚的でありながら、たいへんに重い句である。

芥子咲いて祖母と遊ぶ子おとなしき

姿かたちはおとなしいが、俳句という詩のつよさ面白さを十全に味わうことのできる作品である。いま眼前におとなしい子がいるだけではない。作者にはずっと以前からの、子供が見えている。その中には作者自身もいるかもしれない。芥子咲いてという上句が、そういう時間性ももたせながら、かつ現在に定着させている。

惜春やそのもののふの母のこと

一見読む手がかりがなさそうだが、俳句はこれで十分なのだ。ここでも季語が見事。


解題:対中いずみ

2020-05-24

【空へゆく階段】№31 俳句のレシピ 特別作品評・第五十号より 田中裕明

【空へゆく階段】№31
俳句のレシピ 特別作品評・第五十号より

田中裕明
「晨」1992年9月号・掲載

富山は水のおいしいところ。或る夜、富山のホテルのバーでドライマティーニをたのんだら、これが滅法うまい。そう言ったら「マティーニなどレシピが単純なカクテルほど緊張する。」とバーテン氏。レシピをモチーフと置きかえれば、これがシンプルなほど難しいというのは俳句についても言えるなと納得した。

 歳月 宇佐美魚目

特別作品が例月の作品と形式の点でも最も異なるのはタイトルがつけられていることである。タイトルはモチーフの端的な表れで、「歳月」など最もシンプルでかつ重い思想である。『紅爐抄』の「秋燕や高齢にして見ゆるもの」を思い出した。

法然のふくふくの指蝶の空

肉桂の数幹立てる暮春かな

馬冷す大地に基壇のこりたる

ただあると見えて立像瀧殿に

弔問の木を抜けゆくに羽蟻かな

時間が魚目作品の最も重要なテーマだからと言えば、わかったような気になるけれど、問題はそう単純ではない。よけいな事柄を消し去って残るものが、たとえやや奇異な風景であろうと、リアルな相なのだ。世の中にわざわざ奇をてらうような俳句は多いが、真実の相を提示するがために読者に見慣れぬ(そしてまた同時になつかしい)景色として映る作品は少ない。そういう意味でたいへんユニークである。「瀧殿に」の句など非常に魅力を感じますが、それを十分には説明できません。

 竹酔日 大峯あきら

魚目さんとあきらさんという、これほど異なる個性の対もないだろう。以前からそう考えていたけれど今回の作品を読んで改めて感じました。それくらい違う。

吾子が嫁く宇田は月夜の蛙かな

惜春の草ただ青し国分寺

苗はこぶのみの山路と思ひけり

ここに來て礎石つめたき暮春かな

竹酔日てふ美しき日のありて

あきら俳句はあくまで現在の景である。かつてあった風景を描いているのではない。しかしながらそのモチーフはたえず蘇り、現前するものとしてある。らせんをえがきながら新しい。永遠の相。

永遠と言っても、固定したもの、不動のものではなく、たえず新しい知恵がある。

そういう目で見れば「竹酔日」というタイトルのもつ意味もわかってきます。現在ただいまの景色でありながら、たえず永遠の相と交信している。

「暮春」の句、「竹酔日」の句それぞれに宇宙の振幅を示していて、読者に予感を与える。

はじめの富山のバーに戻ってみれば、マティーニはまだ冷えたままで、夜は長い。さあゆっくり味わいなさいという感じがした。


解題:対中いずみ