【空へゆく階段】№32
特別作品評・第八十号より
田中裕明
特別作品評・第八十号より
田中裕明
「晨」1997年9月号・掲載
古往今来 宇佐美魚目
タイトルは魚目俳句のモチーフそのものである。二十年前に初めて読んだ時から、大きな環を描いて深化してきているけれども、なつかしい表情は変わらない。
牡丹を手桶に昼を深ねむり
眠りも魚目俳句の要素の一つ。読者をして夢に誘うような気息がある。日常、睡眠の意味などあまり考えることもないが、眠りは短い死である。そして目覚めは再生。『天地存問』の「父の忌の一としぐれまた一とねむり」はまさしく眠りの根元的な意味を教えてくれた。掲句は牡丹の花と眠り人が恐ろしいようなコントラスト。
そのはなし榾火板戸も笑ひけり
木曾灰沢と前書された八句のうちの一句。灰沢はもちろん魚目さんの曾遊の地。そしてまた今も友人と訪れるところである。炉辺に夜は更けても話は尽きない。思わず声をあげて笑うような楽しい話も、おおむね懐旧談である。その中で一番高いのは魚目さんの笑い声。
種池となりけりいまは月の山
木曾の月と言えば芭蕉の『更科日記』か。この句は種池が月を上げている。「なりけり」という措辞が絶妙。
芥子咲いて 大峯あきら
季語を通じて時空を超越する、そういう作品である。と言うと、季語が何かの装置みただが、それよりもっと親しい手ざわりの言葉だ。
天日に木の芽触りて正午かな
木の芽という季語だけでできている。しかも木の芽というものが、何なのかを説明しているわけではない。読者の側にも木の芽という多面的な理解があることを承知のうえで、あらたにその本質を突きつけてくる。感覚的でありながら、たいへんに重い句である。
芥子咲いて祖母と遊ぶ子おとなしき
姿かたちはおとなしいが、俳句という詩のつよさ面白さを十全に味わうことのできる作品である。いま眼前におとなしい子がいるだけではない。作者にはずっと以前からの、子供が見えている。その中には作者自身もいるかもしれない。芥子咲いてという上句が、そういう時間性ももたせながら、かつ現在に定着させている。
惜春やそのもののふの母のこと
一見読む手がかりがなさそうだが、俳句はこれで十分なのだ。ここでも季語が見事。
≫解題:対中いずみ
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