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2021-11-14

常原拓【週俳7月9月10月の俳句を読む】ウエハースとアイロニー

 【週俳7月9月10月の俳句を読む】

ウエハースとアイロニー

常原 拓


生きかたが尻とりの彼氏       湊圭伍

どこか主体性のない「彼氏」を揶揄しているようであるが、「尻とり」は相手がいてはじめて成立するもの。言葉尻を捉えて気の利いた言葉を返すという遊びから、「彼氏」のウイットに富んだ一面が垣間見える。

玉音が洩れとるパッキン替えときや  同

「玉音」という重たい言葉を「パッキン替えときや」という軽い関西弁でずらす。私の思う〈現代川柳的批評精神〉を強く感じる一句。


雨の鳥たうもろこしの花のうへ    上田信治

「雨の鳥」という措辞がいい。雨上がりではなく、おそらくまだ雨は降り続いているのであろう。クローズアップされた鳥の重さや質感が迫ってくる。

夾竹桃ジンをどぼどぼと捨てにけり  同

「どぼどぼ」と酒を捨てた経験は私にもある。少しの後悔と何とも言えないカタルシスがあったような。取り合わせた季語「夾竹桃」の暑苦しさが効いている。


配線をこぼして秋の兜虫       恩田富太

夏が終わると飼っていた兜虫は死に、卵が遺されているであろう土に霧吹きをしていたことを思い出した。「配線をこぼして」とは、コードが床に絡まり合っていることであろうか。埃にまみれて床の一部のように見えるが、そこには常に電気が通い、あらゆる家電を生かし続けている。

青蜜柑剝くやコンセントに火花    同

「コンセントに火花」は、皮を剝くときの飛沫からの連想であろうか。「青蜜柑」であることで殊更に酸っぱい匂いが漂い、 尖った青春の様相が立ち上がってくる。視覚と嗅覚で味わいたい一句。


ウエハースに鉄カルシウム小鳥来る  本多遊子

最近は栄養補助食品として売られているのをよく見かける。本来は味や栄養ではなく、食感を楽しむだけのものであったはず。なぜか付加価値を背負わされたウエハースへのアイロニーが面白い。季語「小鳥来る」との離れ具合も絶妙。

赤い羽根先だけ磨く夫の靴      同

胸の「赤い羽根」に目が行くため、靴磨きを適当に済ませたという意か。それとも、〈たすけあいの精神〉から、普段は磨かない靴を少しだけ磨いてみたのか。どちらにしても、十月、「夫の靴」がぴかぴかになることはない。




第741号 2021年7月4日 湊圭伍 あまがみ草紙 10句 ≫読む

第752号 2021年9月19日 上田信治 犬はけだもの 42句 ≫読む 

第756号 2021年10月17日 恩田富太 コンセント 10句 ≫読む

第757号 2021年10月24日 本多遊子 ウエハース 10句 ≫読む

2020-08-09

【週俳7月の俳句を読む】夏の到来 常原 拓



【週俳7月の俳句を読む】
夏の到来

常原 拓


教室中でメロスの激怒夏に入る   村上瑛

国語教科書で出合うあまりにも有名な一文。「激怒」に続く二文目の「邪知暴虐」も暑苦しい。中学生が犇く教室で、音読の声が響く。季語「夏に入る」がよく効いている。嗚呼、夏が到来したのだ。


返球は転がしてやる朝曇      同

幼子とのキャッチボール以前のキャッチボール。夢中でボールを追う姿が愛らしい。この子もいずれは球児となっていくのであろうか。猛烈な暑さの前、静かな朝のひと時が穏やかに描写された一句。


紫陽花やうらぶれつつも文具店   太田うさぎ

「うらぶれつつも文具店」。どの町にも一軒はあるのではないだろうか。曇った硝子ケース、老いた店主、独特の匂い…。年月を経ても、どこかしら残る文具店としての佇まい。そして、店先の紫陽花。紫陽花はいつも私たちの生活と共に在る花。


屈みゐし人のつと立つ渓蓀かな   同

屈んでいるのは渓蓀を愛でている人か。人にも渓蓀にも掛かる「つと立つ」という措辞で、人と渓蓀のイメージが一体化する。夏の盛り、凛とした空気が漂っている。


ささやかな独裁起こすかき氷    橋本直

鮮やかなシロップに練乳や金時で彩られたかき氷ならば、「一口頂戴」と言われても躊躇してしまうものだ。「ささやかな独裁」とは言い得て妙である。しかし、デコレーションが施されたかき氷そのものが、小さな独裁者を擁する夏の要塞のようにも思えてくる。

 
みてをれば蚯蚓になにかみえてゐる 同

蚯蚓に物は見えない。かといって、作者は蚯蚓と同化しているわけではない。作者が見ているのはあくまでも蚯蚓であり、〈見る〉ことによってその蚯蚓に何か見えていると言っているのだ。この句は、俳人の〈見る〉という主体的な行為そのもの、ひいては「客観写生」への問題提起ではなかろうか。


村上瑛 森に 10句 ≫読む
691号 2020年7月19日
太田うさぎ 息災 10句 ≫読む
橋本 直 不自然 10句 ≫読む

2019-04-21

常原拓 贖罪 10句

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贖 罪  常原 拓

四月馬鹿焼豚が吊るされてゐる
亀鳴くや易者の使ふ竹の棒
スカートの裾を抓みてシクラメン
虚子の忌の釦の多き昇降機
春灯しマトリョーシカのうす笑ひ
自転車に乗りたる巡査目借時
水筒にうつすら茶渋春の空
散るときの贖罪めきてチューリップ
春の蚊を殺めてタイの麺料理
旧端午抽斗仕切る鉄の板

2018-10-07

師系、その先へ──爽波・裕明から受け継がれているもの 2018年9月9日(日)山口昭男さんの「読売文学賞」受賞を祝う会

師系、その先へ──爽波・裕明から受け継がれているもの
2018年9月9日(日)山口昭男さんの「読売文学賞」受賞を祝う会レポート

常原拓


「秋草」主宰の山口昭男さんが句集『木簡』で、第69回(2017年度)読売文学賞を受賞された。過去の受賞者を見ると、小説賞では三島由紀夫、大江健三郎、村上春樹、村上龍ら。詩歌俳句賞では、石田波郷、飯田龍太、長谷川櫂、小澤實ら。…これは、物凄い賞なのではないか。月例の句会で受賞のことをお聞きした時、恥ずかしながら、読売文学賞のことを私はよく知らなかった。(「読売」という名前に、何か凄そうな気配は感じていたが…。これは関西人の性か。)句会の帰りにスマホで検索し、出てくるビッグネームの数々に、何故か私がビビッてしまったのであった。

先日、大雨の降る日曜日、神戸の中華料理店「東天紅」にて山口さんの受賞を祝う会が行われた。はりまだいすけ氏はじめ6名の発起人の呼びかけに、多くの関西の俳人が集まった賑やかな会であった。とは言っても、句歴2年余りの私にとっては、名前は存じているが顔を拝見したことのない人ばかりである。座席表を片手に、「あっ、この人知っている!」とか「この方の俳句、読んだことあるわぁ。」などとミーハーな気分でお声を掛けさせていただいた。田中裕明のファンである私が特にうれしかったのは、対中いずみさん、森賀まりさんとお話しできたことである。(後日、対中さんからは句集などを恵送して頂き、大変感激した。)

お祝いの会では、「山口昭男さんの俳人像と句集『木簡』を語る」という企画が行われ、3名のスピーカーの方からのお話があった。


彌榮浩樹氏は、山口さんの『木簡』の句と、その師である波多野爽波の句で文体の似ているものを対比しながら、ホワイトボードに示された。

鳥の巣に鳥が入つてゆくところ     波多野爽波
氷柱より光のぬけていくところ     山口昭男

掛稲のすぐそこにある湯呑かな     波多野爽波
盆梅のその奥にある金庫かな      山口昭男

恥づかしきものげんげ田に捨ててあり  波多野爽波
むづかしきことをしてをり金亀子    山口昭男

文体は似ているが、質感というか気配が異なることに着目され、爽波が対象をそのまま写生しているのに対し、山口さんは写生したものを〈オブジェ〉として提示しているとし、それはマルセル・デュシャンが男性用小便器に「泉」というタイトルを付けてみせたことと同じであると指摘された。

確かに、山口さんの俳句を読んでいると、「だけじゃない」何かを感じる。というか、深読みに誘うような何かを感じるのである。彌榮氏から〈オブジェ〉という言葉をお聞きして、確かに対象を〈異化〉して捉えることで、山口さんの俳句をより深く楽しむことができると感じた。それと同時に、山口さんの俳句にあるリアルな手触り、それは、俳句の礎として「しっかりと対象を見る」ということが爽波から脈々と受け継がれているからであるということも再確認することができた。


中田剛氏は、『木簡』に出てくる女の句の中から、

舌打ちの女出てくる大文字
待つてゐる女が芒持つてゐる

という二句を挙げ、そこにグロテスクさを感じると独特の語り口で話された。「グロテスク」の語源は、イタリア語の“grotto”(「小さな祠」「洞窟」という意)であり、この感覚はリアリズムでありながら境涯性が薄いことに起因するのではないかと指摘された。そこで示されたのは、山口さんのもう一人の師である田中裕明の

浮寝鳥会社の車かへしけり     田中裕明

という句である。会社の車を返すという、サラリーマンの最後の意地というか、サラリーマンであるという境涯性に依拠した句に対して、山口さんの女の句は、男に対する女とか、そういう境涯性・脈絡がない。そこにざらっとした異物感があるのだと話された。

田中裕明と山口さんの俳句の違いについて話されていたのだが、私は二人の俳句に共通点を感じることが多くある。具体的に指摘するのは難しいが、まさに中田氏の仰られていた「ざらっとした異物感」である。それは、田中裕明のいう「詩情」に近い感覚なのかもしれない。何かわからないけど何かが残る、そこが堪らなく心地よいのである。山口さんから、「思い切った句を作ればいいんですよ。ただし、そこに詩があるかどうかが問題なわけで。」と言われたことがある。「詩情」・「詩」という具体的に言い表すのが難しい何かで二人の俳句は繋がれているのだろう。

山口さんは、爽波・裕明の名前をよく口にされる。「秋草」の季語句会や言葉句会にもよく爽波・裕明の句が挙げられる。お祝い会でも山口さんから「波多野爽波先生、田中裕明さんに少しでも恩返しができた。」という言葉があった。

結社に所属していない俳人や同人誌で鎬を削っている俳人もいるが、結社に所属して主宰のもとで俳句を学んでいる俳人もまた多くいる。先にも述べたが、私は句歴2年ほどの初心者であるが、主宰の選を受けることで主宰の俳句に学んでいる一人である。山口さんも、二人の師からたくさんのことを学んでこられたのだということが、彌榮・中田両氏のお話を伺ってから、改めて『木簡』を読み返してみて、よくわかった。言葉面だけではなく、骨肉となって俳句に滲み出てくる師系の色というか、影響の強さを感じずにはいられなかった。


川柳作家の樋口由紀子氏は、山口さんは物書きにしては普通の人であり、しっかりと物をよく見て作られた俳句も平明でわかりやすいが、何かが変であるとして、

何するでなく蠅叩もつてをり
月を待つみんな同じ顔をして
黄落よ立方体のクルトンよ


等の句を挙げられた。『木簡』の俳句に貫かれているのは、人を疑わない・あれこれ迷わない・自分を大きく見せようとしないという山口さんの人柄であり、「少年の薄暗さ」ではなく「少女の可愛らしさ」を感じるという。

普段の山口さんを知る私は、残念ながら山口さんから「少女の可愛らしさ」を感じたことは一度もない。しかし、結社誌『秋草』において、橋本小たかさんが山口さんのことを「無欲の変態。または愛敬」と評していたことを思い出した。何かを狙っておかしなことをするのではなく、真面目な人が真面目な顔をしたまま思いっきりずれたことをしているときほど、おかしいことはない。いたって真面目に蠅叩を持っていたり、黄落にクルトンを感じていたりする。そう、この感じ。少女的なのかどうかは置いておいて、確かに可愛らしさを感じるかもしれない。少女的・変態・愛敬など様々な言葉で語られるところに、山口昭男俳句の確固たる独創性があるのではなかろうか。

これから山口さんの俳句はどう進化していくのであろうか。また、私たち「秋草」に集うものはどのような俳句を残していくことができるのであろうか。波多野爽波・田中裕明・山口昭男、そして、その先について考えるよい機会となった。

【追記】
お祝いの会の日の午前中、「山口昭男先生お祝い句会」が開かれた。参加者は、黒岩徳将さんの呼びかけで集まった若手俳人の方たちと「秋草」のメンバーを含め総勢18名であった。約5時間で、持ち寄り句会(7句出句)、言葉句会(主宰から7つの言葉が提示され、その言葉を使った俳句を7句出句)、季語句会(主宰から7つの季語が提示され、その季語を使った俳句を7句出句)を行うという過酷な句会であった。(私は季語句会が始まる前に中座したのだが…。ちなみに「秋草」では年に数回、このような鍛錬会・稽古会がある。)普段の「秋草」の句会では見られない句もたくさん出され、大きな刺激を受けた。「俳人は俳句で勝負をしないと駄目なんですよ。」という山口さんらしい企画であった。